第19話 本物の想い
吐き出す息が熱い。
きっと肺が焼けているせいだ。
喉の奥からは血の味がせり上がってきて、口の中いっぱいに広がる。
濡れたシャツやパンツが体に張り付き、全身が鉛のように重い。
もし、ここにいるのが、クラスメイトの彼だったら。
運動部に所属していて、イケメンで。
彼だったら、きっとこんなふうにはなっていない。
こんな無様な格好で走ったりしていないだろうし、そもそもこんなふうにすらなっていないはずだ。
しかし、翔太は彼じゃない。
地味で、冴えなくて、クラスメイトや教師に名前すら覚えてもらえない存在で。
だけど――そんな翔太のこと、彼女は好きだと言ってくれた。
『……っ、好きっ! 大好き、です……っ!』
どうして気づかなかったのか。
月花は言っていた。
いつだって陽菜子は本物だった、と。
初めて会った、次の日。
家の前で待っていた陽菜子は言っていた。
『好きな人と一緒に登校するための予行演習ですよ』
そうして、二人で初めて、一緒に登校した。
初めて弁当を作ってきてくれた次の日、翔太好みの味付けをしてきてくれた。
どうして?
『偶然に決まってるじゃないですか』
放課後、一緒に帰った時はどうだったか。
『たとえばわたしの好きな人ががっかりデートをコーディネートしてきた時、どれだけ顔に出さずに楽しんでる振りをできるか、それを鍛えたいと思いますので』
そんなことを言って、笑っていた。
腕を初めて組んだ時も。
チョコ菓子を食べた時も。
……えっちな下着の話をした時も。
間接キス、した時も。
相合い傘をして、翔太が風邪を引いて、看病してもらった時も。
ずっとずっと陽菜子の想いは本物だったのだ。
翔太に向けられていたのだ。
だから、おでこにキスをした時、陽菜子はあんな顔をしていたのだ。
後悔に襲われ、後悔に雁字搦めにされて、後悔に溺れそうになる。
しかし、立ち止まりはしない。絶対に、ない。
後悔してもいい。
だけど、体は動かせ。
前へ。
走れ。
陽菜子が流す透明な雫を拭うために。
もし許されるなら――いや、許されなかったとしても、翔太がそうしたいから。
手の中にある、陽菜子が試作品だと言っていた、本物のお守りを握りしめながら、走る。
しあわせそうに家路につくカップルたちの間を、全身ずぶ濡れになった翔太が、走る。
ぶつかりそうになって、実際、ぶつかって、迷惑そうな顔をされても、走る。
体も心もボロボロだったが、翔太は走り続けた。
陽菜子の姿を追い求めて。
「っ、いたっ!」
あの後ろ姿は陽菜子に違いない。
「陽菜子!」
翔太は走るスピードを上げようとして、足元が何かに絡み取られたような違和感を覚えた。
その直後、地面が猛烈な勢いで視界に迫ってきた。
気がついた時には、翔太は床に叩きつけられていた。
いつの間にか靴紐がほどけていたらしい。
手から剥がれ落ちたお守りが、鏡のように磨かれた床の上を、無慈悲なほど滑らかに滑っていく。
翔太の指先が届かない距離まで、それは物理的な距離以上の断絶を伴って、遠ざかっていった。
翔太が倒れた時、ものすごい音がしたからだろう。
陽菜子だと翔太が思った彼女が振り返っていて、翔太は倒れた衝撃でずれていた眼鏡の位置を直すと、
「え、陽菜子……じゃない……?」
彼女はすぐにどこかに行ってしまった。
その様子をぼんやり見送っていたが、
「あ、そうだ、お守り……!」
翔太は立ち上がって拾おうとするが、そもそも立ち上がることができない。
打ち付けた痛みが凄まじかった。
それでも何とか体を起こし、立ち上がって、いざ歩こうとしたが、今度は膝が笑って動かなかった。
――それでも。
通りすがりの子どもや清掃員が大丈夫かと、心配そうに声をかけてくる。
彼らの目には、今、翔太の姿はどんなふうに映っているのだろう。
髪は汗と水に張り付き、服もずぶ濡れ。
ボロボロで、みっともない。
――かまうものか。
声をかけてくれる人に礼を言いながらも、翔太は一歩、また一歩、一筋に陽菜子が作ってくれたお守りに向かう。
そうしてようやくたどり着き、お守りを再び、手の中に収めることができた。
しかし――再び走り出すだけの力が、出てこなかった。
