第16話 しあわせのかたち
昼食を終えて教室に戻っても、五時間目の授業が始まるまで、まだかなりあった。
いつもなら昼休みが終わるギリギリまで陽菜子と過ごしていたのだが、今日は陽菜子が、
『ちょっと、その……調子が悪くなっちゃって。ごめんなさい、先輩』
そう言って自分の教室へと戻って行ってしまったから。
体調が悪いなら保健室に付き添うと申し出たのだが、それは断られてしまった。
『そこまでじゃないので。大丈夫です。心配しないでください』
だが、そう告げた陽菜子は顔色が悪かったから、それなら教室まで送っていくと言ったのに、それすら、
『本当に大丈夫ですから……!』
最後はまるで拒絶するみたいな勢いで言われてしまった。
翔太が驚いた顔をすれば、陽菜子自身も驚いたような、いや、それよりもひどく痛々しい顔をして、
『……ごめんなさい』
とだけ言って、行ってしまった。
「大丈夫かな」
翔太は無意識に胸ポケットにしまったお守りを握りしめながら、陽菜子のことを考える。
陽菜子のおでこにキスをした時。
それこそ心臓の音が耳元で鳴っているんじゃないかというくらいドキドキした。
その瞬間の興奮や高揚といった胸の高鳴りは、たぶん、これから先、ずっと忘れない。
好きな人と手を繋ぐこと。
密着すること。
それ以上に、あんなにしあわせを感じられる瞬間があるなんて。
十年後、二十年後、ずっとずっと覚えている。
しかし、別れ際の陽菜子の様子がいつもとあまりにも違ったから、その方が心配だった。
大丈夫だとは言っていたが、翔太の目には全然大丈夫には見えなかった。
それに――翔太の気のせいでなければ、目尻に光るものがあったような気がする。
「あれって……」
それが何を意味するのか考えようとした時だった。
バンッ、と。
乾いた破裂音が教室の空気を引き裂き、強制的に無音にする。
クラス全員の視線が、一斉に入り口へと吸い寄せられる。
翔太も例外ではなかった。
開け放たれたドアの向こう、窓から差し込む午後の強烈な日差しが作る逆光の中に、くっきりとしたシルエットが浮かんでいる。
光を背負って一歩踏み込んできたのは、金髪のウェーブを揺らす、健康的に日焼けした美少女だった。
背は高く、もしかしたら翔太と同じか、少し下くらい。
細く見えるのに、出るところは出ている。
けだるげなのに、どこか凶暴。
彼女が放つ圧倒的な『陽』のオーラが、昼休み後の教室の気怠げな空気を塗り替えていく。
まるでそこだけが別のドラマの照明が当たっているかのように。
モブな翔太とは永遠に交わることのない存在感を放つ彼女は、教室の中をレーザー光線を照射するかのごとく苛烈な眼差しで見回すと、小さく舌打ちした。
「いないじゃん!」
どうやら目当ての人物が見つからなかったらしい。
「ねえ、波岡翔太がどこにいるか知らない!?」
なるほど。彼女は翔太を探していたらしい。
そして彼女が翔太の所在を尋ねた人物は、誰あろう、翔太だった。
他のクラスメイトに尋ねていたら、おそらくそんな人物はこのクラスに存在しないと言っていただろう。
だからこれは喜ぶべきポイント――のはずだ。きっと。
「俺がその波岡翔太だけど。君は?」
「え、アンタが!? え、マジ!?」
よくわからないが、彼女にとって、翔太が翔太であることがよほどショックだったらしい。
何回も何回も口の中で「マジ!?」と呟いているが、それ全部聞こえてるんだよなあと翔太は苦笑するしかない。
翔太のそんな様子に気づくと、彼女は気まずそうな顔をした。
しかし、それは一瞬のことだった。
すぐに毅然とした、いや、まるで誰かの仇であるかのように翔太を睨みつけて、
「陽菜子を泣かせた理由、くだらないことだったらただじゃおかないんだけど?」
そう言った。
「っ」
と言葉になる前の思考の欠片が翔太の口から漏れ出た。
目の前の彼女が何を言っているのか、翔太には理解できなかった。
……陽菜子を泣かせた? 俺が?
