路地裏のメモリリーク
夏は、腐敗の匂いとともにやってきた。 陽光が石畳を焼き、路地の影を濃くする。気温の上昇は、都市というハードウェアの放熱を妨げ、システムの奥底に溜まった「不要なデータ」を暴き立てる。 アクスは街を歩きながら、視界に警告色が溢れるのを見ていた。 表通りは綺麗だ。だが一歩路地に入れば、積まれた木箱の陰、水はけの悪い溝、家の裏手――あらゆる場所に、赤黒いノイズがへばりついている。
[環境解析]気温=32℃/湿度=78%/臭気レベル=警告域 [特定]硫化水素、メタン、アンモニア……有機物の腐敗臭。 [結論]ガベージコレクション(不要メモリ回収)の不全。
隣を歩く軍務伯ヴォルフが、苦々しげに鼻を覆った。 「ひどい臭いだ。風が止まると、城の執務室まで上がってくる。兵たちもイライラして喧嘩が増えた」 「不快指数と治安は相関します」アクスは淡々と返す。「熱暴走する前に、排熱処理が必要です」 「なら、掃除屋を働かせろ。あいつら、一週間も回収に来ていないぞ」
ミラ・サフランの店に戻ると、彼女は窓を閉め切っていた。それでも匂いは隙間から忍び込んでくる。 「お手上げよ」ミラは扇子を使いながら言った。「掃除屋ギルドがストライキに入ったわ。処理費用の倍増を要求してる」 「倍増?」 「ええ。『夏はゴミが増えて重いから』だって。おまけに、彼らのバックには裏社会のバルバロがついている。下手に他の業者を入れれば、翌朝には店の前がゴミの山になるわよ」
典型的な独占によるボトルネック。システムの一箇所が詰まることで、全体が機能不全に陥っている。 「武力で制圧するか?」ヴォルフが低い声で言う。「俺の兵を使えば、バルバロの一味くらい半日で掃除できる」 アクスは首を横に振った。 「強制しても、彼らは見えない場所へゴミを捨てるだけです。川へ流せば水源が汚染され、疫病という致命的なシステムエラーを招く。……正面は最後です」
アクスは立ち上がった。 「現場を見に行きます。ルカ、一番汚い場所へ案内してください」 ルカは顔をしかめたが、覚悟を決めたように頷いた。「……鼻が曲がっても知らねえぞ」
*
都市の最下層、通称「澱の地区」。 そこは、都市の排泄器官だった。回収されたゴミ、汚物、動物の死骸が小山のように積まれ、蠅が黒い雲のように唸りを上げている。 アクスには、その山が巨大な「未処理データ」の塊に見えた。システムを圧迫し、処理落ちを引き起こすメモリリーク(記憶域の漏出)そのものだ。
粗末な小屋の前で、強面の男たちが賭け事をしていた。アクスたちの姿を認めると、酒瓶を割って立ち上がる。 「ここは観光地じゃねえぞ、お公家さん」 男の一人がアクスの胸倉を掴もうとした瞬間――ガントレットを嵌めた手が、その手首を掴み上げた。 「……観光ではない。視察だ」 ヴォルフが低く唸る。骨がきしむ音がして、男が悲鳴を上げて膝をつく。軍務伯の「圧」は、言葉よりも雄弁だ。小屋の奥から、拍手の音が聞こえた。
「そこまでだ、お前ら。――客人に失礼だろう」 現れたのは、樽のように肥えた男、バルバロだった。脂ぎった顔に、狡猾そうな目を埋め込んでいる。 「へえ、噂の監査補様か。で? 俺たちの要求を飲みに来たのか? 倍額だ。びた一文まけねえぞ」 バルバロは鼻で笑う。「嫌なら帰んな。この山は、明日にはもっと高くなる」
アクスはバルバロを無視し、ゴミの山へと歩み寄った。 「おい、何してやがる」 アクスは躊躇なく、その黒ずんだ汚物の山に手を突っ込んだ。 ルカが「うわっ」と声を上げ、ヴォルフさえも眉をひそめて半歩下がる。 ぬるりとした感触。強烈な異臭。だが、アクスが探していたのはそれではない。
[触覚解析]対象=有機混合物/深部温度=62℃ [解析]発酵熱。微生物による分解プロセス進行中。
