管轄権の無限責任(アンリミテッド・ライビリティ)
境界線が、書き換えられていた。 夜明けの港。戻ってきた漁船の船長が、血相を変えて叫んだ。 「お、俺たちの漁場に、連合の旗が立ってる! 『ここより先、連合領海につき入漁税を払え』だとよ!」
アクスとヴォルフが港へ急行すると、沖合わずか2キロメートル——昨日までは間違いなく「公海」だった場所に、都市連合の警備船が錨を下ろし、浮標を浮かべていた。 目と鼻の先だ。実質的な港湾封鎖に近い。
「……やりやがったな」 ヴォルフがギリと歯を鳴らす。 「杭をこっそり動かすような可愛げはない。軍艦を置いて『ここが国境だ』と宣言する。……もっともタチの悪い侵略だ」
アクスは望遠鏡を覗いた。 警備船の甲板には、兵士だけでなく、法服を着た男が立っている。 「法務官を同伴していますね。彼らは『戦闘』ではなく『法執行』としてここにいる。こちらが撃てば、それを理由に全面戦争を仕掛ける気です」
[解析] 事象:領海の不法占拠。 敵の論理:実効支配による既成事実化。 対策:物理排除は戦争リスク大。論理排除が必要。
「アクス、どうする。地図を見せつけて抗議するか?」 「無駄です。地図は互いに都合の良い版を持っています。水掛け論になるだけです」
アクスは、敵船の動きをじっと観察した。 「……彼らは『権利(税)』を求めて線を引きました。ならば、その線に『義務』を結びつけましょう」
***
翌日。 アクスは小舟を出し、敵の警備船へと接触した。武装はしていない。手には巨大な羊皮紙の巻物と、数人の書記官を連れているだけだ。
警備船の甲板で、連合の法務官が冷ややかに見下ろした。 「警告する。貴官は連合領海に侵入している。直ちに退去せよ」 「異議はありません」 アクスはあっさりと認めた。 「あなた方がここを『連合領海』と定義するなら、その定義を受け入れましょう(アクセプト)」
ヴォルフが小舟の上で驚愕する。「おい、認めるのか!?」 アクスは無視して続けた。 「ついては、管轄権の移譲に伴う『事務手続き』を行います」
アクスは羊皮紙を広げた。 「海上法第4条。『領海の管理者は、その海域の安全を保証する義務を負う』。……ここがあなた方の海である以上、この海域で発生した事故、座礁、海賊被害は、すべてあなた方の管理責任です」
法務官が鼻で笑う。 「当たり前だ。我々の海は我々が守る。それが主権というものだ」 「言質を取りました」
アクスは合図を送った。 沖合から、一隻のボロボロの商船がゆっくりと近づいてきた。 船体は傾き、喫水線は沈み、今にも沈没しそうだ。
「あれは……なんだ?」 「我が国の商船『聖ルチア号』です。積み荷は高級ガラス製品と銀細工。……総額、五万リラ(国家予算並み)の価値があります」
アクスは無表情に告げた。 「実は、あの船は老朽化で操舵が利きません。今、まさに『あなた方の領海』に入りました。……おや?」
ガリガリガリ……! 嫌な音が響いた。聖ルチア号が、警備船のすぐ横にある浅瀬に乗り上げたのだ。 船体が大きく傾き、積まれていた箱が海に雪崩落ちる。
「ああっ! 私の財産が!」 仕込みの船主(実は役者)が、大げさに叫ぶ。 アクスは、真っ青になった法務官に詰め寄った。
「事故発生です。場所は『連合領海』内。原因は、あなた方が設置したブイによる水流変化と、浅瀬の標識不備です」 アクスは分厚い請求書を突きつけた。 「損害賠償を請求します。五万リラ。……まさか、『自分の海』で起きた事故の責任を取れないとは言いませんよね? 主権を主張するなら、補償義務もセットです」
「な……馬鹿な! 当たり屋だ!」 法務官が叫ぶ。「そんなボロ船、勝手に沈んだだけだ!」 「証明できますか?」 アクスは冷徹に切り返す。 「ここはあなた方の海です。海図の作成、水路の維持、安全航行の確保。それらを怠った『管理者責任』は免れません。……支払わないなら、大陸中の商人ギルドに通達します。『連合の海は無法地帯だ。税は取るが、事故の補償はしない』と」
それは、商業国家としての信用死を意味する。 しかし、五万リラを払えば、ここでの入漁税収入など百年経っても回収できない。
さらに、アクスは畳み掛けた。 「ああ、後ろを見てください。まだ『操舵の怪しい船』が十隻ほど待機しています。彼らもこの海域を通る予定ですが……もしまた事故が起きたら、破産では済みませんね?」
法務官の手が震える。 この海域を「領有」し続ける限り、アクスは無限に「事故」を起こし、無限に請求書を送ってくる。 領土だと思っていた場所が、負債に変わった瞬間だった。
「……撤収だ」 法務官は、呻くように命じた。 「ブイを上げろ! 船を戻せ! ……ここは『公海』だ! 我々の知ったことではない!」
警備船は逃げるように去っていった。 錨が上げられた瞬間、そこは再び「誰のものでもない海」に戻った。
***
夕暮れの港。 浅瀬に乗り上げた「聖ルチア号」から、船員たちが手を振っている。 ヴォルフが呆れたように笑った。 「……積荷のガラスは?」 「ガラス屑と石ころです。五万リラの価値があるというのは、私が書いた『鑑定書』上の話です」 アクスは平然と答えた。 「彼らは中身を確認する権利(アクセス権)を持っていなかった。だから『五万リラかもしれない』というリスク(仮想敵)に負けたのです」
アクスは地図を取り出し、境界線を修正した。 線を引くのはインクではない。コストだ。 「そこを維持するコスト」が「得られる利益」を上回る限り、敵はその線を越えてこない。
[ログ更新] 境界定義完了。 物理的な壁よりも、経済的な「採算ライン」こそが、最も強固な防壁となる。
しかし、アクスは冷や汗を拭った。 もし敵が「経済合理性」を無視して、損得抜きで撃ってきていたら? その時は、本当に五万リラ分のガラスが(たとえ中身が石でも、政治的には)沈んだことになり、戦争は避けられなかった。
ギリギリのブラフ。 心拍数が平常値に戻るまで、アクスは震える手をポケットに隠していた。




