第15話 しあわせのぬくもり
学校が見えた。
そう思ったら、翔太の足が突然動かなくなった。
「ちょ、翔太先輩っ?」
急に立ち止まった翔太を、少しだけ非難するかのように陽菜子が頬を膨らませて見てくる。
ヤバ。とんでもなくかわいいんだが!?
なんて翔太が思っていることなど知るはずもない陽菜子は、
「急に立ち止まったら危ないんですけどー」
えい、えいと、体をぶつけてくる。
そんな仕草もたまらなくかわいくて、翔太は必死に何でもない顔を取り繕う。
「で、なんで立ち止まったんですか」
陽菜子に尋ねられて、翔太が咄嗟に見たのは手だった。
より正確に言うなら、陽菜子と繋いだ手。
恋人繋ぎをした、それだった。
学校に着いたら、この手は離さなければいけない。
翔太と陽菜子は先輩と後輩で、学年が違って、教室も違う。
だから、それは当たり前のことだった。
……だけど。
思ってしまったのだ。
……離したくない。
この、陽菜子のぬくもりを、自分から手放すなんて、そんな真似、絶対にしたくない、と。
そう思ってしまったのだ。
もう、どうしようもないくらいに。
それはきっと――いや、絶対に。間違いなく。
翔太が自覚してしまったからだ。
陽菜子への思いを。
好き、を。
陽菜子は翔太の視線の先を見て、それから「ああ」とうなずくと翔太を見た。
そして、ふふふと笑った。
それはとっておきの弱点を見つけた、まるで悪魔みたいな笑みだった。
それなのに。
……くそ、これが『好き』ってことなのか。
今の翔太には、そんな笑顔ですら、最高に見えてしまうのだ。
「手、離したくないんですねー?」
ぐっ、と。翔太は言葉に詰まって、だけどここで何か言わないと陽菜子の思うツボだと思って、何かしら言おうとするのだが、何も言葉が出てこない。
だって、今、口を開いたら、翔太はきっと、とんでもないことを口走ってしまう。
とんでもないこと――『好き』を。
言ってしまう。絶対に。間違いなく。
そんな翔太の心を知ってか、知らずか、陽菜子がそのちっちゃな顔を近づけて、ぽそっと、翔太の耳元で囁いた。
「このままサボって、どこか行っちゃいましょうか?」
耳元で、彼女のやわらかな唇が動くかすかな音と、甘い熱を含んだ吐息が鼓膜を直接震わせる。
逃げ場のない至近距離で放たれたそのソプラノボイスは、なぜだか重低音のように翔太の胸の奥深くまで響き渡った。
さらに陽菜子が体を寄せてきて、
「デートとか」
「…………………………………………い、行かないっ」
「今、答えるまでに間がありましたよねー?」
「陽菜子の、き、気のせいだろ?」
「そですか。――なら」
陽菜子が繋いでいる手をぶんぶん振って、言った。
「この手、離さないとですよねー?」
陽菜子のいたずらっぽい笑みは、翔太が離せないと確信しているみたいだった。
「あ、当たり前だろ!」
嘘だ。
「今すぐ離すからな!」
嫌だ。
翔太は視界の端に映った校門の冷たい鉄格子の存在を消すように、堅く目を閉じた。
世界には翔太と、翔太が手を繋いでいる陽菜子しかいなくなる。
翔太は自身の指を一本、また一本、引き剥がすように解いていく。
最後に残った小指の先が陽菜子から離れた瞬間、世界に一人取り残されたような不安を抱いて、翔太は目を開けた。
「……離しちゃいましたね」
聞こえてきた声が、まるで今にも泣き出しそうに感じられて、翔太が弾かれたように彼女を見れば、そこにいたのはいつもと変わらない、いや、いつも以上にイタズラっぽい笑みを浮かべる陽菜子で。
「翔太先輩、よくがんばりました」
ちょっと背伸びして、翔太の頭を撫でてくる陽菜子。
「……俺はやればできる子だからな」
「それ、自分で言っちゃいますか」
苦笑する陽菜子に、翔太も苦笑して見せた。
まるでさっきまでの甘酸っぱい空気がなかったみたいに。
翔太は自分の手を見つめる。
だが、そこにはまだ微かだが、しっかりと残っていた。
陽菜子の手のぬくもりが。
下駄箱で上履きに履き替え、翔太と陽菜子は再び合流する。
階段を上る。
翔太と陽菜子の教室はそれぞれ階が違う。
「……もうすぐチャイムが鳴っちゃいますね」
だから、今日は踊り場で別れる。
「……だな」
陽菜子の言葉に翔太が応える。
「……ほら、チャイム。鳴るって言ってるじゃないですか」
「……それは陽菜子も同じだろ?」
「…………もしかしてわたしを見送るつもりですか?」
「………………そうだって、言ったら?」
「翔太先輩のくせに生意気ですね!」
陽菜子が笑って、だけどその場から動かない。
自分が動けないのは、翔太自身、よくわかっている。
離れたくないからだ。
では、陽菜子は?
