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謁見の間は、王宮の中でも特別な空間だった。天井まで届く大理石の柱が左右に並び、深紅の絨毯が玉座まで一直線に敷かれている。壁面には歴代国王の肖像画が掛けられ、その厳かな視線が部屋全体を見下ろしていた。
フィオナが入室すると、すでに全員が揃っていた。
玉座にはレグランド国王フリードリヒ三世と王妃マルグリット。その傍らにルシアンが立ち、さらに少し離れた位置にヴァレリア・モンフォールが控えている。
ヴァレリアがいる。
その事実だけで、フィオナの予感は確信に変わった。
「フィオナ・ヴァランティーヌ、入室を許す」
国王の声は低く、どこか疲れたような響きがあった。王妃の表情には明らかな不快が滲んでいる。ルシアンに対する不快だ。この場が設けられたこと自体を、王妃は快く思っていないらしい。
フィオナは完璧な所作で一礼し、絨毯の上を進んだ。背筋を伸ばし、顎を引き、視線はまっすぐ前へ。公爵令嬢として叩き込まれた作法が、こういうときに体を支えてくれる。
「フィオナ」
ルシアンが口を開いた。その声には震えがあったが、隣のヴァレリアがそっと彼の袖に触れると、まるで勇気を注入されたように背筋を伸ばした。
「単刀直入に言う。俺は——私は、お前との婚約を解消したい」
広間に沈黙が落ちた。
国王が目を閉じ、王妃が小さく息を呑む。ヴァレリアだけが、控えめな——しかし明らかに計算された——微笑みを浮かべていた。
「理由をお聞きしてもよろしいですか」
フィオナの声は驚くほど平静だった。自分でも感心するくらいに。
「ヴァレリア嬢には聖女の素質がある。この国を守るためには、聖女の力を持つ者が王妃となるべきだ。それに——」
ルシアンは一度言葉を切り、意を決したように続けた。
「お前は優秀だ。完璧だと言ってもいい。だが、俺の隣にいるべきはもっと……その、心が通じ合う相手だと思うんだ」
心が通じ合う相手。フィオナは内心で苦笑した。三年間、通じ合おうと手を伸ばし続けたのはこちらだけだった。あなたは一度も、こちらに手を伸ばさなかったではないか。
しかしそんな言葉を口にしたところで何になるだろう。
「承知いたしました」
フィオナが微笑んだ瞬間、広間の空気が揺れた。
国王が目を見開き、王妃が眉をひそめ、ルシアンが困惑した顔になる。ヴァレリアの微笑みだけが、ほんの一瞬だけ凍りついた。
「……承知した、と言ったのか?」
「はい。殿下がそうお望みなら、私に異存はございません。婚約は双方の合意があって成り立つもの。片方が望まないのであれば、それを維持する意味はないでしょう」
フィオナは深く一礼した。
「三年間、婚約者としてお傍に置いていただき、ありがとうございました。ヴァレリア様、殿下をどうぞよろしくお願いいたします」
ヴァレリアが一瞬、返す言葉を失った。泣きすがるか、怒り狂うか——そのどちらかを期待していた顔だった。フィオナの穏やかな祝福は、彼女の用意した筋書きにはなかったらしい。
「あ……ええ、もちろん。ありがとうございます、フィオナ様」
ヴァレリアが取り繕うように微笑む。その瞳の奥に、警戒の色がちらりと覗いた。
「フィオナ嬢」
国王が重い声を発した。
「ヴァランティーヌ公爵家には、改めて書面にて正式な通達を送る。……済まなく思っている」
「もったいないお言葉です、陛下」
退室する際、フィオナは一度だけ振り返った。ルシアンは安堵したような、それでいて居心地悪そうな顔でヴァレリアを見つめている。ヴァレリアは勝ち誇った笑みを浮かべながら、ルシアンの腕に自分の手を添えていた。
その光景を目に焼き付けて、フィオナは謁見の間を後にした。
王宮の回廊を歩きながら、フィオナは自分の心臓の音を聞いていた。
速い。思っていたよりもずっと速い。
手も、少しだけ震えている。
完璧に振る舞えたと思う。泣かなかった。取り乱さなかった。ルシアンに未練がましい言葉をかけることもなかった。けれど——。
愛してはいなかった。それは確かだ。政略結婚の相手に恋愛感情を抱くほど、フィオナは夢見がちではない。
ただ、三年間の努力を一言で否定されたことが。
完璧だが面白みがない、と暗に言われたことが。
隣にいる価値がないと判断されたことが。
喉の奥が熱くなるのを、フィオナは奥歯を噛んで堪えた。泣くのは後だ。この王宮を出るまでは、公爵令嬢フィオナ・ヴァランティーヌでいなければならない。
馬車に乗り込み、王宮の門が遠ざかるのを窓越しに見つめながら、フィオナは胸の中で一つの決意を固めていた。
もう誰かの隣で微笑むだけの人生はいらない。
次は、自分の足で立つ。
馬車が石畳の上を揺れるたびに、フィオナの頭の中では数字が動き始めていた。レグランド王国の年間穀物流通量。主要街道の通行料収入。港湾都市の輸出入額。前世で叩き込んだビジネスの知識と、この世界で蓄えた情報が、一つの計画の輪郭を描き始めている。
公爵令嬢のままでは何も変えられなかった。
けれど婚約者でなくなった今、フィオナ・ヴァランティーヌはようやく自由だ。
唇の端に、小さな笑みが浮かんだ。今度の笑みには、完璧な令嬢の仮面はない。商社で数字と格闘していた頃の——戦う前の、あの笑みだった。




