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通商協定の追加条項を詰めるため、アレクシスが再びルミエールを訪れた。
表向きは公務だった。保存食の初回納入に関する品質基準と輸送手順の協議。しかし宰相自らが出向く必要があるかと言えば、部下の外交官に任せても十分な内容だった。そのことに、アレクシス自身も気づいていた。
協議は二日間で終わった。滞在最終日の夜、フィオナは商会の成功を祝う小さな宴を開いた。
倉庫の二階に長テーブルを出し、近隣の食堂から料理を取り寄せた。商会の従業員たちと、アレクシスの随行員も交えて、ささやかだが温かい宴になった。マティアスが珍しくワインを飲み、リュシエンヌが従業員の女性たちと腕相撲をして負け、テオが料理を山のように皿に盛って黙々と食べている。
フィオナは皆の様子を見渡しながら、ワイングラスを傾けた。三ヶ月前は公爵邸の寝室で一人泣いていた自分が、今こうして仲間たちに囲まれている。不思議な気持ちだった。
宴が落ち着いた頃、フィオナは一人で中庭に出た。倉庫の裏手にある小さな空き地で、昼間はリュシエンヌが剣の素振りをしている場所だ。秋の終わりの夜気は冷たく、息が白く曇る。
見上げると、満月が澄み切った空に浮かんでいた。
「月が綺麗だな」
背後から声がした。振り返らなくても分かる。
「アレクシス閣下」
「二人のときは名前でいい。茶館のときはそうだっただろう」
アレクシスがフィオナの隣に並んだ。外套を着ておらず、白いシャツの上に薄手の上着だけを羽織っている。銀色の髪が月光を浴びて白く光っていた。
「寒くありませんか」
「北方の人間にとって、この程度は春の陽気だ」
しばらく二人とも黙っていた。月明かりの下、互いの呼吸の音だけが聞こえる。
「あなたの商会は、良い空気だな」
アレクシスが静かに言った。
「従業員が楽しそうに働いている。あの老人——マティアスさんも、少年のテオも、居場所を見つけた顔をしている」
「居場所を作りたかったんです。自分自身の、そして一緒に働く人たちの」
「……私にはそれが、少し眩しい」
フィオナはアレクシスの横顔を見た。月明かりに照らされたその表情には、普段の冷静さとは違う翳りがあった。
「眩しい、とは」
アレクシスはしばらく口をつぐみ、やがて話し始めた。
「私は孤児だ。生まれてすぐ公国の孤児院に預けられ、名前も顔も知らない親のもとで育った。孤児院では読み書きと算術を教えてくれた。私には数字の才能があったらしく、十四で官吏の試験に合格し、十六で財務局に入り、二十で財務次官、二十二で宰相になった」
淡々とした口調だったが、その淡々さの下に抑え込まれた感情の重みが透けていた。
「数字で結果を出し続けた。それだけが、自分の存在を証明する手段だった。家もない。血縁もない。私を定義するものは、実績しかなかった」
「アレクシス……」
「だから、あなたの商会を見ると眩しいんだ。数字だけではなく、人との繋がりで組織を動かしている。私には、そういう場所を作った経験がない」
フィオナは月を見上げた。ルシアンのことを思い出した。あの人にも、こういう孤独があったのだろうか。いや、違う。ルシアンの孤独は怠惰から生まれたものだ。アレクシスの孤独は戦い続けた末に残ったものだ。同じ孤独でも、重さが違う。
「私も、ずっと一人でした」
フィオナは言った。前世の記憶は明かせない。けれど、本当のことを伝えたかった。
「幼い頃から周りの人と感覚がずれていて、同じものを見ているはずなのに違う世界にいるような気がしていました。公爵令嬢としての生活は窮屈で、婚約者には透明人間のように扱われて。やりたいことは山ほどあるのに、何一つ許されなかった」
「今は違うのか」
「今は少しだけ。自分の足で立っている実感がある。仲間もいる。でも時々、ふと怖くなります。これが全部なくなったらどうしようって」
「なくならないさ」
アレクシスの声が穏やかになった。
「あなたが作ったものは、数字の上だけのものじゃない。マティアスさんも、リュシエンヌも、テオも、あなたがいるからあそこにいる。それは簡単にはなくならない」
フィオナの目が潤んだ。慌てて上を向き、まばたきで涙を散らす。泣くのはあの夜だけと決めたのだ。
アレクシスはそれに気づいたようで、視線をそっと月に戻した。
「すまない。柄にもないことを言った」
「いいえ。……嬉しかった」
二人はもうしばらく月を眺めていた。肩が触れ合うほど近い距離。けれどどちらも、それ以上近づこうとはしなかった。今はまだ、この距離が正しい。
やがてアレクシスが先に口を開いた。
「そろそろ戻ろう。明日は早い」
「ええ」
中庭から倉庫に戻る途中、アレクシスが足を止めた。
「フィオナ」
「はい」
「また来る。追加条項の確認で」
「……追加条項なんて、もうほとんど残っていませんけど」
「なら新しい条項を作る」
フィオナは思わず笑った。宰相が外交文書を自分に会う口実にするなんて、この大陸始まって以来の珍事だろう。
「お待ちしています、閣下」
「アレクシスだ」
「アレクシス」
名前を呼ぶと、銀髪の宰相は背中を向けたまま、小さく手を挙げて去っていった。その耳の先が赤かったことに、フィオナは気づかなかった。




