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今さら泣きついてこないでください  作者: 小林翼


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1

大広間を満たすのは、千本の蝋燭が放つ柔らかな光と、弦楽四重奏の旋律だった。レグランド王国の秋季大舞踏会。王宮で最も格式の高い夜に、フィオナ・ヴァランティーヌは完璧な微笑みを湛えて立っていた。


淡い藤色のドレスは仕立て屋が三週間かけて縫い上げたもので、胸元にあしらわれた銀糸の刺繍が蝋燭の光を受けて静かに煌めいている。髪は蜂蜜色の巻き毛を高く結い上げ、うなじに一筋だけ後れ毛を残した。公爵令嬢として、第二王子の婚約者として、一分の隙もない装い。


けれど隣に立つ婚約者——ルシアン・レグランドは、フィオナの方を見ようともしなかった。


「ルシアン殿下、シャンパンをお持ちしましょうか」


「ああ……いや、いい」


短い返事。視線は広間の向こう側、華やかに笑う一群の中心にいる女性に注がれている。ヴァレリア・モンフォール。侯爵令嬢にして、今季の社交界で最も注目を集める美女。豊かな黒髪と翡翠色の瞳を持つ彼女が笑うたびに、周囲の男たちがため息を漏らす。


フィオナはその視線の先を追い、小さく息を吐いた。気づいていないふりをするのにも、そろそろ限界が近い。


ふと、ヴァレリアと目が合った。侯爵令嬢は一瞬だけフィオナに微笑みかけ、すぐにルシアンの方へ視線を戻した。その微笑みの意味を、フィオナは正確に読み取った。憐れみだ。勝者が敗者に向ける、余裕のある慈悲。あるいは——もうすぐあなたの居場所はなくなりますよ、という宣告。


フィオナは表情を変えなかった。グラスの中の白ワインをひと口含み、静かに飲み下す。喉の奥が少しだけ熱かった。



婚約が決まったのは三年前のことだ。公爵家と王家の政略結婚。フィオナに拒否権などなかったし、ルシアンもまた義務として受け入れただけだった。


それでもフィオナは努力した。ルシアンの好みを調べ、彼が関心を持つ軍事史の本を読み、会話の糸口を探った。しかしルシアンの反応はいつも薄く、フィオナを見る目には退屈という二文字が貼りついていた。


完璧だが、面白みがない。


社交界でそう囁かれていることを、フィオナは知っている。知っていて、それでも完璧であることをやめられなかった。それが公爵令嬢として唯一許された生き方だったから。



舞踏会の喧騒から少し離れたバルコニーに出ると、秋の夜風が頬を撫でた。眼下には王都の夜景が広がっている。無数の灯りが星のように瞬く街並みを見下ろしながら、フィオナは手袋を外して欄干に手を置いた。


この景色を見るといつも思い出す。前の人生のこと。


東京の、あの雑居ビルの窓から見えた夜景。終電を逃した夜、企画書を抱えたまま眺めたオフィス街の灯り。あの人生でフィオナ——いや、藤野真奈美は中堅商社の営業部で働いていた。数字を追い、取引先を回り、上司に企画を蹴られてはまた書き直す日々。過労で倒れたのが三十二歳の冬。目覚めたら、この世界の公爵家の揺り籠の中だった。


幼い頃は混乱した。前世の記憶と、この世界の常識が頭の中でぶつかり合った。けれど年を重ねるうちに、二つの人生は自然と溶け合い、フィオナの中に独特の視点を育てた。


この国の経済は脆い。物流は貴族の領地経営に依存し、商人ギルドは閉鎖的で、金融の概念すら未成熟。前世の知識があれば、いくらでも改善できる。そう確信しながらも、公爵令嬢という檻の中では何もできなかった。


婚約者として王宮に入れば、少しは自由になれるかもしれない。そんな淡い期待もあった。


現実は、退屈な茶会と、自分を見ない婚約者の横顔だけだったが。



「フィオナ」


振り返ると、ルシアンが立っていた。珍しく、まっすぐこちらを見ている。その表情にはどこか決意のような、あるいは後ろめたさのような色が浮かんでいた。


「明日、謁見の間に来てくれ。大事な話がある」


「……大事な話、ですか」


「ああ。父上と母上にも同席いただく」


国王と王妃の同席。フィオナの胸の奥で、何かが冷たく軋んだ。大事な話。わざわざ謁見の間で、両親臨席のもとで告げなければならない話。


その答えは、とうに分かっていた。


「承知いたしました。明日、参ります」


完璧な微笑みで答えながら、フィオナは心の中で静かに帳簿を開いた。公爵家の資産。街道の管理権。倉庫網の規模。穀物の流通量。あらゆる数字が、前世の記憶とともに脳裏を駆け巡る。


もし明日、予想通りの言葉を告げられたなら。


それは終わりではなく、始まりになる。


ルシアンは何も言わずに広間へ戻っていった。バルコニーに再び一人残されたフィオナは、欄干に両手をつき、夜空を見上げた。星が瞬いている。この世界の星座は前世のそれとは違うけれど、星を見上げるときの気持ちは同じだ。小さくて、自由で、どこへでも行ける気がする。


大広間から最後の一曲が聞こえてきた。優雅なワルツ。本来なら婚約者と踊るはずの曲だった。


フィオナは手袋をはめ直し、背筋を伸ばした。大広間へ戻る足取りは軽い。完璧な令嬢としての最後の夜を、最後まで完璧に演じきるために。

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