第18話 本物の告白
駅のホームから続く空中歩道を渡り、翔太たちは巨大な水族館の入口に向かう。
さあ入ろう! というところで、しかし、翔太は月花と揉めることになった。
「だーかーらー! いらないって言ってるでしょ!?」
「いいから払わせろ!」
二人が揉めていたのは水族館の入場料についてだった。
水族館に入るには、当然だが、入場チケットが必要だ。
そのチケット代わりの電子コードを、翔太は陽菜子経由で月花から受け取った。
そして当然、
「チケット代、払うよ」
と言ったのだ。
月花は陽菜子と同級生。つまり後輩。
先輩である翔太が月花に払ってもらうわけにはいかないと。
しかし月花は断固として譲らず、最後には、
「ねえ、陽菜子。こいつ面倒くさいんだけど。本当にこれでいいの?」
「あははは」
陽菜子が笑う。かわいい――ではない。
「おい、面倒くさいって何だ。一応、先輩だぞ」
「自分で一応とかつけちゃうんですね」
陽菜子が呆れたように笑う。やっぱりかわいい――ではない。
「とにかく、チケット代はあたしが払うから!」
けど、と続けようとした翔太に、指を突きつけ、黙らせる。
「その代わり! 先輩は今日のデートに集中すること。チケット代、後輩に払わせるのが悪いと思うなら、本気で、本番みたいなデートをして。陽菜子と」
月花の、思いがけず真剣な眼差しに、翔太はたじろいだ。
とはいえ、翔太とて、もちろんそのつもりだったので、うなずいた。
しかし、月花はさらに念を押してくる。
「いい、先輩。ここから先は、陽菜子にとって一生に一度の勝負なの」
月花が翔太の目を見据え、一文字ずつ刻み込むように続ける。
「先輩は、陽菜子の恋が絶対に叶うように、全力で、死ぬ気で応えること。わかった?」
陽菜子の恋が叶う。
それは即ち、翔太の失恋を意味している。
陽菜子がしあわせになることを願ってはいるが、しかし悲しくないと言ったら嘘になる。
翔太の胸に、重く、鋭い痛みが走る。
だが、それでも。
翔太は胸ポケットに持ってきたお守りに触れながら、
「……わかってる。陽菜子の恋が叶うように、俺も全力で、死ぬ気でやる」
月花が翔太の目を覗き込む。
翔太も月花の目を見つめ返す。
たとえ胸が引き裂かれそうに痛くても、やり遂げてみせる。
「よし! じゃあ、入場しよう」
月花に促され、翔太たちは入場ゲートに向かった。
チケット代わりのスマホをかざす。
電子音がして、読み取りが完了した。
「何かあれば、指示するから! それまではあたしのことは忘れて、二人、本当のデートをしてきて!」
月花はそう言い残し、翔太と陽菜子がワイヤレスイヤホンを装着していることを確認して、人混みの中に消えていった。
「え、っと。翔太先輩?」
陽菜子が上目遣いで聞いてくる。
相変わらず睫毛が長い。そして震えている。
……もしかして緊張、している?
「……い、行く、か」
「……っ、は、はい」
翔太も同じくらい、いや、それ以上に緊張していた。
しかし、月花と約束したし、それ以前から、決めていたから。
翔太は手を差し出した。
陽菜子は軽く目を見開いて驚き、それから蕾がほころぶようにはにかんで、翔太のその手を握りしめた。
いつかのような恋人繋ぎ。
指と指が深く絡み合い、翔太と陽菜子、お互いの体温がそこから交わり、溶け合う。
翔太は陽菜子とデートをする。
陽菜子の実験台として、本番みたいなデートを。
水族館の中に広がっていたのは、休日のやわらかな賑わいと、それを深く包み込む紺碧の世界だった。
家族連れの笑い声や、幼い子どもたちの歓声が、心地よいノイズとなって流れている。
しかし、翔太の意識を占めているのは、それではなかった。
視界に飛び込んでくる大小様々な水槽でもなく、そこで泳ぐ色とりどりの魚たちでももちろんなく。
左手、その感触。
そこから先に続く、ぬくもりの源。
陽菜子だった。
「…………翔太先輩、聞いてますか?」
すぐ耳元でぽそっと囁かれて、翔太はハッとした。
「え、あ、ああ、もちろん! 朝、何を食べてきたかだったよな」
「そんなことは一言も聞いてないんですよねー」
陽菜子が苦笑する。
「どこから見て回るか、聞いたんです」
「ああ、そっちだったか」
「そっちしかないんですよねー」