そんなことするはずがない。
自分に限っては、絶対に。
だって翔太は陽菜子のことが好きなのだ。
好きな人を泣かせるような真似なんて、できるわけがない。
いや、待て。そんなことより、翔太は勢いよく立ち上がると、彼女に詰め寄った。
それは怒りを剥き出しにしていた彼女がちょっと引くほどだった。
「それで陽菜子は!? 今も泣いてるのか!?」
陽菜子の教室に向かおうとする翔太の手を誰かが掴んで、邪魔をする。
見れば、それは彼女だった。
「放してくれ! 陽菜子のところへいかなくちゃ……!」
陽菜子が泣いているなら、その涙を拭ってあげたい。
……俺は彼女の本命じゃなくて、ただの実験台だ。
それでも、そんな身代わりの自分にだって、それぐらいのことはできる。
だから。
なのに。
彼女が翔太の手を掴んで放さない。
「……アンタが理由じゃないの? 陽菜子、昼休み、あんたに会いに行く前はめっちゃしあわせそうだったんだよ。なのに帰ってきたら目を真っ赤にしてて。あたしが聞いても何でもないとしか言わないし。ねえ、あんたが原因じゃなかったらいったいどうして陽菜子は泣いてたの?」
それは翔太も知りたかった。
少なくとも、最高のキス――その実験をするまではいつもの陽菜子だったから。
翔太と彼女がお互いに硬直状態に陥った、その時だった。
「月花!」
廊下の向こうから、聞き慣れた声が響いた。
翔太が見れば、そこには肩を大きく上下させ、息を切らした陽菜子が立っていた。
「走るの早すぎ……!」
乱れた呼吸のままそう告げる陽菜子。
「陽菜子……!」
と声に出した翔太も金髪の彼女も同じだったが、翔太の方がわずかに早かった。
そして、陽菜子の元へ向かうのもそうだった。
「陽菜子、泣いてたって……! もう大丈夫なのか!? いったい何があったんだ!?」
詰め寄った翔太の剣幕に、陽菜子はどこか気まずそうに視線を逸らすと、髪の毛を弄りながら言った。
「それは……ちょっと誤解があったというか、勘違いというか」
「勘違いじゃない。あたしは確かに見た」
陽菜子に月花と呼ばれた彼女が断言する。
「それは……その……」
陽菜子が翔太の方をちらりと見るが、
「と、とにかく! 翔太先輩に何かされたわけじゃないから……!」
「だったら、どうして泣いてたか説明して」
「それは……」
陽菜子がまた翔太を見た。
今度はもっと長く。
何か言いたげなのは間違いなくて、翔太が何か言おうとする前に、月花が言った。
「やっぱ先輩のせいじゃん!」
確かに、と。見られた翔太もそう思ってしまうくらいには、今の視線には意味があったような気がする。
しかし、陽菜子は手をわちゃわちゃさせて、必死になって否定した。
「ち、違います! た、たまたま! そう、たまたま涙が出ただけで……!」
「どんなたまたまがあったら、目が真っ赤になるほど泣くのさ」
「す、すっごい偶然が重なったら?」
「疑問形で言ってる時点で説得力皆無だって気づいてるよね?」
「そ、それは知らなかったなー」
「陽菜子?」
月花の容赦ない追い込みに、陽菜子がジリジリと後ずさる。
陽菜子が泣いていた理由を翔太も知りたかった。
だから今度はさっきと違う、明らかに翔太に助けを求める視線を陽菜子が向けてくるが、
「俺も気になる。話して欲しい」
「味方がいないです……!」
陽菜子が衝撃を受けた時、突然、低い声が響いた。
陽菜子が来たのとは反対側の廊下から、五時間目を担当する教師がやってきて言ったのだ。
「何してる。もうチャイム、鳴ったぞ。自分の教室に戻りなさい」
翔太が教室をちらりと振り返れば、クラスメイト全員、教科書やノートを出して、着席してた。
「……チッ。タイミング悪すぎ」
月花が舌打ちする。
「このままじゃ納得できないから」
月花が翔太を見る。
「放課後、話。先輩も」
「月花! だから翔太先輩は関係ないんだって……!」
「わかった? 逃げたら絶対許さないから」
