「契約結婚をしよう」と告げた旦那様、愛してしまってごめんなさい
学園の卒業式の日だった。
小鳥が遠くで鳴いている。
柔らかい木漏れ日が差し込む学園のシンボルである大樹の下で、ヴァネッサは婚約者のマルセルにこう告げられた。
「契約結婚をしよう」
ヴァネッサとマルセルは幼い頃からの婚約者同士だ。学園を卒業すれば結婚が決まっていた。
それなのに、どうしていまさらそんなことを言われるのか。
戸惑うヴァネッサにマルセルは感情がうかがい知れない無表情で一言告げたのだ。
「俺は君を愛さない」
その言葉がショックではなかったといったら嘘になる。
愛してほしい、とヴァネッサの心は叫んでいた。
それでも、彼女は心の底からマルセルを慕っていた。だから。
「……はい。わかりました」
素直に頷くしか、なかったのだ。
契約結婚の内容は『愛を求めないこと』『お互いの家に損害を与えないこと』だった。
侯爵の地位を継いだマルセルの家に嫁入りしたヴァネッサは、その二つを従順に守った。
『お互いの家に損害を与えないこと』これは当然のことだ。守るのは難しくない。
ただ『愛を求めないこと』これが難しかった。
ヴァネッサは幼少期からマルセルのことが大好きだったから。無自覚にあふれ出る恋心を押さえつけるのに苦労した。
どんなにマルセルがそっけなくとも、彼女の胸は勝手にときめいてしまう。
侯爵家にふさわしい広い屋敷で、すれ違う生活を送りながらもヴァネッサはマルセルへの恋慕を募らせていた。
マルセルはヴァネッサを避けている。そう確信したのは結婚して一週間が経った頃だ。
朝食の席はかろうじて同じだが、それ以外の食事を共にすることはない。
寝室も別だった。契約結婚の内容に『愛を求めないこと』とあるのだから、当然といえば当然といえた。
唯一傍にいられる朝食も、息苦しかった。迂闊な発言をすれば、心に秘めている恋心が溢れて、その途端に離縁を言い渡されるのではないかと怯えていたから。
自然と沈黙ばかりの朝食の席で、それでもヴァネッサはマルセルを視線で追いかけることが止められなかった。
(やっぱり、かっこいいわ)
そっと伺うように盗み見る。
男性にしても端整な面立ちはキリリと吊り上がった目、すっと通った鼻梁、薄い唇がバランスよく顔の中に納まっていて、惚れた欲目を抜いてもかっこいい。
同時に、脳裏によぎるのは幼い日の記憶。
六歳の時、両親に連れていかれた王宮で開かれたパーティー会場で、ふわふわと飛んでいる蝶に見とれて夢中で追いかけているうちに庭園で迷子になった。
気づいたら蝶も見失って、どこにいるかわからなくて、心細くて泣いてしまった。
そのときにヴァネッサに手を差し伸べてくれたのがマルセルだったのだ。
『いっしょにもどろう』
そういって手を差し伸べられたあの瞬間、ヴァネッサは恋に落ちた。
屋敷に帰宅してから両親に恋心を伝えると、父も母も難しい表情で顔を見合わせたのを覚えている。
ヴァネッサは伯爵令嬢でマルセルは侯爵令息だった。こちらから婚約の打診などできるはずもない。
諦めなさい、と母に諭された。すまない、と父に謝られた。
だが、パーティーから三日後、ヴァネッサの元にマルセルの両親から婚約の打診が届いたのだ。
飛び上がって喜んだヴァネッサを抱きしめて父も母も嬉しそうにしていた。
婚約者として交流を重ねた。心温まる時間を共に過ごした。
関係に変化が訪れたのは、マルセルの母――クリスティヴァ侯爵夫人が亡くなった頃からだ。
後から知ったのだが、マルセルは子を産めなかった正室の代わりに妾が生んだ子だったのだ。
後継ぎとするために正室の子と偽られていたが、マルセルに流れる片方の血は尊き貴族の青い血ではなく、平民の赤い血であるという。
マルセル自身からこっそりと教えられた。
『それでも、僕でだいじょうぶ?』
あの時の不安げにヴァネッサを伺うマルセルの視線が忘れられない。
彼女とて戸惑わなかったわけではなかった。
だが、その頃にはヴァネッサは本当にマルセルが大好きだったから『貴方がどんな血をひていても。あの日、私の手を引いてくれたのはマルセル様です』と答えた。
ぽかんとしたあと、心底嬉しそうに笑ってくれたマルセルの笑顔を忘れたことはない。
だからこそ、わからなかった。
侯爵夫人の死を契機に、そっけなくなったマルセルの態度も。契約結婚という結婚の形も。
(嫌われたわけではないはずなの)
朝食を食べ終え、庭園で庭師が丹精込めて育てている花を愛でながら、ヴァネッサはため息を吐きだした。
本当に嫌われているのなら、立場が上のマルセルはヴァネッサとの婚約を破棄できた。
