第14話 色づいた世界
翔太の風邪が治った。
――代わりに、治らないものができてしまった。
それが何かと言えば……。
「また明日、その約束をどうやら守れたようですね、翔太先輩♪」
翔太の家の前。
いつもの場所に立って、陽菜子が笑った。
その笑顔を見た瞬間だった。
翔太の胸がドキッとした。
これまでだって、いくらでも見てきたはずなのに。
――反則すぎるだろ、このかわいさ!
陽菜子のことを好きだと自覚してしまったせいで、陽菜子の顔をまともに見ることができない翔太は、そっぽを向いて堂々と返事をした。
「……お、おう」
……訂正する。若干だが、どもってしまった。
「あれ? 今日の翔太先輩、ちょっと挙動不審ちゃんです?」
「そ、そそそんなこと全然ないぞ!?」
「『そ』の主張が激しすぎですねー」
陽菜子が苦笑している。
「まったく。翔太先輩のくせして、ちゃんと約束を守るなんて生意気なことをするから、そんなふうになるんですよー?」
「……何だよ、それ」
「え、なんで気づかないんですか? こんなに褒めてるのにー」
「棒読みなんだよなぁ」
なんてことを言いながら、やっぱり今日の翔太は真っ直ぐに陽菜子を見ることができなくて。
「まあ、いいです」
なんて言いながら、陽菜子が翔太に近づいてくる。
彼女が歩み寄るたびに、朝のやわらかな逆光がそのシルエットを縁取っていく。
一歩、二歩と。
弾むようなステップに合わせて、淡いベージュの髪が光を透かしながら、スローモーションのようにふわふわと宙を舞う。
世界から雑音が消え、彼女の足音だけが鼓動のように響いた。
「こんなことしてる間に遅刻したら、もったいないですし。学校、行きましょう!」
陽菜子がいつもどおり翔太の腕を取ろうとした。
すぐ近くにやってきた陽菜子の、そのぬくもりを感じて、翔太の心臓が早鐘を打つ。
――大丈夫だ。
腕を組まれるのなんていつものことだし。
なんなら普段から心臓はバクバクして大変なことになってたんだから、これぐらい何の問題もない。
平気な顔で対処できる。
――がんばれ、俺!
などと、内心で気合いを入れていた翔太だったのに。
「じゃ、出発しんこー!」
そう言った陽菜子が髪を何度も自分の耳に掛けながら、反対側の手で翔太の腕――ではなく。
その指先で翔太の手の甲を羽のようにかすめて。
「ッ!?」
となった翔太なんてかまわずに、甘い熱を持った陽菜子の細い指が、翔太の指の隙間を一つずつ埋めていった。
小指、
薬指、
中指、
人差し指、
親指。
ひとつ、またひとつ、ゆっくりと。
節と節。
付け根と付け根。
まるで最初から一つだったみたいに。
まるで逃げ場をふさぐかのように密着した手のひらから、陽菜子の拍動が伝わってくるような気がした。
「なっ、ちょ、おっ」
翔太の繋がれていない方の手が、何かを求めて、しかしその何かがわからず、闇雲に彷徨う。
呼吸のリズムがわからなくなって、肩が小刻みに上下する。
陽菜子は何でもないふうな顔をして、自分のそれと絡めた手を目の前に持ち上げてみせる。
二人の手が視界の中心で止まる。
彼女の細い指。翔太のごつごつした節。
朝日に透けて、指の間から光が漏れた。
「あー、これですか? いわゆる恋人繋ぎってやつですよ? 今度のテストに出るので、赤点決定で補習確定の翔太先輩は絶対に覚えていてくださいね?」
「ああ、わかった――って違うだろ!?」
「誤魔化されなかったですかー。翔太先輩のくせに生意気ですねー」
手を繋いでいない方の指で、翔太の眼鏡をつんつんつつく。
――てか、俺のくせにってなんだ。俺はそんなに騙されやすそうなのか?
「まあ、でも、仕方ないんです」
「いや、仕方ないって」
そんなことを言われても、翔太的にはめちゃくちゃ困ってしまう。
なぜって、これでは心臓が保たない、絶対に……!