逃げるつもりなど最初からない翔太は、彼女の言葉にうなずいて返した。
月花が立ち去る。
「あ、あの、翔太先輩、わたしは……」
陽菜子が何か言いたそうな顔をして、しかし教師が早く戻るように急かしたので何も言えないまま、翔太に背中を向ける。
「昼休み言ってた調子悪いのって、もう大丈夫なのか?」
「大丈夫か?」
その一言だけを背中に呼びかければ、
「………………はい」
一瞬だけ立ち止まって、振り返らないまま陽菜子は答えて、今度こそ本当に立ち去った。
教師に促され、翔太は教室に入り、自分の席に座りながら、胸ポケットのお守りを握りしめた。
放課後。
翔太は陽菜子と月花の三人で、学校近くのファミレスに来ていた。
ボックス席の片側に翔太。
そして反対側に陽菜子と月花が座っている。
席に着いてから、誰も何も話さない。
ドリンク飲み放題を頼んでから、誰も立ち上がってドリンクを取りに行くこともなく、ずっと沈黙が続いていた。
陽菜子が翔太を見る。
視線が合えば、すぐにそらされる。
だが、また見る。
そして、また視線が合うと逸らされる。
その繰り返し。
まるでそういう玩具のようだった。
「……自己紹介、まだだった」
そう言い出したのは月花である。
「アタシ、端山月花。陽菜子の親友」
派手なネイルをつけた指先で自分を指し示す。
「あ、俺は――」
「知ってる。……翔太先輩」
なぜかそこで月花が陽菜子を見て、陽菜子は耳の先まで真っ赤にして俯いてしまった。
そんな陽菜子の様子に、月花はため息を一つ吐き出すと、続けた。
「で、本題。陽菜子が泣いてた理由」
場の空気が一気に張り詰める。
さっきまで聞こえていた他の客の話し声も聞こえなくなる。
陽菜子が小さくなった。
そんな陽菜子を見て、翔太はテーブルの下、自分の太ももの上で手を握りしめると、
「……あれから、考えたんだ」
授業中から、今の今までずっと。
「きっと俺のせいだ」
「へぇ?」
月花が片方の眉だけを器用に上げた。
話の内容次第ではただではおかない、そんな雰囲気を放つ彼女に、翔太の背筋は寒くなる。
だが、逃げるつもりはない。
「昼休み、ちょっと……その、やり過ぎたかもしれなくて」
「何を?」
月花が顎を動かして、話の先を促す。
「いつもしてる実験で、陽菜子が提案したとはいえ、いくらなんでも、おでこにキスっていうのは……」
「ちょ、ちょっと翔太先輩……!」
陽菜子が立ち上がって、反対側に座る翔太の口をふさごうとするが、絶妙に手が届かなかった。
それどころか、ガタンッ! と勢いよく立ち上がってしまったせいで、テーブルの上のグラスが倒れてしまった。
テーブルの上を無惨に広がっていく水。
グラスという世界から解き放たれたそれは、自由を求めて彷徨い、結果、テーブルの端から滴り落ちる。
ポタ、
……ポタ、
と、床を叩く音が、やけに大きく響いた。
翔太に伸ばしていた陽菜子の手は所在なげに漂い、その顔色ははっきりわかるほど悪い。
一番始めに動いたのは月花だった。
何も言わずにナプキンに手を伸ばし、テーブルの上を拭き始める。
同時に店員を呼んで、床にこぼれた水も片付けてもらった。
その間、陽菜子は月花の隣で小さくなっていた。
月花がテーブルをネイルで軽く叩きながら、言った。
「で、キス?」
翔太はうなずく。
「おでこに?」
またも、そのとおりだったので、翔太がうなずく。
「いつもしてる実験って、何?」
月花は陽菜子の親友だと、先ほど紹介を受けた。
なら、陽菜子が説明するかと思って見てみれば、さっきと同じで、真っ赤になって、小さくなったままだった。
「……俺が話すよ」
そう切り出した翔太を陽菜子が見たような気がしたが、見れば俯いているので、気のせいだったかもしれない。
翔太は改めて月花に対して、これまでの経緯を語り始めた。
陽菜子が翔太のクラスの誰かを好きになったこと。
その恋を成就させるために、翔太が実験台になったこと。