それをすることなく学園の卒業まで待って結婚してくれたのだから、嫌悪されているわけではないと思う。
いや、思いたかった。
ぼんやりと眺めていたヴァネッサはふいに「わん!」という鳴き声に気づいて膝を折った。
じっと見つめていると生垣の方から子犬が姿を現す。ヴァネッサを見つけて尻尾を振った白い子犬は人なれしているのかじゃれつくように彼女へと走ってきた。
「あら、かわいい子」
ヴァネッサの周囲をくるりと走った子犬は彼女に懐くように膝にすり寄る。
白い毛並みを撫でてやると嬉しそうにまた鳴いた。
「飼い犬かしら」
小さな子犬はどこかから逃げたのかもしれない。もふもふの毛並みを撫でてやりながら、ヴァネッサはまたため息をついた。
「私、マルセル様のことが好きなの。どうしたらいいかしら」
誰もいないと油断していた。子犬にくらい本心をこぼしてもいいだろう、と。
だが、ヴァネッサがそう口にした瞬間、後ろで物音がした。
驚いて立ち上がって振り返ったヴァネッサの視線の先に、目を見開いたマルセルが立っている。
「あ、す、すみません!!」
離縁される。それは嫌だ。
青ざめた表情で口元を抑えたヴァネッサの前で、マルセルは沈黙している。
おろおろと視線をさまよわせて、マルセルはがっくりと肩を落とした。
「申し訳、ありません……」
言葉を絞り出す。『愛を求めないこと』と言われていたのに。愛する心を止められなかった。
愛し返してほしいなんて我儘は言わないから、このまま傍に置き続けてくれないだろうか。
悄然と小さくなるヴァネッサの前で、マルセルが浅く息を吐く。そして。
「ついてこい」
一言、そう言われた。驚いて顔を上げたヴァネッサの前で、マルセルが背を向けて歩き出している。
慌ててそのあとを追いかけた。
連れていかれたのは、以前マルセルの母の侯爵夫人が使っていた部屋だった。
結婚した当初に「決して近づかないように」と強く言い含められていた部屋だ。
疑問に思いつつ、マルセルが懐から鍵を取り出してドアノブに差し込むのを見守る。
静かに開かれた扉の中へ足を踏み入れたマルセルは、どこか足元がおぼつかないように見えた。
「マルセル様、あの」
「ここは、母の部屋だ」
ヴァネッサの言葉を遮るようにして言われた説明。ここがどういう部屋なのかは知っている。
どうしていまこの部屋に案内するのだろう。
口をつぐんだヴァネッサの前で、マルセルが本棚に近づいた。
前侯爵夫人はよほどの書籍好きだったのか、ずらりと壁一面に並ぶ本に少しだけ感心する。女性でここまでの読書家も珍しい。
「この本は全てダミーだ」
「え?」
ヴァネッサの心を読んだかのようなマルセルの言葉に間の抜けた声が出た。
偽物、とはどういう意味だろう。理解が追い付かない。
マルセルは迷いのない仕草で青い背表紙の本へ手を伸ばす。そして手前に倒した。
その途端、がこん、と何かがハマる音がして、ゆっくりと本棚が動き出す。
「?!」
驚くヴァネッサの前で、人ひとりが通れる細い通路が現れた。
秘密の部屋、ということを理解して、どうしてそんなものを作る必要があったのかと眉を顰める。
「ついてこい」
本日二度目の言葉をかけられる。通路は階段になっているようだった。
薄暗い空間へ迷いなく足を踏み入れたマルセルに、少しためらいつつもついていく。
前侯爵夫人の部屋は一階にあった。つまり、地下につながる階段だというのに、なぜか仄かに明るいのが余計に気味が悪い。
静かに階段を下りるマルセルの背中を見つめる。こんなに近くにいるのは久々だと、こんなときだというのに少し浮かれてしまう。
かつん、と足音が反響した。地下についたのだろう。マルセルが体を横にずらす。
「これが、母の本性だ」
「っ」
そこにはヴァネッサには理解できないものがずらりと並べられていた。
大きな黒い鍋、たくさんの干した草、なにかの動物の亡骸。
思わず口を押えたヴァネッサへと振り返って、マルセルが自嘲を口元に刻む。
「俺の母は産みの母ではないことは教えたな?」
「はい」
返事はかすれていた。青い顔で、それでも頷いたヴァネッサに、マルセルが視線を伏せる。
「母は、俺のことがよほど嫌いだったのだろう。妾が産んだ子供が侯爵家を継ぐのだから当然だ。――だが、母の恨みは俺の予想を超えていた」
「どういう、ことですか……?」
声が震えてしまう。ヴァネッサの記憶に残る前侯爵夫人は病に臥せるまで美しい人だった。
気高く、貴族であることに誇りを持っていて――ああ、だから、とようやく気付く。
(青い血に混ざるものが許せなかった)