恋人繋ぎするのは初めてじゃないのに、今日はあの時より緊張する。
翔太の少し大きな手のひらの中で、陽菜子の細い指が確かに体温を主張している。
自分でもわかるほど汗ばんだ掌がかっこ悪くてたまらないのに、陽菜子はそれを拒むことなく、むしろ強く握りかえしてくれている。
その微かな力のこめ方に、翔太の胸の奥は、水槽に湧き上がる気泡のように激しく波立った。
「で、どうしますか?」
「そう、だな……」
陽菜子が答えを促すように、繋いだ手を大きく揺する。
「あ、あれはどうだ?」
え、と首を傾げる陽菜子に、翔太は「こっち」と告げて、歩き出した。
薄暗い通路の先に現れたのは、淡い光を放つクラゲたちが漂う静寂の空間だった。
ここにはエントランスにあったやわらかな喧噪がなく、誰もが皆、水槽の中でゆらゆらと形を変える透明な姿に見入っていた。
「わぁ……!」
ライトアップもあって幻想的な水槽の数々に、陽菜子が感嘆の声を上げる。
「翔太先輩、見てください! ぷわり、ぷわり……すごくきれい……」
陽菜子は水槽の中、たゆたうクラゲに夢中になっている。
彼女の言うとおり、すごく綺麗だと翔太も思う。
しかし、
「……………………陽菜子の方が、ずっと綺麗だろ」
本気で、本番みたいなデートなら、たぶん、これくらいは言わないと駄目だ。
そう思いながらも、しかし照れくさくて。
翔太の呟きはあまりにも小さいこともあって、すぐ隣に陽菜子がいても、届かない。
そう、思っていたのに。
「………………………………あ、ありがとう、ございます」
夢中になっていると思っていたのに、陽菜子に届いてしまったらしい。
恥ずかしい。恥ずかしすぎる。今すぐこの場から逃げ出したい。
陽菜子が、恋人繋ぎをした手に力を入れる。
「……すごく、その、……うれしい、です」
ぽそぽそと漏らす声はか細くて、だけど翔太の耳にはしっかり届いた。
大好きな人の声だから。どんなに小さくても、翔太には聞こえてしまうのだ。
「……ほ、本当のことだから」
「……そ、そですか」
何となく気まずい。だけど、それは嫌な感じじゃなくて、むしろもっと感じていたいような、そんな甘さを含んだもので……。
翔太たちは、どちらからともなく、小さな笑い声を漏らした。
――そして。
柱の陰から、そんな二人を見つめる人影があった。
「ねえ、お母さん。あのお姉ちゃん、何か変!」
「シーッ。見ちゃいけません!」
そんなことを言われてしまった人影の正体は月花である。
まったくどうしてこんな扱いをされなければならないのか。
それもこれも、全部親友である陽菜子が悪いと、心の中で悪態をつく。
自分から告白したら負けた気がするからと、まずは翔太を自分のことが好きで好きでしょうがないメロメロ状態にさせてから告白させるように仕向けたと言っていた陽菜子。
事情聴取で聞き出した内容は、月花が想像していた以上にくだらないものだった。
「それで先輩が陽菜子の恋を応援するとか言い出すなんて……本末転倒なんだけど」
陽菜子もそれは重々承知していて、だからこそ、動揺して泣き出してしまったわけで。
「先輩には本気で、本番みたいなデートをするように、あれだけ念押ししたし」
それこそクドいくらいやった。
「陽菜子は気づいてないみたいだけど、先輩はもうあんたにメロメロ状態だし。あんたから告白すれば、絶対に上手くいくから」
昨日、翔太と別れてから。
月花と陽菜子は事情聴取もそこそこに、今日の、本番みたいなデートではなく、陽菜子にとっては紛れもない本番のデートの打ち合わせをあれこれやった。
陽菜子たちが上手くやれなかったら二人に渡したワイヤレスイヤホンに指示を出すつもりだったが、
「二人とも、傍から見たら完全に恋人同士だし」
水族館に来ている恋人たちは他にもたくさんいて、それらと比べても遜色ないくらい、いや、ごちそうさまと言いたくなるくらい、甘酸っぱい雰囲気を醸し出していた。
「がんばれ、親友。あとはあんたが自分の気持ちを先輩にぶつけるだけだぞ」
月花がそんな思いで見守っているとは、欠片も思っていない翔太たちは、最初にあった、お互いを意識しすぎて堅くなっている感じがなくなり、学校で過ごしているような、いつもの感じになっていた。
しかし、恋人繋ぎをした手が、完全にいつものそれと同じようにはさせない大事な役目を果たしていて。