手を繋いだり、密着したり、色々なことをしてきたこと。
「……で、昼休みに、その、キスの実験をすることになって」
翔太がちらりと陽菜子を見る。
陽菜子はやはり真っ赤になったまま、他のテーブルを見ていた。
「けど、俺は陽菜子に本当のキスなんてできないから。だって、そういうのは陽菜子が本当に好きな人とするべきだと思うから」
翔太は無意識のうちに自分の胸ポケットを握りしめていた。
「だから、おでこにした。けど……それがやり過ぎだったのかもしれない」
あの瞬間の高揚感を、今も翔太ははっきりと覚えている。
世界中のしあわせを濃縮したような、そんな気持ちを味わうことができた。
それを忘れることなんて、できない。
絶対に。
「まさか俺が本当にそこまでするなんて思っていなくて……だから陽菜子は泣いてたんじゃないかって」
「それは違います……っ!」
陽菜子が立ち上がる。
ただし、さっきと同じ失敗を繰り返さないように、勢いはあったが、慎重に。
その陽菜子と、翔太は視線がぶつかった。
その目は確かに潤んでいた。
「翔太先輩のせいじゃなくて……! わたし、わたしが……!」
翔太のせいではなく、陽菜子が。
いったい何なのだろう。
その先が気になるが、彼女は唇を噛みしめたまま、それ以上、言葉を紡ぐことをしなかった。
「……まあ、うん。なるほどね」
と呟いたのは月花。
「何となく。ほんとになんとなーくだけど、わかった」
陽菜子の方を向く。
「陽菜子。あとでみっちり事情聴取ね」
とんでもない笑顔で告げる内容ではない気がする翔太である。
「月花、何を言っちゃって……!?」
「寝かさないから」
「る、月花ぁ~!」
「かわいい顔してもだめ。これだけ心配させた理由が、まさかそんなことだったなんて」
陽菜子がこちらを向いて、
「翔太先輩、助けてください……!」
「友だちに心配掛けたんだから、諦めるんだ」
「ここにわたしの味方はいないんですか……!?」
陽菜子が魂が抜けたように脱力する。
テーブルの上で頭を抱え、「月花の事情聴取! 怖すぎますっ!?」とうめいている。
その様子を見て、翔太は少しだけ笑った。
笑うことができた。
翔太には、陽菜子の涙の理由はわからない。月花にはわかったようだったが。
ただ、それでも。
陽菜子の様子がこれまでどおりで、翔太が好きになった彼女だったから。
「というわけで、陽菜子」
月花が満面の笑みを浮かべた。
「ここ、陽菜子の奢りね」
「ああ、はい、わかり――え? ちょ、ええっ!?」
陽菜子の悲鳴がファミレス中に響き渡る――その前に、月花がその口を片手で塞いだ。
ふがふが言ってる陽菜子もかわいいが、何を言っているのかさっぱりわからない。
月花も同じように感じたみたいで、手を放した。
「事情聴取するって言ってから、注文しまくってた気がするんですけどっ!?」
「そう?」
「パフェとか、パフェとか、パフェとか、あとパフェとか!」
「親友の陽菜子にだけ打ち明けるけど。あたし、太らない体質なんだよね」
「知ってます――じゃなくて! わたし、今月ピンチなんですけどっ!?」
「親友を心配させたのはどこの誰?」
「そ、それは……でも、だけど!?」
翔太先輩、と陽菜子が期待の眼差しを向けてきたので、
「わかってる。大丈夫だ」
「さすが……!」
「俺の分は自分で払うから」
「そうじゃありません……!」
知ってる。
けど、何だかんだ言いながらも、陽菜子はレシートを持ってレジへと向かっていった。
親友と言っていた月花に心配掛けたことを申し訳ないと思っているからだろう。
もちろん、宣言したとおり、翔太は自分の分を陽菜子に渡しておいた。
その時、少しだけ手が触れたのがうれしかったのは、ここだけの秘密である。
翔太と月花は席を離れ、出入口に向かう。
そこで翔太が、くたびれたサラリーマンのような哀愁漂う背中を見せつける陽菜子がレジに並んでいる姿を苦笑しながら眺めていると、月花が翔太の肩を叩いてきた。
