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交渉の場は、ヴァランティーヌ商会の二階の事務室だった。
窓から差し込む朝の光の中、フィオナとマティアスが机の片側に、アレクシスとその護衛官が反対側に座っている。机の上にはノルディス公国の提案書と、フィオナが一週間かけて作成した修正案が並んでいた。
「まず、技術供与の範囲について修正を求めます」
フィオナは修正案の最初の頁を指し示した。
「元の提案では保存技術の全面開示となっていますが、これでは我が商会の競争優位が失われます。代わりに、初年度は完成品の納入のみとし、二年目以降に段階的に技術移転を行う形にしたい。技術移転にあたってはヴァランティーヌ商会が指導役を務め、その対価としてノルディス公国内での保存食事業の独占ライセンス料を設定します」
アレクシスは腕を組み、修正案に目を通した。碧い瞳が文字の上を素早く動く。
「ライセンス料の設定か。具体的にはどの程度を想定している」
「年間売上の一割を提案します」
「高いな。五分でどうか」
「七分」
「六分。それ以上は本国の議会が首を縦に振らない」
フィオナは一瞬の間を置いて頷いた。六分は事前に想定していた落としどころだった。最初に一割と吹っかけたのは交渉の常套手段であり、アレクシスもそれを承知の上で応じている。互いの手の内が見えている者同士の、無駄のないやり取りだった。
マティアスが隣で帳簿に数字を書き込んでいる。老経理士の表情は穏やかだが、ペンの動きは速い。リアルタイムで収支への影響を計算しているのだ。
「次に、鉄鉱石の優先取引権について」
フィオナは二枚目の頁をめくった。
「提案書では年間百トンの優先購入権とありますが、我が商会の現在の規模では百トンは持て余します。初年度は三十トンとし、商会の成長に応じて段階的に増量する契約にしたい。その代わり、購入価格を市場価格の八割に固定していただきたい」
「八割か。それは公国の鉱山経営にとって痛い」
「しかし安定的な購入先を確保できるメリットがあります。鉄鉱石の市場価格は変動が大きい。固定価格契約は双方にとってのリスクヘッジになります」
アレクシスの眉がわずかに動いた。感心とも驚きともつかない表情だった。
「……市場価格の八割五分。初年度三十トン、二年目以降は協議の上で増量。これなら合意できる」
「承諾します」
交渉は午前中いっぱいかかった。契約期間、紛争解決の手続き、不可抗力条項——一つ一つの条項をフィオナは丁寧に精査し、譲れる点と譲れない点を明確にした。アレクシスもまた一歩も引かず、しかし理不尽な要求は決してしなかった。
最後の条項に双方が合意したとき、事務室の時計は正午を回っていた。
アレクシスはペンを置き、椅子の背にもたれた。
「正直に言って驚いている」
「何にですか」
「これほど対等な交渉をしたのは久しぶりだ。各国の大臣や商人と何度も交渉してきたが、大半は権威に怯えるか、虚勢を張るかのどちらかだ。あなたはそのどちらでもない」
「数字の前では誰もが対等ですから。宰相閣下であろうと、公爵令嬢であろうと」
アレクシスは微かに笑った。茶館で見せた穏やかな笑みとは違う、交渉相手への敬意が滲んだ笑みだった。
「一つ聞いてもいいか。あなたのような人間が、なぜ王都ではなくこんな地方都市にいる」
フィオナは少し迷い、それから正直に答えた。
「婚約を破棄されたからです。第二王子殿下に」
アレクシスの表情が変わった。驚きではない。もっと複雑な何かだった。
「それは——王子の判断力を疑う」
「私に商才があるかどうかと、婚約者として魅力的だったかどうかは別の問題です」
「そうかな。私には同じ問題に見えるが」
意味深な言葉だった。フィオナは返答に困り、咳払いで誤魔化した。
「それより、正式な調印はいつにしましょう」
「一週間後に本国から外交官を呼ぶ。調印式はこの商会で行おう。小さな場所だが、この協定はここから始まるべきだ」
アレクシスが立ち上がり、手を差し出した。フィオナもまた立ち上がり、その手を握った。
宰相の手は意外に硬かった。ペンだけでなく、何か別のものも握ってきた手だ。孤児から成り上がったという噂は、きっと本当なのだろう。
「良い取引になりますように」
「ああ。これは良い取引だ。私はそう確信している」
手を離した後も、フィオナの掌にはアレクシスの手の温もりが残っていた。
その夜、マティアスが帳簿を前に唸っていた。
「フィオナ、この協定が成立すれば、商会の信用は一気に跳ね上がる。他国の宰相が直接契約を結んだ商会だ。ギルドも無視できなくなるぞ」
「ええ。それが狙いの半分です」
「残りの半分は?」
フィオナは窓の外を見た。ルミエールの夜空に、星が瞬いている。
「この国の経済を変える足がかりです。一つの商会だけでは限界がある。でも国際的な通商協定があれば、その枠組みの中で新しい商慣行を導入できる。ギルドの独占体制に風穴を開けられる」
マティアスは眼鏡の奥で目を細めた。
「大きなことを考える子だ。昔からそうだったが」
「マティアスさんこそ。引退していたはずなのに、今夜も帳簿と格闘しているじゃないですか」
「わしは数字が好きなだけだ。……あの宰相殿、なかなかの切れ者だったな」
「ええ」
「お嬢様を見る目が、数字を見る目と少し違っていたが」
フィオナは頬が熱くなるのを感じ、帳簿に視線を落とした。
「気のせいですよ」
マティアスは何も言わず、静かに帳簿の頁をめくった。