二人は展示された水槽を見ながらも、意識はお互いに向いていて。
目が合うたびに笑い、握りしめた手に力を込めた。
「それにしても翔太先輩」
「ん?」
「さっきからチラチラわたしのこと見過ぎじゃないですか?」
「それは……ほら、あれだからだよ。わかるだろ?」
「わかりませーん! はっきり言ってくださーい!」
「それ絶対わかってるやつ!」
「当たり前じゃないですか」
断言された。
「でも、何度言われても、うれしいものはうれしいんですから。何度だって聞きたいんですっ」
そんなふうに言われたら、言わないわけにはいかなかった。
「……ひ、陽菜子がかわいいから、だよ」
まだまだ恥ずかしいし、まだまだ照れくさい。
それでも、
「えへへ」
とうれしそうにはにかむ陽菜子が見られるのなら、それぐらいなんてことなかった。
「で、どのくらいですか?」
「何が?」
「わたしのかわいさ、です。どのくらい、かわいいですか?」
「……す、すっごく」
「えー、それくらいですかー」
「……わかってて言わせようとしてるよな?」
「えへへー」
笑って誤魔化しても駄目。かわいすぎるから。もう本当に。
「せ、世界中で一番、陽菜子がかわいい!」
「へ、へー、世界で一番ですかー」
「……言わせておいて照れるの禁止だから」
「いやだってまさかそこまで言われるとは思ってなかったから……!」
なんてことをやっていたら、どこからか、
「このバカップルが……!」
という声が聞こえてきたような気がして、周囲を見回すが、特に怪しい人影はなかった。
陽菜子がどうしたのか聞いてくるので、翔太は何でもないと答えた。
それからしばらく、とりとめのない会話をしながら、いろんな水槽の前に立ち止まっては、覗き込んだりしていた。
もちろん、二人はお互いを意識していたから、何度も何度も視線がぶつかった。
そんなことが何度か繰り返された後で、翔太は立ち止まる。
「? 翔太先輩、どうしました?」
「ちょっと休もう」
「……わたしなら大丈夫ですけど?」
陽菜子が恋人繋ぎをしている手に力を込める。
空いているもう片方の手は、髪の毛を耳にかける仕草を何度も繰り返している。
「……陽菜子とのデートを思いきり楽しみたいんだ。だから、俺を少し休ませてくれ」
ちょうどフードコートに差し掛かっていたこともあり、すぐ近くにあったベンチに腰掛ける。
手は繋いだままだったので、陽菜子も当然、翔太の隣に腰掛けることになり、ぽすんと、すぐ隣に陽菜子のぬくもりが落ちてくる。
「……そういうことなら、仕方ありません。休みましょう」
「さんきゅ」
「……もうっ。今日の翔太先輩、ちょっとかっこよすぎませんかねっ」
「それは、どうもありがとう?」
「ちょ、なんで聞こえるんですかっ!? 今の、完全に聞こえない感じの呟きだったような気がするんですけどっ」
陽菜子が翔太の肩を叩いてくるが、全然痛くない。
「……翔太先輩のばかっ」
「あはは」
あははじゃありません! と再び陽菜子に怒られたし、肩も叩かれたが、やっぱり全然痛くなくて、むしろご褒美というか、愛おしさが増すばかりだった。
「なあ、陽菜子。喉、渇かないか」
「あ、確かに。ちょっと渇いたかもです」
「……っし。じゃあ、ちょっと買ってくるっ」
飲みものを買いに行くだけなのに、なぜか気合いを入れる翔太を不思議そうに陽菜子が見送り――。
帰ってきた翔太の手に握られていたドリンクは一つだけだった。
「翔太先輩、それって……!」
陽菜子の顔が赤くなる。
怒りによるものではなく。
「今日、さ。デート……だから」
ドリンクは一つ。
しかし、そこにはストローが二つ刺さっていた。
「デートなら、こういうのが定番かなって。……陽菜子が嫌なら」
「嫌じゃありません! むしろそっちの方がいいというか……!」
陽菜子の剣幕に翔太が圧倒されたことに気づくと、彼女は恥ずかしそうに身を縮こまらせて、
「とにかく嫌じゃありませんから!」
なんてうれしいことを言ってくれるのだろう。翔太は胸が高鳴るのを止められなかった。
というころで、翔太と陽菜子は、それぞれストローを咥えて、ドリンクを飲み始める。
これまで積み重ねてきた実験のことを考えれば、これぐらい大したことないはずなのに、頭が熱くなって、まともにものを考えられなくなる。
