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翌朝、フィオナの目に泣いた痕跡はなかった。冷水で顔を洗い、髪をきちんと整え、書斎に向かう。今日から彼女は公爵令嬢ではなく実業家だ。少なくとも心の中では。
書斎の大きな机に帳簿と地図を広げ、フィオナは事業計画の詳細を詰め始めた。
まず確認すべきはレグランド王国の経済構造の全体像だった。
この国の産業は大きく三つに分けられる。農業、手工業、そして交易。農業が国の富の六割を占め、手工業が二割、残りの二割が国内外の交易による利益だ。
問題は、この三つすべてが非効率的であること。
農業は各領主が独自に管理しており、領地を越えた流通が貧弱だった。ある地方では穀物が余って腐り、別の地方では飢饉が起きる。理由は単純で、保存技術と輸送手段が未発達だからだ。
手工業は商人ギルドが独占しており、新規参入を徹底的に排除していた。品質は安定しているが、技術革新が起きない。価格は高止まりし、庶民には手が届かない品物が多い。
交易は港湾都市ポルトメールを通じて近隣諸国と行われているが、これも旧来の慣行に縛られて非効率的だった。
前世の知識を持つフィオナの目には、改善点が山のように見える。しかし一度にすべてを変えようとすれば失敗する。前世の商社で学んだ最も大切な教訓は、最初の一歩を間違えないこと。
ペンを走らせながら、フィオナは事業の第一段階を固めていった。
最初の事業は保存食だ。
前世の日本には様々な保存技術があった。瓶詰め、缶詰、塩蔵、燻製、乾燥。この世界にも塩蔵や燻製は存在するが、密閉瓶詰めの技術はまだない。ガラス瓶はあるものの、加熱殺菌して密封するという発想がないのだ。
瓶詰め保存技術を導入すれば、果物や野菜、肉の煮込みなどを長期間保存できるようになる。農家は余剰作物を無駄にせず、消費者は季節を問わず多様な食品を手に入れられる。軍にとっても兵站の改善に直結する巨大な需要がある。
フィオナは地図を広げた。
「拠点はルミエールが最適」
ルミエールはレグランド王国の中央部、三本の主要街道が交差する地方都市だ。王都からは馬車で五日の距離。人口はおよそ二万人で、周辺に豊かな農業地帯を抱えている。
王都で商会を開く選択肢もあったが、フィオナはあえて避けた。王都は商人ギルドの本拠地であり、政治的な干渉も受けやすい。何より、婚約破棄されたばかりの公爵令嬢が王都で商売を始めれば、好奇の目に晒されて本来の事業に集中できなくなる。
ルミエールなら街道の結節点として物流の利便性が高く、ギルドの影響力も王都ほどではない。農家との直接取引も容易だ。
フィオナは試算を始めた。
初期投資として必要なのは、拠点となる倉庫の賃借料、ガラス瓶の大量発注、加熱殺菌用の設備、そして人件費。概算で金貨五百枚。父から出してもらえる開業資金で十分に賄える。
利益が出始めるのは三ヶ月目と見込む。半年で初期投資を回収し、一年後には第二の事業に進出する。
第二の事業は石鹸と香水の製造だ。この世界の石鹸は動物性脂肪を煮て作る粗悪なもので、匂いも強く、貴族は香油で誤魔化している。前世の知識があれば、植物油をベースにした上質な石鹸を作ることができる。香水も蒸留技術を応用すれば、はるかに洗練されたものが作れるはずだ。
保存食で庶民の実需を掴み、石鹸と香水で貴族の需要を取り込む。二つの柱で事業基盤を固める。
ペンが止まった。
計画は整った。問題は人だ。
フィオナは帳簿を閉じ、椅子の背にもたれた。
一人では何もできない。前世でも痛感した真実だ。どれだけ優秀な企画書を書いても、それを実行する仲間がいなければ紙の上の夢で終わる。
必要な人材は三種類。数字を管理できる経理の専門家。外部との交渉と護衛を担える実行力のある人物。そして市場の生の声を拾える情報収集役。
「マティアスさん……」
最初に思い浮かんだのは、公爵家で三十年間経理を務め、昨年引退した老人の名前だった。気難しいが数字に関しては王国随一の目を持つ人物。引退後は王都の片隅で悠々自適に暮らしているはずだ。
護衛と交渉役については、ある噂を思い出した。社交界で「男装の女剣士」と呼ばれている人物がいる。騎士団への入団を志願して性別を理由に拒否された女性。名をリュシエンヌというらしい。実力は確かだが、居場所を失って傭兵まがいの仕事をしているという。
情報収集役は……まだ当てがない。だがルミエールに行けば見つかるだろう。市場には必ず、数字に敏感な人間がいる。
フィオナは新しい頁を開き、人材リストを書き始めた。名前の横に、それぞれの能力と、口説くための作戦を添えて。
「いい計画ですね、お姉様」
不意に声がして振り返ると、書斎の扉の陰から弟のギルベルトが顔を覗かせていた。十六歳の少年は姉に似た蜂蜜色の髪と、悪戯っぽい瞳を持っている。
「立ち聞きとは感心しないわね」
「ドアが開いていたので。それより、僕にも手伝えることはありませんか」
フィオナは微笑んだ。この弟は聡明で、何より姉思いだった。
「今はまだいいわ。でもギルベルト、あなたにはいずれ大事な役目をお願いするかもしれない。王都に残って、宮廷の動向を見ていてくれる?」
「スパイですか。燃えますね」
「スパイじゃなくて情報収集よ」
二人は顔を見合わせて笑った。婚約破棄の翌日にしては、悪くない朝だった。




