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河の鏡

 港の沖に、白い帆と金の飾りが線のように並んだ。川沿いの都市が手を組んだ都市連合の小艦隊だ。浅い川を得意とする細長い船が、流れの狭い喉を塞ぐ。


「伝令! 通行税の増額、それから積み置き義務だってさ!」


 ざわつきが一気に膨らみ、塩の相場がひと跳ねする。軍務伯ヴォルフが剣のつかに手をやった。


「ならば先に一発——」


「正面は最後です」アクスが短く遮った。声は静かだが、眼は速い。「まず、向こうが何を取り、こちらから何を奪うのか、はっきりさせましょう」


「通行税は川の料金所、積み置きはこの町で必ず荷を降ろせってやつだ」ルカが顔をしかめる。


「つまり、時間と値付けを向こうが握る」ミラ・サフランが肩をすくめる。


「だから——鏡を川に立てます」アクスは言い切った。「誰でも見える掲示板と、その場で契約できる場所。場所は中州。両方から同じ距離の、いちばん公平に“見える”ところです」



 半日で、中州に木の浮き桟橋が組まれた。真ん中に大板——河の鏡。左に重さ×距離の上限表、中央に臨検の地図と時刻表、右には護送保険の公開入札の札束。鎖に分銅と尺が吊るされ、誰でも触れる。


「値段とルールは隠さない」アクスの声は淡々としている。


 そこへ叫びが飛んだ。「帝都の艀、一隻拿捕!」


 ざわめきが波立ち、ヴォルフの目に血が差す。アクスは木箱にひょいと上がり、掌を掲げた。


拿捕だほが何を起こすか、三つだけ。

 一、物が来ない——一隻消えただけでも、列は怖さの上乗せで倍に伸びる。

 二、心が止まる——『次は自分かも』で船が出なくなる。

 三、挑発——『先に殴ったのは帝都だ』という言い訳が欲しい。だから一隻で十分」


 人の息がそろい、怒りが少しだけ理性へ引き戻される。アクスは足元の小さな鉄箱をほどいた。鍵穴が三つ、封蝋が赤・青・白で重なる。


「箱を使います。これは保証金。取る側——連合に先に入れてもらう“前払いのおわび袋”。取りすぎや抜き打ち臨検が確認されたら、この箱からその場で返す」


「それ、俺たち船主が用意すんのか?」老船主が身を乗り出す。


「違います。あなたは一銭も要りません」アクスは箱を軽く叩く。「入れるのは連合。あなたは通行状と荷の控えを持って来ればいい」


「箱は誰が開ける?」連合の使者が鼻で笑う。


「三つの鍵がそろった時だけ。帝国の鍵(議長マグダラ)、連合の鍵(当番都市徴税官)、そして中立の鍵」


 灰色のフードの僧が一歩進む。細い銀鎖に鍵が下がっている。


「大聖堂参事会の公証書記、兄弟グレゴール。中立鍵、本日より七日任期で預かります。賄賂・便宜は受けず、違反すれば職を失い罰金を弁済します」


「それで中立だと言えるのか?」連合の使者。


「持ち回りにします」アクスが続ける。「次は金匠ギルドの鑑定師、その次は大学法学寮の書記。報酬は帝国と連合から同額の定額を前払い。出来高には連動させない。毎夕、鍵の使用時刻と残高を読み上げ、板に貼る。顔も名も隠さない——それがいちばんの薬です」


「申立の小銭もない奴は?」若い漕ぎ手が手を挙げる。


「三つ選べます。ギルドの相互保証箱が立替。護送保険の手数料つきプラン。それも無理なら鏡口の小口貸しで、勝った返金から自動で差し引く。——今この場で銅貨がないせいで泣かせません」


 アクスは鏡の板を指し示す。「判定は“手”で。分銅と尺で測り直し、通行状の三印——青い点(公式の青)/右上の三角の切り欠き/水一滴で玉——を全員の前で確認。さらに樽の刻みと封蝋の拓本も照合します」


「樽の刻み?」老船主。


 樽職人のレオンが小さな樽を抱えて前に出る。「通し刻みです。板をまたいで一本の細い線を入れておく。差し替えれば線が途切れる。内側には刷毛目と乾き輪染みが残り、木目は嘘をつけない」


 中立のグレゴールが縄と封蝋を指す。「縄は色糸入り、撚りの向きと間隔が証拠。封蝋は蜜蝋+松脂+藍粉で配合印。印章の微小欠けは“ほくろ”の位置で判る。薄紙に炭で拓本を取り、原本と照らし合わせる。さらに封蝋に砂粒(粒度印)と微細な亜鉄粉。磁石で反応をみれば偽蝋は落ちます」