「で、先輩。先輩はそれでいいの?」
「? 何が?」
月花が真っ直ぐ翔太を見てくる。
派手なネイルで、翔太の胸をつつく。
「陽菜子のこと好きでしょ、先輩」
翔太の動きがぴたりと止まった。
「…………………………っな、何を言ってるのかよくわからないな!」
翔太は眼鏡を外し、汚れても曇ってもいないレンズを、ポケットから取り出したハンカチで拭いた。
「動揺しすぎ」
月花が呆れたようなため息を吐き出す。
「わからないわけないからね? 先輩の陽菜子を見る目、ガチ恋してる人のそれだから」
翔太は答えず、ただ眼鏡をかけ直す。
眼鏡を外した時には失っていた世界の輪郭。
ファミレスのそれほど明るくない照明の光は滲み、世界をいっそう曖昧なものにしていた。
しかし、眼鏡を掛けた今、世界は元の形を取り戻す。
観賞用植物、メニュー表、そして何もかも見透かしているかのような、月花の眼差し。
曖昧ではない、曖昧ではいられない、クリアな世界。
翔太は握りしめた。
それを――胸ポケットの中にある、不器用な『試作品』を。
強く、強く。
「なのに陽菜子の恋を成就させるために実験台になるとか。応援してるつもり?」
呆れたような口調。
実際、呆れているのだろう。彼女の眼差しには、それが感じられる色があった。
「……だったらどうだって言うんだ」
手の中にあるお守りの感触を確かめながら、翔太は言う。
「ああ、そうだよ。俺は陽菜子が好きだ。――大好きだ」
初めてだった。
自分の思いを誰かに告げるのは。
その相手が陽菜子じゃないことが悲しくないと言ったら、正直、嘘になる。
しかし、それでもこうやって言葉にすることで、より自分の思いが明確になる。
「けど、だからこそ……俺は陽菜子には最高にしあわせになって欲しいんだ。大好きな人と結ばれて、ずっとずっと笑顔でいて欲しいんだ」
翔太は胸元を握りしめる。シャツが皺になることなど考えず。強く、激しく。
「それぐらいしか、地味で冴えないモブの俺にはできないから」
陽菜子が好きで。
本当に大好きで。
陽菜子といられるだけで、他に何もいらないくらい、しあわせな気持ちになることができて。
だけど、だからこそ、そんな陽菜子の隣に立つべきなのは、彼女が本当に思う相手でなければいけない。
今の翔太は、陽菜子の実験台でしかないから。
実験台は、あくまでも、本命がそこに立つまでの、仮初めのものだから。
「だから、俺は全力で陽菜子の恋を応援する。バカにされても、呆れられても、絶対に」
対峙する覚悟で翔太が月花を見れば、月花はそんな翔太を茶化したりせず、むしろ満足げな顔をしていて、
「……いい男じゃん。さすがあたしの親友が選んだ男」
その呟きは、呟きというにはあまりにも微かすぎて、翔太の耳に届かなかった。
「あ、陽菜子が戻ってきた」
その言葉に、翔太はビクッとなる。
今の話を陽菜子に聞かれてはいないと思うが、それでも万が一ということも考えられるから。
「……くぅ、痛すぎる出費です……」
涙目の陽菜子の様子から、聞かれていないことを察してほっとする。
「? どうかしましたか、翔太先輩?」
そんな翔太の微妙な変化にいち早く気づいた陽菜子が聞いてくる。
「あ、いや、何でもない」
「あやしいです……」
「あやしくない、あやしくない」
「でも、何か隠している匂いがプンプンしますよ?」
とか言いながら体を密着させてくる。
むしろ甘くていい匂いが陽菜子から漂ってきて、翔太の理性が試されていて大変だった。
翔太たちは揃って店を出る。
「じゃ、解散ってことで」
月花が陽菜子の肩に手を回し、そのままどこかに向かう。
宣言どおり、寝かさないで事情聴取するのだろう。
「がんばれ、陽菜子! 応援してるぞ!」
翔太が言えば、
「応援じゃなくて助けてください!」
陽菜子が応じて、
「それは無理な相談だ!」
「最悪です……!」
