摩擦係数のコスト(トランザクション・フィー)
完璧な計算式など存在しない。 特に、割り切れない数字(無理数)を含む現実世界においては。
正午の広場。「市場の鏡」の前で、怒号が爆発した。 「金が合わねえぞ! どうなってんだ!」 声を上げたのは、穀物問屋の小男だ。彼は二枚の帳簿を突きつけていた。 「見ろ! 俺が今日売った麦の合計と、鏡から支払われた額……銀貨0.1枚分足りねえ! 誰かが抜き取ってやがる!」
0.1枚。パンの欠片ほどの価値しかない。 だが、「システムが金を抜いている」という疑念は、ペストのように広がった。 人垣の中から、扇動者が声を上げる。 「やっぱりだ! あの監査補、俺たちの金を端数ごまかして懐に入れてやがったんだ!」 「塵も積もれば山となるだ! 街全体で毎日いくら盗んでるんだ!」 「泥棒役人を出せ! 金を返せ!」
群衆の目が血走る。彼らはアクスへの感謝など忘れている。今、自分の財布から小銭が消えたという「損失」だけが、彼らの理性を焼き尽くしていた。
アクスとヴォルフが駆けつける。 ヴォルフは抜剣し、怒鳴った。 「下がれ! 騒ぐ奴は反逆罪とみなすぞ!」 いつもなら、これで静まるはずだった。だが、今日は違った。
「見ろ! 剣で脅して口封じだ!」 扇動者が叫ぶ。 「軍隊もグルなんだ! 俺たちから巻き上げた端数で、新しい船を作ってやがる! 殺されるぞ!」 恐怖と怒りが結合し、暴徒と化した市民が石を投げ始めた。 ヴォルフの額に石が当たり、血が流れる。 「くっ……! アクス、斬るしかないぞ!」
「いけません」 アクスはヴォルフの手を制した。 「武力行使は、システムの信頼を物理的に破壊します。……ここは、経済で殴り返します」
アクスは、群衆の前に進み出た。石が飛んでくるが、避けようともしない。 「静粛に! ……説明します。金は盗んでいません。それは『計算上の誤差(丸め誤差)』です」
「言い訳するな!」 「難しい言葉で誤魔化す気か!」
アクスは懐から、パンを一つ取り出した。そして、腰のナイフでそのパンの端を、薄く、透けるほど薄く削ぎ落とした。 そのパン屑を、高く掲げる。
「これが、0.1枚です」 アクスは叫んだ。 「あなた方が今日失ったのは、このパン屑一つ分です。……これは事実です」
「だから何だ! 損は損だ!」
「では、比較しましょう」 アクスは、残った大きなパンの塊を、真ん中からバッサリと切り落とした。 「かつて、この『鏡』がなかった頃。あなた方は両替商の手数料で一割、量り売りの不正で一割、そして相場の情報不足による買い叩きで一割……合計でこれだけの『見えない損』をしていましたね?」
アクスは、パンの半分(旧システムのコスト)と、パン屑(新システムの誤差)を左右の手に持って、天秤のように掲げた。
「私が導入したシステムは、完璧ではありません。異なる計算方式の摩擦により、毎日このパン屑一つ分の『誤差』が出ます。 ……ですが、このシステムを壊せば、あなた方は明日からまた、この『半分のパン』を失う世界に逆戻りです」
アクスは群衆を睨み据えた。 「選びなさい。 パン屑一つ分の『システム利用料』を払って、快適に商売をするか。 それとも、私を吊るして、明日からまた悪徳両替商に利益の半分を毟り取られるか。 ……損をしたくないのは、どっちですか?」
ざわめきが止まった。 群衆は、アクスの両手を凝視する。 左手のパン屑。右手のパンの塊。 扇動者が叫ぶ。「だ、騙されるな! 詭弁だ! 誤差ゼロにしろと言ってるんだ!」
だが、最前列にいた穀物問屋の小男が、バツが悪そうに口を開いた。 「……まあ、待てよ。確かに、鏡ができる前は、両替だけで銀貨十枚は取られてたな……」 「ああ。それに比べりゃ、0.1枚なんてタダみたいなもんだ」 「今の商売を止められる方が、よっぽど大損だぞ」
そろばんが弾かれた。 感情ではなく、冷徹な「損得勘定」が、怒りを鎮火させていく。 扇動者は孤立した。「おい、お前ら正気か!?」と叫ぶが、もはや誰も耳を貸さない。彼は、システムを停止させようとする「損な奴」として、群衆から白い目で見られ、そそくさと逃げ出した。
アクスはパンを置いた。 「ご理解いただけたようですね。……では、修正パッチを適用します」
彼は「市場の鏡」の横に、新しい黒板を設置した。 『システム調整費(誤差)台帳』 「今後、発生した端数はすべてここに記録します。隠しません。これは横領ではなく、この便利なシステムを維持するための『燃料』です」
ヴォルフが血を拭いながら、呆れたように笑った。 「……パン屑と半分か。わかりやすい脅しだ」 「脅しではありません。コスト比較(A/Bテスト)です」
アクスはログを更新した。 [学習] ユーザーは「正義」では動かない。「損をしたくない」という恐怖で動く。 バグを「仕様」として合意形成することこそが、システム運用の要である。
市場には再び、取引の音が戻った。 0.1枚の誤差は消えていない。だが、市民たちはそれを「必要経費」として飲み込み、再び金儲けに没頭し始めた。