どうして教室に向かおうとしない?
本当に、もうすぐ、チャイムが鳴り出すというのに。
「仕方ありません。今日だけ特別に見送らせてあげます。最大限、感謝してくださいね?」
「ああ、ありがとう、陽菜子」
翔太が笑えば、陽菜子がやっと背中を向けて教室へと向かった。
――いや、向かわなかった。
何歩か踏み出しはしたのに、戻ってきたのだ。
陽菜子が「わ、忘れてたことがあってっ」と自分のカバンをごそごそし始めた。
なんだろうと思ってみていれば。
「翔太先輩、これ」
差し出されたのは、白とピンクの布地で作られた、小さな巾着袋だった。
「小物入れ?」
「なっ、違います! お守りです! 一目見ればわかるじゃないですかっ!」
わからない。
だが、陽菜子が顔を真っ赤にしてムキになる姿はかわいくて、
「そうだな。一目見ればわかるよな、小物入れだって」
「だから~!」
陽菜子がぷいっとそっぽを向いてしまう。
そんな陽菜子もかわいくて、もっとからかいたくなってしまうのは、これまでモテたことのないモブだからだろう。
でも、やり過ぎたら嫌われてしまうこともわかっているので、ここら辺で自重しておく。
「風邪、治ったみたいですけど。また引いたりしたら困るので。だ、だって翔太先輩は、わ、わたしの……」
その、あの、えっと、などとモゴモゴしている陽菜子に、
「陽菜子のもの、だからな」
「そ、そうです! わかっているなら、それでいいんです!」
ふんっ、と言い切る姿の、なんとかわいらしいことか。
「あ、あと、ちなみに言っておくと、試作品ですから、それ! 家庭科の授業で余った布があったことを思い出して、捨てるのもあれだし、暇だったので、ちょ~っと気まぐれに作っただけで! 別に翔太先輩のために、夜遅くまでかけて一生懸命作ったとかじゃないですから!」
耳まで真っ赤になっていることは、きっと指摘したら駄目なやつだろう。
翔太は胸の奥に広がるあたたかくて甘い感触に頬を際限なく緩ませて、
「ありがとう、陽菜子」
お守りを抱きしめた。
「一生、大事にする」
「なぁ……っ!?」
陽菜子が驚いた顔をしているが、翔太の言葉に嘘はない。
「そ、それじゃあ、わたしは教室に行きますので! また後で!」
逃げるように走っていく陽菜子の背中が完全に見えなくなるまで見送ってから、翔太はお守りに視線を落とした。
よく見れば、縫い目は少し乱れ気味で、角の形も少し歪んでいる。
「試作品、か」
それでもこれは、陽菜子が翔太のために、時間を掛けて作ってくれたものだ。
なんてしあわせなんだろう。
……たぶん、この瞬間の俺は、世界中の誰よりもしあわせに違いない。
「……だから」
もう充分だ。
地味で、冴えない翔太には、これ以上のしあわせは必要ない。
――陽菜子が好きな相手は、俺のクラスにいる誰か。
このお守りを作る技術だって、本当はその相手のために磨いているのだろう。
本番のお守りは、きっともっと上手にできているはずだ。
陽菜子は努力を惜しまないから。
だって陽菜子はいつだって本気で、真剣だ。
……そばにいる俺は知っている。
……俺は実験台、だから。
陽菜子の恋が成就するための。
練習相手。
「………………きだ」
陽菜子のことが。
「……………………本当に好きだ」