心はマグマのように燃え盛っているのに、体がジンジン痛くて、重くて。
限界だった。
運動もろくにしてこなかった翔太にすれば、これまでの全力疾走は奇跡みたいなものだった。
全身の痛みからではなく、情けなさで泣きたくなった。
その時だった。
無機質な電子音が鳴り響いた。
翔太のポケットからだった。
痛みで上手く動かない手でスマホを取り出す。
ディスプレイを見れば、陽菜子からのメッセージだった。
泣いて駆け出したのに、追いかけてこない翔太に、本当に愛想を尽かしてしまったのか。
無理もない。それは当然のことだ。
そんな恐怖を抱きながら、翔太は彼女からのメッセージを確認する。
『翔太先輩、びっくりしてますか? これを読んでいるってことは、わたし、ちゃんと翔太先輩の彼女になれてるってことですよね……』
息が止まった。
陽菜子からの絶縁メッセージではなかった。
「これは……送信予約していたのか」
震える指先が画面に触れる。
水族館のアナウンスも、周囲の笑い声も、すべてが遠い世界のノイズのように霧散した。
ただ、ディスプレイの光の中に、陽菜子の声が躍っていた。
『……ねえ、翔太先輩。地味で冴えないモブだなんて言わないでください。わたしの世界で一番かっこいいのは、他の誰でもなく、翔太先輩なんです。これからは『実験』じゃなくて、『本物』の思い出をたくさん作りましょうね』
陽菜子は信じていたのだ。
今この瞬間、翔太のすぐ隣で、このメッセージを二人で笑い合って読んでいるはずだと。
本物の彼女として、翔太の腕の中にいるはずだと。
「……っ、あああああぁぁぁ!!」
喉が裂けるような咆哮。
翔太は、ボロボロになった身体を叩いた。
痛みが何だ。
疲れがどうした。
彼女が命を削って差し出した『本気』を、これ以上一秒だって『嘘』にさせてたまるものか。
翔太は、再び走り出した。陽菜子を見つけるまで、たとえ倒れてもすぐに立ち上がって、絶対に諦めたりなんかしないと。
今日、陽菜子と巡ったところを探す。
1箇所目、2箇所目……。
見つからなかったが、それでも諦めるという選択肢は、今の翔太にはなかった。
体はとっくに限界を超えている。
それでも気持ちが、心が陽菜子を求めて、翔太を突き動かす。
走って、走って、走り続けて。
「ッ!」
ようやく、見つけた。
いた、陽菜子が。
淡い青の光を放つクラゲたちの水槽の前に。
まるで冷たい光の檻に閉じ込められたように独り立ち尽くしていた。
その肩は小さく震え、その背中は今にも世界の闇に溶けて消えてしまいそうなほど儚かった。
翔太は駆け寄り、陽菜子に声をかけようとしたが、とっくに限界を超えて完全に疲れ切った身体で無茶をしたせいか、今度は靴紐に引っかかったわけではなく、純粋に脚がもつれて、水槽の縁に手をつくことになった。
ドン、とも、ゴン、ともつかない鈍い音に、陽菜子が弾かれたように振り返った。
「翔太、先輩……え、その、格好……」
陽菜子の大きな瞳が、さらに大きく見開かれて、翔太の姿を映す。
ボロボロで、水を吸いすぎたスポンジの塊が無理やり服を着せられているかのようで、あまりにも情けなさすぎる、最高にかっこ悪い姿を。
「ゼッ……ハァ……ッ……」
肺が空気を全力で求め、言葉が出ない。出せない。
それでも視線だけは陽菜子に向ける。向け続ける。真っ直ぐに。
全身が激しい痛みを訴えている。
明日は――いや、明日どころか、しばらくの間は、筋肉痛になることは間違いない。
「……っ、陽菜、子……!」
名前を叫ぶというよりは、血を吐くような、そんな叫び。
翔太はブルブル震える手に握りしめた、水に濡れ、すっかり薄汚れてしまったお守りを差し出した。
「試作品なんかじゃ、ないんだろ。……読んだよ、陽菜子のメッセージ。……ごめん、本当にごめん。俺が、全部俺が悪い。俺が陽菜子を傷つけた。陽菜子はずっと、ずっと『本物』だったのに……! 俺が……っ!」
陽菜子が翔太の元へ駆け寄り、翔太の頬を両手で包み込む。
その手は氷のように冷たく、しかし翔太を労るような慈愛に満ちているような気がした。
「……翔太先輩、ありがとうございます。わたしの本当、先輩に届いてうれしいです」
