地図の鏡
夕暮れの中州には、まだ昼の熱が残っていた。河の鏡の板には「残高」「鍵の使用時刻」が貼り出され、人垣はゆっくりほどけていく。ヴォルフの靴音が木板に一拍落ち、剣は鞘のままだ。
アクスは板の端を指で叩き、胸の内で短く書きつける——抑止は公開の量で決まる。
黒石の城の地図庫に戻ると、壁に二枚の世界が向かい合っていた。左は金泥と聖人像が踊るマッパ・ムンディ、右は羅針線が蜘蛛の巣のように走るポルトラノ。ミラが顎で右を指す。
「世界図は祈り。ポルトラノは帰り道」
「帰れる方を使おう」アクスは羅針線の交点を軽く叩き、卓上に油紙の重ね地図を広げた。
群青の〈航路〉、赭土の〈堆砂〉、朱の〈税域〉、金の〈教会管轄〉。四枚が重なったところで、エドアルドが短く言う。
「境界は線じゃない。季節の帯だ。春の融雪で浅瀬は流れ、冬には氷橋が関所になる」
言葉のとおり、窓の外では季節が動いていた。春の濁流が茶色く渦を立て、夏の南風で潮見板の赤が上がり、秋には砂尺が一目短く沈み、冬の氷上には荷車の列が伸びる。
アクスは朱の〈税域〉をそっとずらし、杭の札を小さく移動させた。
「杭より先に、合意された地図を動かす」
卓の端に勢力の木駒を並べる。碧の錨は潟湖の帝国——稼ぎは関所/保険/情報。灰の塔は川沿い都市連合——関銭+積み置きで河の“喉”を握りたがる。白い峠石は高地侯国——冬季の陸送回廊を売る。群青の帆は海商国家——外洋の風の窓を押さえる。
エドアルドが重ねて言う。「主権は重層だ。領主、都市、教会、関所が重なって、やっと地図になる」
アクスは余白に走り書いた。〈抑止=公開の量〉〈正面は最後。まず地図を動かす〉。
夜明け前、河口で実測をする。潮見板の赤が昨日より一目盛高い。砂尺が赭土の帯に沈む。「今日の境界はここだ」
ミラが朱の線を一目分、透過台の上で下げた。「税域、微調整。杭はあとで追随」
だが、線を整えるほど、空気にはきな臭さが混じってくる。
標杭の足元の泥に、新しい靴跡。縄目は一度だけ解かれ、結び直した痕。アクスはしゃがみ込み、「杭は夜に歩く」と呟いた。
灯台の基部には、乾ききらない鯨油の飛沫と煤。イズベルが指先で触り、「上流へ合図を送った跡」と睨む。
水先人の袖口には薄い灰色の粉。アクスはつまんで匂いを嗅ぐ。「錫。痩せ銀の袋を扱った手」
修道院の写字室では、連合の使者が地図の縁を金泥で“補修”していた。描き足された浅瀬は、どう見ても季節に無関係の位置に固定されている。
関所小屋の棚では、拿捕伝票の控えに同じ筆致の署名が並ぶ(当番日が違うのに)。
港では、足環に緑と灰の細紐を巻いた山鳥が放たれるのをミラが見た。「合図鳥。速い流れの日に飛ばす」
帝国側にも、危うさはあった。
堤防の石目に髪の毛ほどの亀裂が走っている。エドアルドが指でなぞり、「春出水で持たない箇所が三つ」。
港口を閉ざす鎖は、錆と磨耗で線径が細る。「潮に一本、もっていかれた」とヴォルフ。
保険基金の帳面は赤字が続き、ミラはため息をついた。「返戻金が出すぎ」
共同の分銅の底には、鉛の詰め直し跡。アクスは静かに目を細める。「度量衡にまで手が入った」
それでも公開は進めるのだ。
中州の光透かし台の前に、四枚の透明図が重なる。群衆の視線が集まる。アクスは朗声で告げた。
「今日の税域はここ。浅瀬は南へ半里。臨検帯は第三刻から第四刻。主権は重層だが、鏡の前では一枚で読む」
連合の使者は苦い笑みを浮かべ、袖の内側に密書の端を隠した。アクスの目が一瞬、それを捉える。——正面は最後。まずは地図と度量衡を固める。
そのとき、広場にざわめきが走った。市場の鏡の前で、声がぶつかる。
パン屋のカテリーナが、薄く鈍い縁の銀貨の束を粉屋のドメニコに突き返す。
「痩銀は割引で受けてるの。粉の歩留まりが合わないのよ!」
「公示はパンを据え置きって言ったじゃないか!」ドメニコは真っ赤だ。「粉価が上がった分を誰が飲むんだ!」
秤の針が右にほんのわずか寄っている。カテリーナが目ざとく指差す。「この分銅、裏が鉛じゃないの?」
アクスは一歩進み、共同管理の標準分銅を吊り替えた。銀貨を試金石に擦る。黒い筋が浅く、音が悪い。
「痩銀だ。比価板どおり割引で受ける。パンの据置は保つが、粉価の上げ幅は今日の比価で公示する。差は保証金から埋める」
「保証金? 今日も残ってるのか?」誰かが叫ぶ。
中立鍵の兄弟グレゴールが前に出て、鏡札と羽根ペンを構えた。「申立手数料はギルドが立替。勝てば全額返戻」
ドメニコは逡巡してから、頷いた。「……鏡で測ろう」
二人は鏡前の小法廷へ移り、半円の人垣ができた。ヴォルフが兵に目で合図し、靴音だけを場に通す。剣は相変わらず鞘のままだ。
秤に粉袋が載る。標準分銅で針は中央に戻る。薄い銀は比価板どおり一割引で換算。カテリーナの据置は守られ、粉価の上げ幅は告示に朱で追記された。グレゴールが鏡札を切り、保証金から微額が動く。
場の空気が、いったん落ち着く。ミラが小声で言う。「連合の風がきつくなる前に、腹の火を消しておく」
その夜、アクスは手で触れる証拠を順に拾い直した。
標杭の影はわずかにズレ、修道院の机では金泥がまだ湿っている。堤の亀裂には仮の木杭が打たれ、縄で応急の締め。
手帳の余白に、アクスは箇条書きを増やす。
〈杭=夜に歩く〉
〈痩銀=音を記録〉
〈堤、三箇所〉
〈正面は最後。まず“鏡”と“秤”〉
翌朝の地図庫。マッパ・ムンディの金泥は相変わらず眩しい。だがアクスの目は、ポルトラノの密な港名と、羅針線の交点だけを追う。帰れる方を使うのだ。
彼は四枚の油紙を重ね直し、朱の線を半指だけ動かす。杭は地図に追随する——その順序を、今日も守る。
遠く、外洋のほうで帆が光った。海商国家の使者が風配図を覗き込み、薄く笑う。「次は風で来る」と、誰かが囁いた。
山の稜線には、高地侯国の峠に狼煙が一筋。冬の回廊の値段は、もう決まっているのかもしれない。
アクスはペンを置き、静かに息を吸った。公開は、まだ効く。鞘の功績も、まだ効く。だが杭は夜に歩く。地図は更新=呼吸だ。
彼は鏡の端にもう一度だけ書いた。
正面は最後。まず地図を動かす。
そのとき、広場から再び騒ぎ声が上がった。別の商店同士の諍いが火を吹いたらしい。
アクスは立ち上がり、ヴォルフに視線を送った。剣は抜かない。秤と鏡を肩に、靴音だけを連れていく。
怖さは長生きしない——そう言えるうちは、まだ勝てる。