「あははは」
こんなやりとりを、あとどれくらい続けることができるんだろう。
楽しい。
だけど、
寂しい。
翔太は陽菜子たちの姿が見えなくなるまで見送ろうとしていたのだが、
「あ、そうだ」
と月花が立ち止まった。
「先輩って明日の休日、暇だったよね?」
「……決めつけるな。俺にだって用事の一つや二つ――」
「陽菜子の恋、応援するんでしょ?」
「よしわかった! 俺はどうすればいい!?」
翔太のその変わり身の早さに、月花が呆れたような苦笑をしてみせる。
「駅前に来て」
「ちょ、月花!? 翔太先輩とふたりきりで何をするつもりですか!?」
陽菜子が慌てた様子で言い募れば、月花は満面の笑みで告げる。
「デート」
「「はぁぁぁぁぁぁっ!?」」
翔太と陽菜子の声が、図らずも重なった。
「ちょ、な、何言っちゃってくれてるんですか月花っ! 翔太先輩と、デ、デートとか……! ……わたしだってまだしたことがないのにっっっ」
最後、陽菜子が何を言ったのかよく聞こえなかったが、今の翔太に気にしている余裕はなかった。
「お、俺には心に決めた人が……!」
いるから、だからデートはできないと断ろうとしたのだが、
「は!? 翔太先輩、心に決めた人って何ですか!? どういうことですか!? 詳しく話してください! 今すぐ話してください! さあ! さあ、さあ……!!」
つい先ほどまで月花に言い募っていた陽菜子が、ぐるんと翔太に向き直り詰め寄ってくる。
振り返り方がホラー映画のお化けのそれで怖かった。
まさか陽菜子が好きだと言うこともできず、口ごもる翔太に、
「なんで何も言わないんですか!? 翔太先輩は誰のものですか!? わたしのものですよね!? ならわたしに隠し事とかしちゃだめだと思うんですけど!?」
陽菜子が目をぐるぐるにしてヒートアップしていく。
おそらく、今、自分が何を口走っているのか気づいていない。
翔太は翔太で本当のことを言うわけにもいかず、
「そ、それは、ほら、あれだから……!」
とテンパっているため、気づいていなかった。
お互いに激しく混乱し合う姿を月花は楽しげに見ていたが、
「実験するから」
と言った。
実験、と翔太に詰め寄っていた陽菜子が口にする。
そう、と月花はうなずいて、ネイルを陽菜子と翔太に向け、
「陽菜子は先輩と、陽菜子の恋が成就するように実験してるんでしょ?」
そのとおりだったので、翔太も陽菜子もうなずく。
「だから陽菜子が本命の人とデートする時、失敗したりしないように実験につき合ってもらおうって」
「な、なるほど。そういうことですかっ。……実験ならもちろんわたしも参加しますし! うんっ! そういうことなら仕方ありませんねっ!」
さっきから一転して、頬を紅潮させて陽菜子が言ってくる。
「ああ、もちろん」
翔太に断るという選択肢ははじめからなかった。
「じゃあ、明日九時、駅前で。ちなみにあたしは総合プロデューサーとして一緒に行くから」
「え?」
といったのは陽菜子で、
「は?」
といったのは翔太である。
「というわけだから」
何が『というわけ』なのかさっぱりわからないが、月花は「ちょ、月花!? 総合プロデューサーって何ですか!?」と混乱している陽菜子の肩に手を回すと、
「それよりこれから事情聴取だから」
「え!? そんなことしてる暇は――」
「ある」
「いや、でも……! わたしは明日の実験のためにいろいろと準備しなくちゃで……!」
「そこも含めて、ね」
などと、後半の方はよく聞こえなかったが、二人は去っていった。
途中、陽菜子が何度か振り返ったので、翔太は手を振って応えた。
二人の姿が完全に見えなくなるまで見送った翔太は、胸ポケットのお守りを握りしめた。
「……真っ赤だ」
見上げた夕暮れの空が、なんだか目にしみるようだった。
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