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移動販売を始めて三週間が経った。
周辺の村々を巡回するうちに、ヴァランティーヌ商会の保存食は着実に評判を築いていた。林檎の蜜煮に加え、洋梨のコンポート、根菜の酢漬けとラインナップを増やし、毎回の巡回で完売が続いている。
倉庫の土間では朝から晩まで瓶詰め作業が行われ、フィオナが雇い入れた近隣の女性たちが手際よく果物を煮ている。マティアスが帳簿をつけ、リュシエンヌが物資の運搬を仕切る。小さいながらも、組織として回り始めていた。
ある朝、フィオナが事務室で帳簿を確認していると、階下からリュシエンヌの声が上がった。
「フィオナ、客だ。ちょっと厄介かもしれない」
階段を下りると、倉庫の入口に二人の男が立っていた。一人は見覚えのある銀髪の青年。もう一人は体格のいい護衛風の男で、腰に長剣を佩いている。
「やあ、また会ったね」
アレクシスだった。茶館で出会ったあの旅人。しかし今日の彼はあのときとは雰囲気が違った。旅装束ではなく、深い紺色の外套を羽織り、胸元には精巧な銀の紋章が光っている。
「アレクシス……さん?」
「正式に名乗らせてもらおう。アレクシス・ヴェルント。ノルディス公国の宰相を務めている」
フィオナは一瞬だけ目を見開き、それからゆっくりと息を吐いた。
ノルディス公国。レグランド王国の北方に位置する新興国で、厳しい気候と豊富な鉱物資源を持つ国だ。近年は急速に国力を伸ばしており、外交の場でも存在感を増している。その国の宰相が、なぜルミエールの小さな商会にいるのか。
「茶館でお会いしたときから、ただの旅人ではないと思っていましたが、まさか宰相閣下とは」
「あのときは身分を隠して各国の市場を視察していたんだ。実際に街を歩かないと見えないものがある」
アレクシスの碧い瞳がフィオナをまっすぐ見つめた。
「そして、あなたの商会のことも視察の中で知った。周辺の村で評判になっている瓶詰め保存食。季節を問わず食品を保存できる技術。これがどれほどの価値を持つか、分かるか?」
「北方の国にとって、ということですね」
「そうだ」
アレクシスの声に力がこもった。
「ノルディス公国は冬が長い。農業の生産期間は短く、冬場の食料確保は国家の最重要課題の一つだ。毎年、冬の終わりには食料備蓄が底をつき、春を待つ間に病に倒れる民が後を絶たない。あなたの保存技術は、その問題を根本から解決しうる」
フィオナは姿勢を正した。個人の商売の話ではない。国家レベルの需要だ。
「宰相閣下がわざわざお越しになるということは、公式な通商のご提案ですか」
「その通り。ノルディス公国とヴァランティーヌ商会の間で通商協定を結びたい。保存食の技術供与と商品の定期納入。対価として、公国の鉱物資源——特に良質な鉄鉱石の優先取引権を提供する」
破格の提案だった。ノルディスの鉄鉱石はこの大陸で最も品質が高く、レグランド王国内でも高値で取引されている。それの優先取引権ともなれば、商会の事業領域が一気に広がる。
だがフィオナは即答しなかった。
「ありがたいお話です。しかし、いくつか確認させてください」
アレクシスが片眉を上げた。国家の宰相が直々に持ちかけた提案を即座に受けない商人は珍しいのだろう。
「一つ。技術供与の範囲をどこまでとお考えですか。保存技術の全てを開示すれば、公国は自前で保存食を生産できるようになり、我が商会の商品は不要になります」
「……続けて」
「二つ。鉄鉱石の優先取引権の具体的な条件。数量、価格、期間。これが不明確なまま合意するわけにはいきません」
「三つ目もあるのか」
「三つ。この協定が、レグランド王国にとってどう映るか。他国の宰相と直接通商協定を結ぶ一介の商会。王家が快く思わない可能性があります」
アレクシスは腕を組み、フィオナの顔をじっと見つめた。やがてその口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「茶館で会ったときから思っていたが、あなたは本当に面白い人だ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めている。本心からね」
アレクシスは外套の内側から封蝋された書簡を取り出した。
「正式な提案書だ。技術供与の範囲、鉄鉱石取引の具体条件、すべて記載してある。持ち帰って検討してほしい。一週間後に返答をもらえれば、こちらも本国と最終調整に入れる」
フィオナは書簡を受け取り、封蝋に刻まれた雪結晶の紋章を確認した。ノルディス公国の国璽だ。間違いなく正式な外交文書だった。
「一週間で回答します。ただし、条件の修正を求める可能性があることはご了承ください」
「もちろん。交渉とはそういうものだ」
アレクシスは踵を返し、入口で一度だけ振り返った。
「あの茶館で、あなたが帳簿を広げていた姿を見たとき、正直に言って驚いた。数字に向き合う目が、この大陸のどの官僚よりも真剣だった。この通商が実現すれば、互いに大きな利益をもたらすと確信している」
銀髪が陽光を受けて輝き、外套を翻して去っていく。その背中を見送りながら、フィオナは手の中の書簡を握りしめた。
リュシエンヌが隣に来て、低い声で言った。
「あの男、信用できるのか」
「分からない。でも、この提案は本物よ」
「根拠は」
「彼の目。数字を見る人間の目をしていた。嘘をつく人間の目じゃない」
フィオナは事務室に戻り、書簡の封を切った。羊皮紙に細かい文字でびっしりと書かれた条件を読みながら、ペンを取って帳簿に試算を始める。
心臓が高鳴っていた。緊張ではない。これは商機だ。商会の規模を一気に変えうる、大きな商機。
マティアスが事務室に入ってきた。フィオナの表情を見て、老経理士は静かに椅子を引いた。
「何があった」
「マティアスさん、今夜は長くなります。この提案書を一緒に精査してください」
「ふむ。面白いことになってきたな」
二人は深夜まで、数字と格闘し続けた。




