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今さら泣きついてこないでください  作者: 小林翼


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3

ヴァランティーヌ公爵邸の書斎は、重厚な樫の木の本棚と革張りの長椅子に囲まれた、屋敷で最も落ち着く部屋だった。暖炉の火が爆ぜる音だけが響く中、公爵レオポルド・ヴァランティーヌは娘の話を聞いていた。


「——以上が、謁見の間での一部始終です」


フィオナが淡々と報告を終えると、公爵は革張りの椅子から立ち上がった。温厚で知られるこの男の顔が、今は怒りで赤く染まっている。


「あの小僧が……! ヴァランティーヌ家を愚弄するか!」


拳が机を叩き、インク壺が跳ねた。


「お父様、落ち着いてください」


「落ち着けるか! わが家は五代にわたって王家を支えてきた。街道の整備も、物流の管理も、すべて我が家が担ってきたのだ。その恩を仇で返すとは——」


「だからこそ、です」


フィオナの静かな声が、父の怒りを遮った。


「お父様。これは好機です」


公爵が怪訝な顔でフィオナを見た。婚約を破棄された娘が、好機と言った。


「どういう意味だ」


「お座りください。お話ししたいことがあります」


フィオナは書斎の机から一冊の帳簿を取り出した。革の表紙に金文字で「私案」と刻まれたそれは、フィオナが五年間かけて密かに書き溜めたものだった。



「お父様はご存じの通り、この国の物流はヴァランティーヌ家が管理する街道と倉庫に大きく依存しています。王都から各地方都市への主要街道八本のうち、五本が我が家の管轄です」


帳簿を開き、フィオナは数字を指し示した。


「しかし現状では、この物流網は王家への忠誠のもとに無償に近い形で提供されています。通行料は名目程度。倉庫の使用料も原価割れ。父上、この五年間で我が家がどれだけの持ち出しをしているかご存じですか」


公爵は沈黙した。ヴァランティーヌ家は名門であり裕福だが、それは広大な領地の収入があるからであって、物流事業単体では赤字が続いていた。それを代々、名誉のために甘受してきた。


「年間およそ金貨八千枚です。これは我が家の年間領地収入の約三割にあたります」


「……そこまで正確な数字を把握しているのか」


「五年間、毎晩帳簿と向き合いました」


公爵の目が見開かれた。フィオナは続けた。


「私が提案したいのは、独立した商会の設立です。ヴァランティーヌ家の物流網をベースに、けれどそれだけに頼らない新しい事業を展開します。保存食の改良と販売。日用品の製造。いずれは金融——信用取引の仕組みも導入したい」


「商会だと? 公爵家の令嬢が商売をするなど——」


「婚約を破棄された公爵令嬢には、もう守るべき体面などありません」


言い切った声には、微かな苦みが混じっていた。公爵がはっと娘の顔を見る。


「……フィオナ」


「大丈夫です、お父様。私は、自分の力で立ちたいのです。この国の経済構造には大きな欠陥があります。物流、製造、金融——すべてが旧態依然としている。それを変えることができれば、ヴァランティーヌ家はより盤石になり、私も……」


フィオナは言葉を切った。


「私も、自分が生きている意味を見つけられる気がするのです」


長い沈黙が落ちた。暖炉の薪が崩れる音がやけに大きく響いた。


公爵は娘の帳簿を手に取り、一頁一頁、丁寧にめくった。そこには物流コストの分析、市場規模の推計、競合分析、初期投資の試算まで、驚くほど精密な事業計画が記されていた。どの頁にも、フィオナの細くて正確な文字がびっしりと並んでいる。


「……五年間、これを」


「はい。いつか必要になると思っていました。まさかこんな形になるとは思いませんでしたが」


公爵は帳簿を閉じ、深く息を吐いた。そしてフィオナの目をまっすぐ見つめた。


「開業資金を出そう」


「お父様……」


「ただし条件がある。月に一度、経営状況を報告すること。そして——無理はするな」


最後の一言に、父親の声が震えた。フィオナは小さく頷いた。


「ありがとうございます」



その夜。


フィオナは自室の寝台に座り、膝の上に帳簿を広げていた。開業計画の頁を見つめながら、ペンを持つ手が止まっている。


窓の外では月が煌々と輝いていた。銀色の光が部屋に差し込み、フィオナの横顔を照らす。


ぽたり、と。


帳簿の余白に、水滴が落ちた。


涙だった。


完璧だが面白みがない——ルシアンの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。三年間、隣に立ち続けた。退屈だと分かっていても、いつか振り向いてもらえるかもしれないと、心のどこかで期待していた。


その期待が、今日、正式に死んだ。


フィオナは帳簿を閉じ、両手で顔を覆った。声を殺して泣いた。肩が震え、息が詰まり、それでも声だけは漏らさなかった。公爵令嬢は泣き顔を見せない。前世の藤野真奈美も、会社のトイレでしか泣かなかった。


どちらの人生でも、泣くのはいつも一人だった。


どれくらいそうしていたか分からない。やがてフィオナは顔を上げ、目元を拭い、帳簿を再び開いた。涙の染みを指先で撫でる。


「泣くのは今日だけ」


自分に言い聞かせるように呟き、ペンを取った。帳簿の新しい頁に、一行目を書き込む。


「ヴァランティーヌ商会——設立準備」


文字は少しだけ歪んでいたが、筆跡は力強かった。

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