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今さら泣きついてこないでください  作者: 小林翼


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ノルディス公国との通商協定が正式に調印されたという知らせは、一週間もしないうちに王都に届いた。


レグランド王国の宮廷は、その報せに微妙な空気を漂わせた。一介の商会が他国と直接通商協定を結ぶこと自体が異例であり、しかもその商会の主が先日婚約を破棄されたばかりの公爵令嬢だというのだから、話題にならないはずがなかった。


王宮の回廊で、貴族たちが扇の陰から囁き合う。


「ヴァランティーヌ家のお嬢様が、ルミエールで商売を?」

「しかもノルディスの宰相と直接取引だそうよ」

「婚約を破棄されたのがよほど悔しかったのでしょう」

「いいえ、聞いた話ではかなりの利益を上げているらしいわ」


噂は尾ひれをつけて広がり、やがてルシアン・レグランドの耳にも届いた。



ルシアンは王宮の私室で、窓辺に頬杖をついていた。


フィオナが商会を開いたという話は以前から聞いていた。最初は鼻で笑った。あの退屈な公爵令嬢に商売などできるはずがない、と。しかしノルディスとの通商協定となると話が違う。


「殿下、お顔の色が優れませんわ」


ヴァレリアが部屋に入ってきた。翡翠色の瞳が心配そうにルシアンを見つめているが、その奥に計算の光が宿っていることに、ルシアンは気づかない。


「いや、何でもない」


「フィオナ様のことが気になっておいでですの?」


ルシアンは眉をひそめた。


「気になるわけがないだろう。ただ——他国と勝手に協定を結ぶのは、王家の外交権の侵害ではないかと思ってな」


「まあ、さすが殿下。鋭いご指摘ですわ」


ヴァレリアの声が甘くなった。ルシアンの隣に腰を下ろし、彼の腕にそっと手を添える。


「あの方の商会が大きくなりすぎれば、殿下のお立場にも影響が出るかもしれません。元婚約者が殿下より注目されるなんて、あってはならないこと」


ルシアンの顔に不快の色が走った。自尊心を刺激されたのだ。ヴァレリアはそれを見逃さなかった。


「もちろん、殿下がお気になさることではありませんわ。でも、もしお望みなら、わたくしの父がギルドに少し口を利くことくらいはできますの」


モンフォール侯爵家はルミエールの商人ギルドと古い繋がりがある。ヴァレリアがそれを持ち出した意味を、ルシアンは深く考えなかった。



一方、王宮の図書室で、ギルベルト・ヴァランティーヌは古い外交文書に目を通していた。


表向きは歴史の勉強だが、実際には過去の通商協定の判例を調べている。姉がノルディスと結んだ協定が法的に問題ないことを確認するためだ。


結論は明白だった。レグランド王国の法律では、民間の商会が他国と通商契約を結ぶこと自体は禁じられていない。ただし王家が「国益に反する」と判断した場合に限り、契約の差し止めを命じることができる。


ギルベルトはその条項に鍵をつけ、姉への手紙に書き添えた。


『姉上。協定そのものは合法ですが、王家が難癖をつける余地がないわけではありません。特にヴァレリア嬢がルシアン殿下を焚きつけている気配があります。ご注意ください。なお、モンフォール侯爵家の財務状況について気になる噂を耳にしました。詳細は次の手紙にて。ギルベルト』


手紙を封蝋で封じ、信頼できる使者に託す。十六歳の少年は、姉のためにできることを一つ一つ積み上げていた。



その頃、王家の財政にも暗い影が忍び寄っていた。


ヴァランティーヌ公爵家はかつて、王都への物資輸送と倉庫管理を担っていた。しかしフィオナの商会設立に伴い、公爵家は自家の資源をフィオナの事業支援に振り向け始めている。王家への物流協力は契約上の義務ではなく慣例に過ぎなかったため、公爵家がそれを縮小しても法的には問題ない。


だが実務上の影響は大きかった。


王都の市場に並ぶ地方の産物が減り始めていた。秋の収穫期であるにもかかわらず穀物の入荷が滞り、価格がじわじわと上昇している。王宮の財務官が報告書を上げたが、国王は目を通す暇がなかった。ルシアンとヴァレリアの婚約準備に忙殺されていたからだ。


ヴァレリアの要求は際限がなかった。婚約の祝宴に金貨三百枚。新しいドレスに百枚。居室の改装に五百枚。モンフォール侯爵家から持参金が出る約束だったが、いつまでも支払われない。


「ヴァレリア嬢の持参金はまだかね」


国王が財務官に尋ねると、困り果てた顔で答えが返ってきた。


「モンフォール侯爵家からは、来月にはと言われておりますが……正直なところ、侯爵家の財政は芳しくないとの噂もございます」


国王は眉をひそめたが、息子の婚約者の実家を疑うことに躊躇いがあり、それ以上は追及しなかった。


火種は静かに、しかし確実に大きくなっていた。フィオナが去った王都の足元で、経済という地盤がゆっくりと揺らぎ始めている。それに気づいている者は、まだほとんどいなかった。

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