「……ごまかしは?」連合の使者が意地を見せる。


「四重で見るので割に合わない」アクスはさらりと言った。「木(通し刻み・木目・刷毛目)/縄(色糸・撚り・結び痕)/印(配合・欠け・拓本・磁性)/道中の控え(積地→関所→鏡の場)。三つ以上一致して初めて本物扱い。鏡の前で即時にやるから、細工の時間もない」


 ミラが指を鳴らす。「店は腹で動く。割に合わない悪事はすぐ赤字よ」



「——始めましょう」アクスが声を張る。「上限表より多く取られた申立、前へ」


 年配の船主が出た。「百担を二十里。上限は二百銀なのに、二百六十取られた」


「再計量」グレゴールが分銅を吊る。「百担、距離二十里、上限二百銀。領収は二百六十——過取り六十」


「通行状の三印」テオが紙を掲げる。左隅の青い点、右上の三角切り欠き。イズベルが水を一滴落とすと、丸い玉になって弾かれた。


「正規です」グレゴール。


「箱を開ける」アクスが合図。帝国鍵/連合鍵/中立鍵が皆の目の前で回り、封蝋が割れる。銀の音が澄み、六十六(過取り六十+罰金一割)が船主の掌に落ちた。ざわめきがどよめきへ変わる。


「毎夕、残高を読み上げます。補充がなければ翌日の徴収停止。差引伝票(鏡札)と残高は鏡に貼る。——隠れる場所はありません」アクスは連合の使者に向き直った。


「……濡れ衣なら?」使者がまだ粘る。


「申立手数料は没収、台帳に減点。当たり屋は得をしない」アクスは切り返す。



 正午、護送保険の公開入札が始まる。ミラが張りのある声で叫ぶ。「帝国—同盟—中立、三枠。料率は?」


「四分!」「三分八厘!」「三分五厘!」——札が上がるたび、ざわめきが笑い声に変わる。値段が付くと、人は落ち着く。板の左では、上限表が光に白く浮かび、中央の臨検時刻表に赤い印が増える。


 そのとき、白い旗の旗艦が近づき、船首の大砲に火縄が寄った。ヴォルフが顎で合図する。兵は鞘のまま鏡の前を一往復。見せるのは靴音だけだ。木板に響く規則正しい音が、群衆の呼吸をひとつ浅くして、次に深くした。


 連合の列から黒いフードの商人が一歩出る。「……こちらにも面子がある。上限の範囲なら通行税は飲む。だが積み置きは?」


「任意にしましょう」アクスは鏡の余白に書き足す。「定価掲示、最長三日。先買い権は定価。強制はしない」


 商人の肩が少し下り、鳩派の書記が頷く。鷹派の将校の舌打ちは潮風に削られて消えた。


「箱の中立鍵の顔も、毎夕掲示します」アクスが添える。


 兄弟グレゴールが胸に手を当てる。「本日より七日、兄弟グレゴール。再任なし。鍵の使用時刻と封蝋番号、残高に署名します」



 夕暮れ、取り決めは紙になった。


通行税:上限3%+距離係数


積み置き:任意(定価掲示・最長三日・先買いは定価)


共同検量台・公証台を中州に常設(分銅・尺は共同管理)


護送保険の公開入札を定例化


保証金:毎夕残高読み上げ/未補充は翌日徴収停止/鏡札の公開掲示


 グレゴールが読み上げる。「本日差引六十六。残、二九三四。封蝋番号——青一三、赤七、白九。中立鍵:兄弟グレゴール。使用時刻——」


 板に数字が貼られ、人々は普通に眺め、普通に頷いた。その“普通”がいちばん強い。


 連合の船は旗をたたみ、流れへ戻っていく。港の相場は帯の真ん中へと落ち着き、塩もパンも昨日とほぼ同じ値に戻った。


「どうして剣を抜かずに済んだ?」ルカが訊く。


「不透明は人をびびらせる。公開は“えこひいき”を動けなくする」アクスは川面の光を見つめた。「だから正面は最後。まず鏡を立て、箱を重くしておく。やらかせば軽くなる——それだけで、人は慎重になる」


 ヴォルフが木板をコツ、と靴で叩く。「靴音で十分、か」


「鞘の功績です」ミラが笑う。「それと腹でわかる道具。分銅、尺、印、水の一滴」


 老船主は帽子を握り直し、皺を深くして笑った。「責任を先に賭けさせる。なら、俺は進める」


 アクスは小さく頷き、心の余白に三つ書いた。

 〈見える化〉〈触れる証拠〉〈鞘の功績〉。


 風向きがわずかに変わり、帆の白が遠ざかる。怖さは長生きしない。

 鏡の板は、夕焼けを受けて、川のように静かに光っていた。


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