おかしい、とは思う。
だって、これまで陽菜子とは、超が何個もつくくらい密着してきたのだ。
それこそ、陽菜子が翔太の膝の上に座ったことだってあった。
なのに、こんなふうに手を繋いだからって、あり得ないくらい心臓がバクバクして――。
……ああ、そうか。
あの時の翔太と、今の翔太では、決定的な違いがある。
それは、翔太が陽菜子のことを好きだと自覚して、認めたこと。
彼女のことが好きで、いつだって、どんな時だって、彼女のことばかり考えてしまうくらい、彼女のことしか考えられなくなってしまったくらい、今の翔太は陽菜子にメロメロで、陽菜子一色に染められてしまったから。
だから――。
「だって、今日はこういう気分なんですもん」
青空をバックに笑った陽菜子はこれまで見てきて、翔太の脳裏に記憶されているどの彼女よりも眩しすぎて。
本気でこっちを壊しにきてるだろこれ!? とか翔太が思ったのは間違いではないはずだ。
「ですが」
握りしめていた手の感触が、ふっと軽くなる。
陽菜子が指の力を抜いたのだ。
繋がっていた部分が剥き出しになって、じわりと外気に触れて冷えていく。
離れていく細い指先が、名残惜しそうに翔太の手のひらをかすめて滑り落ちた。
そのわずか数センチの隙間が、今の翔太にはどうしようもないくらい遠く離れて見えた。
「翔太先輩がどうしても嫌だと言うなら、わたし、無理強いしたくないので」
このままでいたら、本当に手が離れてしまう、そんな感じだった。
陽菜子を見れば、いつもと変わらずかわいい――じゃなくて。
笑顔で翔太の顔を覗き込んでいて。
それはまるで、翔太の本心を見透かしているみたいに感じられて。
「………………お、俺も、こういう気分だったから! な、何の問題もないな! まあ、何だ、すごい偶然もあったものだな! 奇遇ってやつだな!」
翔太はもういっそのこと心臓など破裂してしまえとばかりに陽菜子の手を強く握りしめて歩き出した。
「え、ちょ、翔太先輩……!?」
いきなり歩き出した翔太に引かれ、陽菜子の体が前のめりになった。
ローファーの踵が浮いて、地面を蹴る。
バランスを取ろうと、繋いでいない方の手が宙を泳いだ。
小走りになって翔太の背中を追いかける。
一歩、
二歩、
三歩。
ようやく歩調が揃った時。
陽菜子はすぐ目の前にある翔太の背中が、自分の想像以上にずっとずっと大きいことに気がついた。
首筋から耳たぶにかけて、鮮やかな朱が差していく。
それはまるで、翔太に握られた手から伝わる熱が逆流して、彼女の全身を焦がしているかのようだった。
「こ、これはちょっと反則なんですけどっ」
声が裏返っている。
翔太の前で見せる、いつもの余裕たっぷりの小悪魔の様子はどこかに行ってしまっていた。
「何か言ったか?」
振り返って聞けば、なぜか、まるでさっきまでの翔太みたいにそっぽを向いた陽菜子が、
「え、何も言ってないですよー?」
と言いながら、繋いでいない方の手で乱れてもいないスカートの裾を整えていた。
いつもの軽やかなステップは迷子になって、彼女のローファーは、自分の影を何度も踏みそうになるほど、もどかしく、不器用な歩幅を刻んでいた。
空が青い。
雲が白い。
街路樹も、歩道橋も、信号機も、自販機も、ガードレールも、全部、全部、キラキラ輝いて見えた。
見慣れたはずの学校までの道のりが――。
翔太に並んだ陽菜子が、まだほんのりと赤みを帯びた耳を隠すように耳元の髪を弄りながら、尋ねる。
「どうかしましたか、翔太先輩? 何だか眩しそうに目を細めて」
「……ああ、うん。今日もいい天気だなって」
翔太は心の中で呟いた。
陽菜子と手を繋いでいるだけで、こんなにも世界が違って見えるなんて。
世界は簡単に輪郭を失って、輝きの中に溶けていって。
網膜を焼くような白い光の中で、繋いだ手のマグマみたいな灼熱だけが、唯一確かな現実としてそこにあって。
知らなかった。
――ありがとう、陽菜子。俺にこんな世界があるということを教えてくれて。
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