マルセルがせめて下級でもいいから貴族の血を引いていれば、話は違ったのかもしれない。
青ざめるヴァネッサに「気づいたか」とマルセルが苦しげに眉を寄せた。
「俺が憎くて仕方なかった母は、俺を排除するために黒魔術に傾倒した」
「……そんな」
言葉が見つからない。
幼い頃からマルセルの傍にいたヴァネッサは、彼がいかに努力を重ねていたかを知っている。
侯爵家の跡取りとしてふさわしいように、厳しい剣術の稽古を積み、勉学に誰より励んだ。
一度も実の母に会いたいと泣きごとをこぼすこともなく。
マルセルが埃を被ったテーブルに指を滑らせた。ふわりと舞い上がる白い埃に、眉を顰める。
「母の執念は大したものだ。母は俺に呪いをかけた」
「呪い……?」
黒魔術などおとぎ話の産物だと思っていたヴァネッサにとって、聞きなれない単語だった。
問い返した彼女の言葉に、マルセルは皮肉気に口元を歪める。
「『愛する人と両思いになれば、俺が死ぬ』……そういう呪いだ」
いわれた瞬間、意味が分からなかった。ただ、なにか。重大な間違いを犯したのだと、それだけは察せられた。
目を見開いたヴァネッサの前で、マルセルが苦しげに言葉を紡ぐ。
前侯爵夫人を思い出して苦しんでいるというより、本当に息苦しそうな息遣い。
気づけば、顔色は青を通り越して白くなっていた。
「本当は俺もヴァネッサを愛していた。だが、思いを通じさせれば死ぬとわかっていて――それでも、君を傍に置きたかった」
がくん。マルセルの膝が崩れてその場に膝をつく。
わずかな距離を慌てて駆け寄ったヴァネッサの前で、マルセルが白い顔に汗を浮かべて、微笑んだ。数年ぶりに見る、マルセルの笑み。
「だから、我儘を通した。契約結婚という形で」
マルセルの手がヴァネッサの頬に延ばされる。その手を掴んで、涙を流した。
なんて愚かなことをしたのだろう。そんな事情があるなんて欠片も想像しなかった。
「どうして……どうして……っ」
「君が、他の……男と。一緒になる……なんて、耐えられ、なく……て」
声がかすれて途切れ途切れだ。マルセルの言葉が事実なら、呪いが彼を蝕んでいる。
青い血に混ざった平民の血が彼を殺そうとしていた。
「私は! 愛してなどおりません!! 愛してっ、など……っ!」
悲鳴を上げるようにヴァネッサは叫んだ。
心に溢れる感情に蓋をすれば、まだマルセルが助かるのではと儚い望みをかけて。
「ヴァネッサ……ありが、とう。俺は……君、が。愛してくれた……な、ら。十分、だ」
とうとうマルセルが膝をついた状態でも態勢を維持できなくなって、ヴァネッサの胸元に倒れこむ。
あまりにも体温の低い体を抱きしめて、ヴァネッサはぽろぽろと涙を流した。
こんな埃っぽいところで、彼女以外の誰に看取られるわけでもなく。
理不尽な呪いによって命を落とすなど。
いったい、どれだけの罪悪を積めばこんなことになるというのだ。
マルセルが平民の血を引いているのは彼の意志ではなく。
マルセルが妾の子であることも、彼の意志ではなく。
マルセルが、マルセルが、マルセルが―-。
心の中でどんなにマルセルを擁護しようと、刻一刻とマルセルの命は削られていく。
(わた、私が、契約結婚の意味を正しく理解していなかったから!)
だから、いま。マルセルの命は失われようとしている。ヴァネッサが誰より愛した大切な人の命が手のひらから零れ落ちようとしていた。
「ヴァネッサ……」
最後の力なのだろう。震える手で、マルセルがヴァネッサの頬を撫でる。
冷たい指先に、思わず涙を流した彼女に、マルセルは小さく笑った。
理不尽に命を奪われようというのに、その笑みはあまりに綺麗で、美しい。
「マルセル様……!」
「愛し、て……いる、ヴァネッサ……」
一言、かすれる声で絞り出すようにそう告げて。
マルセルの手が力なく床に落ちた。
その意味を、理解することを。ヴァネッサの頭は拒絶していた。
▽▲▽▲▽
マルセルの葬儀が厳かに開かれた。
死因は不明、突然の心不全としてマルセルは病死とされた。
黒い喪服に身を包み、黒いベールで顔を隠してヴァネッサは唇を噛みしめる。
憎らしいほど青い空、頬を撫でる優しい風、世界の全てがまるでマルセルの死を歓迎しているようで憎悪が心に宿る。
けれど。
(マルセル様は、優しい方だから……)
ヴァネッサが世界を憎んでも、マルセルは生き返らないし、むしろ困らせるだけだろう。
理解できてしまうから、ただヴァネッサは静かに涙を流すことしかできなかった。
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