でも。
だからこそ。
翔太は笑った――笑ったつもりだった。
ちょっと不格好なお守りをそっと胸ポケットにしまい込む。
ずっと、肌身離さず持っていよう。
陽菜子が自分のために作ってくれた、世界に一つだけの宝物を。
「俺の望みは…………陽菜子にはしあわせになって欲しい」
だから。
ふと廊下の窓に視線が向かうと、そこには突き抜けるような青空を背景に、今にも崩れ落ちそうな顔をした情けないモブが映っていた。
……駄目じゃないか。
翔太はそいつを元気づけるかのように、自分自身の両方の頬を指先で無理矢理押し上げた。
笑えと、笑うんだと、窓に映るモブに向かって応援するように。
それでも、窓に映ったモブは、歪んだ、泣き顔よりも悲しい笑顔を浮かべ続けていた。
さっきよりはずいぶんマシになったはずだと、翔太は窓に映るモブに背を向け、光の差す教室へと足を踏み出した。
――昼休み。
人気のない校舎裏で、翔太は陽菜子と並んで座っていた。
……いや、並んでいるというより、ほぼ密着だ。
肩が当たり、膝が触れ、お互いのぬくもりを感じられすぎる距離感は相変わらずおかしい。
「ん~……」
陽菜子が首を傾げる。
どうしたのかと問えば、こんな答えが返ってきた。
「なんか今日の翔太先輩、いつもと違うような気がして」
「そうか?」
「なんというか……落ち着いてる、みたいな?」
陽菜子が、はてなと首を傾げる。しかも唇に手を当てるというあざとい仕草つきで。
くっ、かわいすぎるだろ!?
と思う内心はこれっぽっちもおくびに出さず、
「べ、べべべべ別にいつもどおりだろ?」
「……あ、確かにいつもどおりですね」
と陽菜子は言いつつも、
「でも、ちょっと違う感じもするんですよねー……?」
じ~っという擬音付きで、疑うような目で見られて、翔太は思わず視線を逸らす。
逸らしたからと言っても超密着状態なので限界があるのだが。
それでも可能な限り、翔太は視線を逸らして、明後日の方を見続けた。
陽菜子は鋭い。
厳密にいえば、確かに今日の翔太は、いつもと違った。
何が違うかと言えば、陽菜子が好きだと自覚したこと。
一緒にいられる時間がうれしくてたまらないということ。
陽菜子が笑うと、胸が弾んで。
からかわれると、やっぱり胸が弾んで。
いつまでもずっと一緒にいたいと、そう思ってしまう。
翔太は思う。自分はなんて幸せものなんだろうか、と。
だって、こんなにも大好きな人と一緒にいられるのだ。
これ以上、しあわせなことなんて、たぶん、世界中のどこを探しても見つけられない。
――なんて、そんなことを翔太が思っていたら。
「……なんか、な~んかなぁ」
言いながら、陽菜子が超密着状態から、肩をぶつけてきた。
え、なんだこれ。地味に痛いが同時になんかバカップルみたいでめちゃくちゃしあわせなんだが!?
「……今日の翔太先輩、かっこいいとか。ちょっとずるくないですか」
えいえいと、やっぱり超密着状態から脇腹を叩いてくるのはやめて欲しい。いや本気で。バカップルとか思ってる場合じゃなく。陽菜子が叩いている場所肝臓だし、地味に痛い。
「えいえいえいえい……!」
「だんだん本気になってきてるよな!?」
「バレたからには口を封じるしかない……!」
発想が恐ろしすぎるんだが!?