「……温かい」 アクスは汚物に塗れた手を引き抜き、湯気が立つのを見つめた。 「バルバロさん。あなたは嘘をついていますね」 「ああん?」 「これは『ゴミ』ではありません。あなたは毎日、都市から『燃料』と『金』を回収している」
アクスはルカにハンカチを借り、手を拭きながら説明を始めた。 「この温度は、生命が活動している証拠です。適切な水分と空気を含ませ、藁を混ぜて切り返せば、これは極上の『完熟堆肥』になります。近郊の農村の土は痩せている。彼らはこれを金貨で買うでしょう」 バルバロの目が細まった。「……百姓どもが、糞に金を払うかよ」 「払います。実験データによれば、麦の収穫量は二割増える。払わない理由がない」
アクスはさらに、ヴォルフの方を向いて声を落とした。 「それに、古い土壁や厩舎の土からは、白い結晶が取れますね。あれを精製すれば『硝石』になる。……ヴォルフ様、火薬の原料輸入に、軍はいくら使っていますか?」 ヴォルフの目が、鋭い光を帯びた。 「……馬鹿にならん額だ。北方の鉱山から買っているが、足元を見られている」 「この山は、硝石の鉱脈でもあります。精製法は私が設計します」
アクスはバルバロに向き直った。 「新しい契約を提案します。都市からの処理費用は据え置きです。値上げはしません」 バルバロが激昂して口を開きかけたのを、アクスは手で制した。 「その代わり、生成された『肥料』と『硝石』の販売権および収益は、すべて掃除屋ギルドのものとします。所有権を放棄しましょう。……これなら、ゴミを集めれば集めるほど、あなたたちは儲かる」
バルバロは口を半開きにしたまま、計算を始めた。商人の顔だ。処理費の値上げは一時的なものだが、肥料と硝石は永続的な商品になる。しかも、原料はタダ(無料)だ。 「……肥料が売れる保証は?」 「農村ギルドとの長期契約を私が仲介します。硝石は軍が全量買い取る。――どうですか?」
沈黙が落ちた。蠅の羽音だけが響く。 やがて、バルバロはニヤリと笑った。汚い歯が見えた。 「……インテリが。汚い手で握手を求めやがって」 彼はアクスの、まだ汚れの残る手を強く握り返した。 「いいだろう。契約成立だ。だが、その『錬金術』、嘘だったら承知しねえぞ」 「私は計算しかしません」
*
翌日から、都市の風景が変わった。 嫌々作業をしていた掃除屋たちが、目の色を変えて路地を走り回っていた。「宝の山だ!」と叫びながら、今まで見向きもしなかった路地裏の奥の汚れまで掻き出していく。 アンタッチャブルだったゴミは、「資源」というラベルに書き換えられた。
一週間後。 アクスは再び路地を歩いた。赤黒いエラーブロックは消滅し、石畳は本来の色を取り戻していた。風が吹き抜け、澱んだ空気が海へと流れていく。 隣を歩くルカが、胸いっぱいに息を吸い込んだ。 「すげえ……空気が美味いよ、アクス」
[環境解析]臭気レベル=正常/空気清浄度=良好 [システム状態]メモリ解放完了。処理速度向上。
アクスは自身の胸に手を当てた。そこにある核もまた、スムーズに脈打っている気がした。 システムは、ただエラーがないだけでは不十分だ。循環し、呼吸し、代謝することで初めて、命を持つ。 「ええ。よく通るようになりました」
アクスは手帳を取り出し、新しい項目を書き加えた。 〈ゴミ=未定義の資源〉 〈循環こそが永続の鍵〉
ふと見上げると、ヴォルフが満足そうに、しかし少し複雑な顔で、掃除屋が運ぶ荷車(硝石の原料)を目で追っていた。 「……お前といると、世界の全ての見え方が変わっちまいそうだ」 「最適化です」 アクスは短く答えた。 夏の日差しはまだ強いが、その光はもう腐敗を招くものではなく、作物を育てる熱源として降り注いでいた。