ドリンクはあっという間になくなった。
フルーツジュースを買ったはずなのに、味はよくわからなかった。
そのまましばらく、ベンチに座り続ける。
会話はない。
電車の中でそうだったみたいに、自然な沈黙が流れる。
だが、居心地は悪くない。
むしろいい。
しかし、陽菜子は違ったのか、
「あ、あのっ」
とか、
「え、えっとっ」
とか。
何かを言いかけるのだが、その度に翔太が、
「どうした?」
と尋ねれば、なぜか顔を真っ赤にして、
「な、何でもありませんからぁっ!」
と逆ギレしたいみたいになって、やっぱりなぜか肩を叩かれるのだった。
そんなことを何度か繰り返していた時だった。
館内アナウンスが流れた。
「まもなく、イルカショーが始まります」
陽菜子が期待の眼差しを向けてくる。
翔太に応えないという選択肢は始めから存在しなかった。
巨大なショープールの最前列を、翔太と陽菜子は滑り込みで確保することができた。
ドルフィントレーナーがマイクを握り、開演を告げると同時に音楽が流れ始め、水面が爆発。
数頭のイルカがまるで銀色の弾丸となって宙を舞う。
凄まじい水音と、観客席から沸き起こる地鳴りのような歓声。
驚きで丸くなった陽菜子の瞳は、午後の陽光を反射してきらめいていた。
「すごいです、すごいです!」
陽菜子が興奮している。
ドルフィントレーナーがたった今、華麗な演技を見せてくれたイルカを紹介する。
その声はやさしく、イルカに対する深い愛情が感じられた。
翔太も最初はイルカショーを見ていた。
しかし、やはりというべきか。
気がつけば、隣でくるくると表情を変える陽菜子のことばかり見つめていた。
「うん、すごいな」
興奮でわずかに上気した頬。
前髪が乱れていることにも気づかず、ぱちぱちと手を叩き、声を上げる。
……ああ、好きだ。大好きだ。
胸の奥から沸き上がってくる陽菜子への愛おしさが抑えきれない。
陽菜子を抱きしめたい。思いきり。
「翔太先輩、ほら、どこ見てるんですか! みんな一斉にジャンプするみたいですよ!」
陽菜子に促され、翔太がイルカショーに再び視線を向ければ、すべてのイルカが水中から同時に飛び出し、空中で美しい弧を描いたところだった。
「わぁ……!」
陽菜子、大興奮。
飛び出した瞬間も同時なら、着水の瞬間も同時だった。
そして、最前列だからこその悲劇が起こった。
着水した衝撃で弾け飛んだ大量の水が、まるで土砂降りの雨のように落ちてくる。
「え……」
陽菜子は呆気にとられるだけで動けない。
「陽菜子……!」
代わりに動いたのは翔太だった。
陽菜子を抱き寄せ、背中で大量の水しぶきを受ける。
水しぶきが二人を包み込んで、視界が白く遮られる。
周囲の歓声や笑い声が遠のいた。
この瞬間、世界には二人しかいなかった。
お互いの鼻先が触れるほどの距離で視線がぶつかった。
陽菜子の睫毛に宿った雫が、翔太の頬に落ちた。
あまりの近さに、翔太は呼吸を忘れ、陽菜子を見つめることしかできない。
そしてそれは陽菜子も同じだった。
すぐそこにある翔太を潤んだ瞳で見つめ、言った。
「……っ、好きっ! 大好き、です……っ!」
その声は翔太の心臓を直接震わせた。
陽菜子の潤んだ瞳が熱を帯び、彼女は翔太の首に手を回してくる。
「俺、っ……俺、は……っ!」
翔太は陽菜子の腰に手を回して、彼女のその告白に、キスに応えようとした、その瞬間。
さらに強く抱きしめようとすれば、つま先が何かを蹴飛ばした。
陽菜子が作ってくれたお守りだった。
大量の水しぶきから陽菜子を庇った時、胸ポケットから落ちたのだろう。
……ああ、
完全に沸騰していた翔太の頭が、一瞬で絶対零度まで下がり、凍りつく。
……そう、だ。
今日のデートは本番みたいではあっても、本番ではない。
翔太は実験台。
陽菜子の恋が失敗しないようにするための。
もうキスするとばかり思っていたのに、一向に翔太の唇が自分のそれと重ならないことにようやく気づいた陽菜子が、翔太の視線が向かう先を見て、固まった。
「そ、それは……」
「陽菜子が作ってくれたお守りの試作品。……なのに、こんなにちゃんとしてて」
本命に渡すものは、いったいどれだけ心を込めるのだろう。