「翔太先輩。今日の餌――じゃなくて、お昼ご飯ですよ?」
「なるほど。食事で文字どおり口を封じるわけだな? だが今、聞き逃せないことを言ったよな? 餌?」
「ええ、言いましたよ!」
「否定しないどころかドヤ顔とか陽菜子はさすがだな!?」
「ふふ、もっと褒めてくれていいですよ?」
「褒めるところがないんだよなぁ」
「えへへー」
「笑うところでもないし」
穏やかな空気。
「ほらほら、餌付けの時間ですよー」
完全に隠すつもりのない陽菜子に、翔太は苦笑した。
「……いいけど。ちょっと近くないか? いつもの『あーん』ができないだろ」
「……確かに。言われてみれば、そですね」
じゃあ、と陽菜子が呟いて。
「うん、これでいいですね♪」
「……それで距離を取ったと言い張るつもりか?」
「つもりですが何か?」
「1センチも変わってないんだが!?」
「1センチ1ミリは離れてます!」
「誤差の範囲……!」
「もうっ、翔太先輩はワガママなんだからっ。これならいいですよねっ」
「近づいてるのは何でだろうな!?」
「何ででしょう~」
もう本当に、こんな他愛ないやりとりができる、ただそれだけで翔太の胸にしあわせが満ちていく。
「まあ、大丈夫ですよ。心配いりませんっ! とっておきの解決策がありますから!」
陽菜子がこの『にやり』と笑う時はろくでもないことを言い出すのは間違いないのだが。
「わたしがおかずを咥えれば、ね?」
翔太の予感的中である。
「その手があったか! ――なんて言わないからな!?」
「とか言いながら、めちゃくちゃ真っ赤になった翔太先輩、鼻の下が完全に伸びきってるんですけど。期待しちゃってるんですよね~?」
「し、してません!」
「即答できない時点でダメダメですねー。じゃあ、いきますよー。まずは……翔太先輩が好きなこのおかずを咥えて。……んっ」
とか言って卵焼きを差し出してくる。
いつもの翔太なら、間違いなく目をぐるぐるさせて激しく混乱していただろう。
いや、実際のところ、今だって目はぐるぐるしそうだし、混乱しているし、心臓なんか信じられないくらいバクバクしていて、頭は茹だってどうにかなりそうだった。
それでもこの『実験』の先に――陽菜子のしあわせが待っているのなら。
「んっ」
翔太は陽菜子が咥えた卵焼きの端に歯を立てた。
……あ、陽菜子の瞳に映る俺、顔が真っ赤になってる。
なんてことがわかるくらい、すぐ近くに陽菜子の顔があって。
そんな陽菜子の顔が、信じられないくらい真っ赤になった。
卵焼きを口から離すと、陽菜子は、
「ちょ、翔太先輩、い、いいいいいったいにゃにを……!?」
陽菜子が噛んだ!? とか思った翔太だったが、翔太は翔太で表面上は余裕ぶっているが、内心では心臓がバクバクだったから。
陽菜子の体温が移った卵焼きの端から、翔太は噛みしめる。
舌の上に広がる出汁の甘みと、喉を通るわずかな熱は陽菜子のものだろうか。
ごくりと、自分でも驚くほど大きく喉仏が上下した。
その一口を飲み込むまでの数秒間はまるで数時間かのように感じられたから。
だからもう大丈夫だ。しっかり落ち着いた。
「にゃ、にゃにって、その、にゃんだ……!?」
全然落ち着いていなかった。
翔太はグッと気合いを入れて、
「ひ、陽菜子の恋を成就させるための実験、なんだから。これぐらいやらないと、だろ?」
「にゃ、にゃるほど……!?」
陽菜子はまだ若干噛み噛みのまま、
「……翔太先輩から積極的にこられるなんて聞いてないんですけど!?」
早口でぽそぽそ呟かれた声は、すぐ近くにいたはずなのに、翔太には届かなかった。
翔太の心臓がパンクしそうになっていたから。
陽菜子は顔を真っ赤にして、うれしそうな、しかし悔しそうな、何とも言えない百面相をすると、
「ぐぬぬ! 翔太先輩!」
ぐぬぬとか声に出して言う奴初めて見るんだがと思いつつ、翔太は陽菜子に続きを言うよう促した。
「今はあまりにも突然だったので後れを取りましたけど、今度はわたしが絶対に勝ちますから!」
ぐいっと身を乗り出し、鼻先に陽菜子の吐息がかかるくらいの超々至近距離で言い放つ。
「次の実験をしましょう!」
出た、実験。いったい何をするつもりなのか。
「最高のキスをする実験です……!!」
世界が止まった。
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………は?」
「あれ、聞こえませんでした?」
「……いや、聞こえたからのリアクションだったんだけど。空耳だったという可能性は」
「万が一にもあり得ません!」
どやぁ! という表現がしっくりきすぎるくらい、満面の笑みを浮かべる陽菜子である。
「……正気か?」
「翔太先輩じゃないですからね!」
「何気にひどい言いぐさだって気づいてる……?」
「何言ってるんですか! もちろんですよ!」
自覚があるならいい――のか?
