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今さら泣きついてこないでください  作者: 小林翼


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5

王都の下町、石畳の路地裏に面した小さな家。壁に這う蔦が秋の色に染まり、煙突からは細い煙が上がっている。フィオナがその扉を叩くと、しばらくして不機嫌そうな声が返ってきた。


「誰だ。わしは隠居した身だ。用があるなら公爵家に行け」


「公爵家の者が参りました。フィオナ・ヴァランティーヌです」


扉の向こうが静まり返った。やがてゆっくりと扉が開き、白髪の小柄な老人が顔を出した。マティアス・グレンデル。鉤鼻と鋭い目つきは年を取っても変わらず、まるで数字の化身のような風貌をしている。


「お嬢様……? なぜこんなところに」


「マティアスさん。中でお話ししてもよろしいですか」


居間は質素だが整頓されていた。本棚には帳簿や会計の専門書がびっしりと並んでいる。引退してなお、この人は数字とともに生きているのだ。


フィオナは単刀直入に切り出した。婚約破棄のこと、商会設立の計画、そして彼の力が必要であること。


マティアスは黙って聞いていた。時折、帳簿に目を落とし、数字を確かめるように指で行を追う。フィオナの事業計画書を最後まで読み終えると、老人はゆっくりと顔を上げた。


「この試算の根拠は何だ」


「ルミエール周辺の農業生産量から逆算した需要予測です。保存食の潜在市場は——」


「いや、そこではない。このガラス瓶の原価が異様に安い。どうやって実現するつもりだ」


フィオナは思わず笑みを漏らした。さすがだった。計画の中で最も楽観的に見積もった部分を、一読で見抜いてくる。


「ルミエール近郊にガラス工房が二軒あります。現在は需要不足で経営が苦しく、大量発注を持ちかければ値引きに応じるはずです。ただし、ご指摘の通り初期の原価はもう少し高くなる可能性があります。そこは修正します」


マティアスは目を細めた。


「……三十年、公爵家で帳簿を見てきた。お嬢様がまだ幼い頃から知っている。いつも数字に興味を示す変わった子だと思っていたが、まさかここまでとは」


「力を貸していただけますか」


老人はしばらく天井を見上げ、それから小さく頷いた。


「隠居生活は退屈で死にそうだったところだ。最後にもう一仕事、やらせてもらおう」



次に向かったのは、王都の外れにある傭兵たちの溜まり場だった。


石造りの酒場は昼間から薄暗く、酒と汗の匂いが充満している。フィオナの身なりは明らかに場違いだったが、臆することなく中に足を踏み入れた。マティアスが後ろで眉をひそめている。


「リュシエンヌという方はいらっしゃいますか」


酒場が一瞬静まり返り、次の瞬間、笑い声が弾けた。


「お嬢様が剣士をお探しか!」

「リュシエンヌなら奥だ。今日も誰かに喧嘩を売られてるぜ」


奥の席で、確かに騒ぎが起きていた。大柄な傭兵が椅子を振り上げ、その前に短い赤髪の人物が立っている。男物の上着を着崩した細身の体。腰には使い込まれた細剣。


「女の分際で騎士気取りか。身の程を——」


大柄な男の言葉が終わる前に、赤髪の人物が動いた。椅子を振り下ろす腕を掴み、体重を利用して投げ飛ばす。男は床に叩きつけられ、うめき声を上げた。


「身の程、ね」


低いが涼やかな声。リュシエンヌは倒れた男を一瞥もせず、フィオナの方を振り返った。碧い瞳が訝しげに細まる。


「あんた、ここじゃ見ない顔だな。何の用だ」


「フィオナ・ヴァランティーヌと申します。あなたに仕事の話を持ってきました」


「ヴァランティーヌ……公爵家の?」


リュシエンヌの目に警戒の色が走った。貴族の名前は、彼女にとって良い記憶と結びつかないのだろう。


「場所を変えましょう。ここでは落ち着いて話せません」



近くの茶館に場を移した。リュシエンヌは出された紅茶に口もつけず、腕を組んでフィオナを見据えている。


「商会の護衛と交渉役をお願いしたい。報酬は月給制で、傭兵稼業の倍を保証します。住居も用意します」


「……護衛はまだ分かる。交渉役ってのは何だ」


「取引先との折衝です。あなたには度胸と判断力がある。先ほどの立ち回りを見てそう確信しました」


リュシエンヌは片眉を上げた。


「買い被りだろ。あたしは騎士団に入れなかった半端者だ」


「騎士団が女性を拒んだのは、あなたの実力が足りなかったからではありません。制度の問題です。私の商会に、そのような制度はありません」


フィオナの言葉に、リュシエンヌの表情が微かに揺れた。強がりの鎧の下に、長年の悔しさが見えた気がした。


「……あんた、面白いな」


「よく言われます。嘘ですけど」


リュシエンヌが初めて笑った。鋭い顔に浮かんだ笑みは、意外なほど人懐こかった。


「いいぜ。ただし、つまらない仕事だったら即辞めるからな」


「つまらなくはならないと約束します」



二人の仲間を得て、フィオナは公爵邸の客間に彼らを集めた。マティアスは帳簿を抱え、リュシエンヌは壁に寄りかかって腕を組んでいる。対照的な二人だったが、フィオナの言葉に耳を傾ける目は同じように真剣だった。


「ルミエールに拠点を構えます。出発は十日後。それまでに準備を整えましょう。マティアスさんには資金管理と帳簿の設計を。リュシエンヌには移動ルートの安全確認と、ルミエールの傭兵市場の下調べをお願いします」


「承知した。ところでお嬢様、もう一人ほど手が足りんぞ。市場の動向を追う人間が必要だ」


「それはルミエールで見つけるつもりです。現地の事情に明るい人間でなければ意味がありません」


リュシエンヌが壁から背中を離した。


「あたしからも一つ。あんたのこと、何て呼べばいい? お嬢様ってのは商売向きじゃないだろ」


フィオナは少し考え、それから微笑んだ。


「フィオナで構いません。商会では対等です。お嬢様も、殿下も、もう必要ありませんから」


リュシエンヌとマティアスが顔を見合わせた。老経理士は小さく唸り、女剣士は口角を上げた。


「フィオナ、か。いい名前だ」


「では改めて。ヴァランティーヌ商会の門出を祝して——」


フィオナは紅茶のカップを掲げた。マティアスとリュシエンヌも、それぞれのカップを持ち上げる。


「私と一緒に、この国の常識をひっくり返しませんか」


三つのカップが静かに触れ合った。ささやかで、けれど確かな誓い。この国を変える物語が、ここから始まる。

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