翔太は、水に濡れて重たくなってしまったお守りを拾い上げる。
「なあ、陽菜子。今の告白、かなりよかった」
お守りがなかったら、翔太は間違いなく陽菜子にキスをしていただろう。
それぐらい、陽菜子のそれは真に迫っていた。
「本命の相手だって、そんなふうに告白されたら、陽菜子のこと、絶対に好きになるよ」
陽菜子は何も言わない。
「陽菜子?」
それまで手の中にあるお守りに落としていた視線を、そこで初めて陽菜子に向けた時、翔太は陽菜子が涙を流していることに気がついた。
陽菜子の瞳から、今もこぼれ落ちる透明な雫。
それは今日、陽菜子と見たどの光景よりも鮮烈だった。
まだ続くイルカショーも、周囲の喧噪も、何もかもがノイズになって、翔太の世界から排除され、ただ目の前で透明な雫を流し続ける陽菜子の存在だけが確かなものだった。
「……ッ……」
陽菜子は立ち上がると、翔太に背中を向け、走り去った。
イルカショーに夢中になっている観客たちは、彼女一人が立ち去ったことなんてどうでもよくて、いよいよクライマックスを迎えつつある目の前の光景に、爆発的な歓声を上げている。
ただ翔太だけがその場に取り残され、翔太は翔太の世界から大事な何かが失われてしまったことに呆然とすることしかできなくて――。
「波岡翔太ああああああああぁぁぁ……っ!!」
ドルフィントレーナーのマイク越しの声も、イルカショーを楽しむ観客たちの暴力的な歓声も突き破って、その声は独りになった翔太の世界に届く。
乱入者の登場に、会場が静まりかえる。
その正体は月花だった。
彼女は翔太の前まで、ツカツカと足音を乱暴に響かせやってくると、まだ呆けたままの翔太の胸ぐらを掴み上げて力任せに立ち上がらせた。
「あんたは! なんで追いかけないの!?」
そう言われて、初めて翔太は、どうしてそうしていないのか、自分自身に怒りがわき上がった。
陽菜子が泣いていた。
そんな彼女が走り去ってしまった。
なら、翔太が何よりもしなくちゃいけなかったのは、惚けることなどではなく、彼女を追いかけることじゃなかったのか。
翔太の瞳に光が、力が戻ってくる。
「先輩、その『試作品』。陽菜子がいつ本番のやつを作るのか、聞いたことある?」
月花が、翔太が握りしめるお守りを刺して言った。
「陽菜子、それ以外、作る気なんてないから」
これ以外、作る気がない?
「それが本物だから」
翔太の手の中にある、水に濡れてすっかり重たくなってしまったお守り。
「さっきの陽菜子の告白だってそうだよ。今日の――ううん。いつだって陽菜子は全部本物だった」
激しい月花の目が、翔太のそれを射貫く。
「陽菜子が好きなのは先輩のクラスの中の誰かで、それはつまり、先輩だったんだよ!!」
……ああ、そうか。そう、だったのか
「……ッ」
翔太は濡れたお守りを握りしめる。手が、指先が、白くなるほど強く、強く、強く。
『それじゃあ、お人好しの翔太先輩』
初めて会った時、陽菜子は笑っていた。
『わたしの恋が成就するための実験台――お手伝い、よろしくお願いします』
笑っていたんだ。
ずっとずっと、陽菜子は――。
「……最低だ、俺」
反吐が出る。無様で、情けなくて。
「何してんのよ、早く行きなさいよ!」
月花の怒声。
しかし、翔太に叩きつけられたのは、彼女のものだけではなかった。
「兄ちゃん、早く追いかけろ!」
「何してんだ!」
「今ならまだ間に合うわよ!」
「がんばえー!」
周囲の観客からも声が上がった。
さっきまでイルカに向けられていた声が、今は立ち尽くす翔太の背中を叩く鼓動に変わる。
ドルフィントレーナーまでもが、プールサイドからマイクを放り出し、翔太に向けて拳を突き出した。
その口が動く。
行け、と。
「……ああ、わかってる!」
翔太は独りぼっちになってしまったと呆けたことをほざいて腑抜けていた心を、水に濡れて鉛のように重くなった身体を、一歩、前へと。
つま先が濡れた地面を噛む。
こんなことになるまで気づかない、気づこうとしなかった無様な翔太は、人生で一番必死な疾走を始める。
「陽菜子……!!」
逆光の中、翔太の背中が、大好きな人を求めて、青い迷宮へと消えていく。
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