よくわからないが、翔太は陽菜子のことを好きになってしまったので、この程度のことは許せてしまうのだった。
「いいですか、翔太先輩。よく聞いてください。今日わたしは翔太先輩にドキドキさせられてしまいましたっ!」
「そう、なのか」
それが本当なら、何だかめちゃくちゃうれしいのだが。
思わずニヤけてしまう翔太である。
「でも、それは駄目なんです!」
「え、なんで?」
ニヤけてしまった顔を再びキリッとさせようとしていた翔太は、素の声で尋ねる。
「なんでってそれは……!!」
「それは?」
「……と、とととととにかく、駄目なものは駄目だからなんです……!!!!」
危ない危ないと胸を撫で下ろしている陽菜子に、『と』が多すぎることと、何が危ないのか気になったが、翔太は続きを促した。
「そういうわけで、今度はわたしがドキドキさせるために最高のキスを――」
「――しよう。任せてくれ」
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………え」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
陽菜子は固まってしまった。
翔太がこの実験につき合うわけがないと思っていたのに。
顔を信じられないくらい真っ赤にして。
すっごく、本当にめちゃくちゃ困った顔をして。
それだけは絶対できない……!!
と、そんなふうに言うと思っていたのに。
……するって言った? 翔太先輩が……!?
わたしとキスを!??!!?!??!
「するぞ、キス」
言った。本当に言っちゃってる!
と内心慌てふためく陽菜子に、翔太が顔を――その唇を近づけてくる。
元より超々密着状態の2人だ。
もう、本当にすぐそこまで翔太の――大好きな人の顔が近づいてきて。
……え、待って!?
わたし、朝、何食べてきたっけ!?
匂いするもの食べてないよね!?
大丈夫だよね!?
だって、ほら、ちゃんと歯も磨いてきたし……!
……じゃなくて! そんなこと思っている場合じゃなくて!?
「ちょ、ちょちょちょちょっと待ってください翔太先輩……!」
陽菜子が声をかければ、翔太が首を傾げる。かっこいい。違う。そんなこと思っている場合じゃない。
「その、キスとか、そんな簡単に……!」
「実験なんだから」
怖いくらい真剣な顔で、翔太が言う。
「なら、ちゃんとやらないと」
陽菜子は自然と胸元をきつく握りしめた。制服が皺になるのに。だけどそんなことなど気にしていられないくらい心臓が痛い。痛くて、痛くて――ものすごくドキドキして。
気がつけば、陽菜子は自然と瞼を閉じていた。
――ッ。
何かが触れた。
世界中から音が消え、暗闇の中にいる陽菜子にとって、その瞬間、それだけがリアルだった。
だけど、それは陽菜子が想像していた場所に触れたものではなかった。
想像していた場所――つまり唇ではなくて。
「おでこ……」
で。
考えがまとまらないまま呆然とした思考のまま目を開ければ、そっぽを向いているせいで首筋から耳の先まで真っ赤になった翔太が言った。
「そういうのは、さ。ほら……」
そこで一瞬、翔太が唇を噛みしめる。先ほどの陽菜子のように胸元を一瞬握りしめて。
だけど、すぐにいつもの笑顔になって、言った。
「陽菜子が本当に好きな人とするものだろ?」
あ、
とも、
え、
ともつかない、言葉になりきれない感情の残滓が、陽菜子の口から漏れ出て。
陽菜子は目の前が真っ暗になるのを感じた。
――違います、先輩。違うんです。その相手はすぐ目の前にいるんです。
「だから、俺はそこ」
――なんでこの人、気づかないの。わたしがこんなに好きなのに。
世界一鈍感。
でも、
大好き。
世界で一番、好き。
――悪いのは先輩じゃなくて、わたし。
先輩から告白して欲しいとか思って、あんなバカみたいなことを言ったから。
『あれ、聞こえませんでした? 先輩のクラスにいる人のこと、わたし、好きになっちゃったんです♪』
『告白して失敗、なんてことになったら嫌じゃないですかー? なので、翔太先輩にはわたしの恋愛が成就するための実験だ――じゃなくて、お手伝いをしていただけないかなー、と思いまして』
『それじゃあ、お人好しの翔太先輩。わたしの恋が成就するための実験台――お手伝い、よろしくお願いします』
陽菜子は涙の幕で歪んだ世界の中で、翔太の姿が陽炎のように揺らめいているのを見た。
今も額に残っている火傷しそうなほどの熱は、しあわせ以外の何ものでもないはずなのに。
それなのに、その熱が今は陽菜子の胸をどうしようもなく焦がしていた。
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