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今さら泣きついてこないでください  作者: 小林翼


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ノルディスとの通商協定から二ヶ月が経った。


ヴァランティーヌ商会は目に見えて成長していた。保存食の売上は月を追うごとに伸び、周辺の村々だけでなくルミエールの住民からも直接注文が入るようになった。ギルドの目が届かない裏口から、主婦たちが倉庫を訪ねてくるのだ。


「例の瓶詰め、十本ちょうだい。近所の奥さんたちの分もまとめて」


口コミの力は偉大だった。ギルドが市場での販売を妨害しても、人の口に戸は立てられない。


従業員も増えた。近隣から通いで働く女性が八人。瓶詰め作業、検品、梱包をそれぞれ担当し、倉庫の土間は毎日活気に満ちている。


そして今日、フィオナは第二の事業を正式に立ち上げようとしていた。


石鹸と香水だ。


事務室の机に並べられた試作品を、マティアスとリュシエンヌが眺めている。白い石鹸が三種類、小さなガラス瓶に入った香水が二種類。


「触ってみてください」


リュシエンヌが石鹸を手に取り、指で撫でた。


「滑らかだな。市場で売ってる石鹸とは全然違う。あっちはざらざらして、獣の脂みたいな臭いがする」


「この世界の石鹸は動物性脂肪を強いアルカリで鹸化したものです。それ自体は間違っていませんが、原料と工程を変えるだけで品質は劇的に向上します」


フィオナが使ったのはオリーブ油を主原料とした製法だった。前世の知識ではマルセイユ石鹸と呼ばれるもので、肌に優しく泡立ちも良い。さらに乾燥させたラベンダーの花を練り込んで香りを加えた。


「香水はどうやって作った」


「蒸留です。花から精油を抽出して、アルコールで希釈します。この世界にも蒸留器はありますが、主に酒造りに使われているだけで、香料の抽出に応用する発想がなかった」


マティアスが石鹸を鼻に近づけ、何度か嗅いだ。


「なるほど。で、原価は」


「石鹸が一個あたり銅貨八枚。売値を銀貨一枚——銅貨五十枚に設定すれば粗利は八割を超えます」


「八割!」


リュシエンヌが素っ頓狂な声を上げた。マティアスは眼鏡の奥で鋭い目を光らせている。


「高級品路線だな。ターゲットは」


「貴族と富裕層です。保存食が庶民の生活を支える事業なら、石鹸と香水は上流階級の虚栄心を掴む事業。二本の柱で客層を分け、リスクを分散します」


フィオナは帳簿を開いた。


「販路も保存食とは変えます。石鹸と香水は品質を直接確かめてもらう必要があるので、ルミエールに小さな店舗を構えたい。ギルドの許可が要りますが、今度はノルディスとの通商協定という後ろ盾がある。以前ほど無碍にはできないはずです」



予想は当たった。


フィオナがギルド長バルトロメのもとを再び訪れると、太った男の態度は前回とは明らかに違っていた。笑みはあるが、その裏に警戒が張りついている。ノルディス公国の宰相と直接取引する商会の主を、もう単なる「お嬢様」扱いはできなくなったのだ。


「店舗の営業許可をいただきたいのですが」


「ふむ……まあ、ルミエールの発展に寄与されるのであれば、ギルドとしても拒む理由はありませんな」


挨拶料の話は出なかった。フィオナは内心で小さく微笑んだ。



店舗は商会の倉庫から五分ほど歩いた場所に見つかった。通りに面した小さな空き店舗で、間口は狭いが明るい日差しが入る好立地だった。


リュシエンヌと二人で内装を整えた。白い漆喰の壁に木の棚を据え、石鹸と香水を丁寧に並べる。店の前にはラベンダーの鉢植えを置き、通りがかりの人に香りが届くようにした。


開店初日、最初の客はルミエールの地主の妻だった。物珍しさから足を止め、石鹸の匂いを嗅いだ瞬間、目を見開いた。


「まあ、なんて良い香り。これが石鹸ですの?」


「オリーブ油と天然の花から作った特製品でございます。お肌にも優しく、泡立ちも豊かです」


その婦人は石鹸を三個と香水を一瓶買い、翌日には友人を五人連れて戻ってきた。


一週間で在庫の半分が売れた。二週間目には追加生産が追いつかなくなった。


噂は瞬く間に広がった。ルミエールの上流階級の間で「ヴァランティーヌの石鹸」が話題になり、やがて近隣の都市からも注文が届き始める。



ある夕方、店舗の帳簿を締めていると、テオという名の少年が店の前に立っているのにフィオナは気づいた。


十二、三歳だろうか。薄汚れた服を着た痩せた少年で、市場の裏で荷運びをしている姿を何度か見かけたことがある。少年は店の看板を食い入るように見つめていたが、フィオナと目が合うと慌てて逃げようとした。


「待って。何か用?」


「べ、べつに。ただ、この店の売上がすごいなと思って」


「売上が分かるの?」


「客の数と、だいたいの単価を見てれば分かる。今日は客が二十三人、平均単価が銀貨一枚半だから、売上は銀貨三十四、五枚ってとこだろ」


フィオナは目を見張った。帳簿を確認する。今日の売上は銀貨三十五枚。ほぼ正確だった。


「あなた、名前は」


「テオ。テオ・ガルニエ」


「テオ、うちで働かない?」


少年の目が大きく見開かれた。その瞳の奥に、飢えたような切実さと、信じていいのかという猜疑心が同居していた。


「市場の数字を追える目を持った人を探していたの。給金は日当で銅貨二十枚。食事つき。どうかしら」


テオは唇を噛み、しばらく黙っていた。やがて、ぶっきらぼうに頷いた。


「……明日から来る」


こうして商会の最後のピースが埋まった。マティアスがテオの数字の才能に気づくのに、三日もかからなかった。


「この子は天才だ」


老経理士が珍しく興奮した声で言った。フィオナは微笑み、テオの小さな頭をそっと撫でた。少年は照れくさそうに顔を背けたが、その口元はかすかに笑っていた。

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