陽菜子はそう言って、涙を流しながら笑った。
そして、翔太の頬に、自分の唇を押し当てた。
陽菜子の唇が触れたところが熱源となって、翔太の全身が激しく燃え始める。
「陽菜子、俺……」
唇を離した陽菜子は、見たこともないほど綺麗な表情をしていた。
「……でも、今のわたしには、翔太先輩の隣にいる、資格がありませんから」
「え……」
「だって……わたしの『嘘』が、大好きな人をこんなにボロボロにしちゃったから」
「陽菜子、待て、――待ってくれ! それは――」
違う、と言おうとしたのに。
「ばいばい、大好きな翔太先輩。わたしの『好き』は、先輩をボロボロに、傷だらけにして……、……恋の実験、失敗でした。だから、これでおしまい、です」
陽菜子はそう言うと、最高の笑顔を浮かべながら、涙を流し続けて、翔太に背中を向けた。
「陽菜子……!」
翔太が手を伸ばすが、間一髪届かず、陽菜子が行く。
行ってしまう。
翔太の頬に熱を、胸に痛みを残して。
そんなのは絶対に許されないことだった。
だから、とっくに限界を超えている身体を、さらなる限界まで追い込むように、翔太は迷わずに地面を蹴った。
とんでもなく無様で、不格好で。
だが、それがどうした。
今の翔太に必要なのは、一秒でも早く、彼女の絶望を取り除くこと。
自動ドアが開き、今まさに水族館の外へ出ようとした陽菜子の手首を、翔太が背後からしっかりと掴む。
「っ、離してください……! もう、わたしのことは放っておいて……!」
陽菜子はわがままな子どものように腕を振り回し、翔太を拒絶する。
しかし、翔太は掴んだその手を決して緩めない。
激しく転倒した時に擦りむいた手のひらが彼女の肌に触れ、痛みが走るが、翔太はその手を離せば、自分の世界から彼女が永遠に失われてしまうことを確信していたから。
「離さない、絶対に離すもんか……!」
翔太は限界突破した身体に鞭打ち、陽菜子を振り向かせると、その華奢な体を、壊れそうなほど強く抱きしめた。
彼女の髪が鼻先をかすめ、涙の匂いが鼻をつく。
陽菜子が翔太の胸元を叩き、抵抗を続けるが、翔太はその耳元で絞り出す。
「……俺が全部、間違えてたんだ」
そう話す翔太の声は震えていた。
「陽菜子がしあわせになればいいって、そんなふうに自分の気持ちを必死に誤魔化して……」
陽菜子の翔太を叩く動きが緩慢になる。
「陽菜子の隣に立つ自信が、その勇気が持てなかった……!」
翔太は抱きしめる力をさらに強め、陽菜子の耳元で告げる。
「誰にも渡したくない! 陽菜子にこんなことをしていいのは、世界中で俺だけがいい……!」
陽菜子の力が完全に抜け、彼女の頭が翔太の胸元に預けられる。
静まり返った館内に、彼女の嗚咽だけが響く。
「……バカ。……本当に、大バカです。……こんなになるまで、めちゃくちゃして。明日からしばらく、筋肉痛ですよ」
「……わかってる」
「……ご飯とか、どうやって食べるつもりですか?」
「……誰かさんにお願いするしかない」
「……そんな面倒なことしてくれる奇特な人なんているんですかね?」
「陽菜子、知らない?」
「さあ、どうでしょう。わたしの『実験』は、もう終わってしまったので」
翔太の胸に顔を押しつけていた陽菜子が、顔を上げる。
「だから……これからは『本番』です」
陽菜子がゆっくりと背伸びする。
「先輩に――し、翔太、さんに、そんなことをしてくれる奇特な人は、世界中のどこを探しても、たぶんわたししかいないと思うので!」
「いや、絶対に陽菜子しかいない」
翔太も、首を傾け、陽菜子に近づいていく。
「なあ、陽菜子。……あれ、言ってくれないか?」
「あれ、ですか?」
「ほら、いつだって陽菜子が俺に言ってくれていた」
翔太がイタズラっぽく笑えば、陽菜子はあっという顔をして、
「……もうっ、翔太さんってば遅すぎます。わたし、すっごく待ってたんですからね!」
二人は額をくっつけて、どちらからともなく笑い、
「陽菜子……」
「翔太、さん……」
二人の間にあった境界線が、今、溶けた。
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