悪意あるパケットのフィルタリング
市場は、臨界点に達していた。 石が飛ぶ。怒号が響く。ショーウィンドウ代わりの板戸が叩き割られる。 原因は、一枚の「紙」だった。
「見ろ! 領主様の命令書だ! 『食料の配給を停止し、すべて軍用に徴発する』と書いてある!」
広場の中心で、男が羊皮紙を掲げて叫んでいた。立派な紙に、もっともらしい紋章。学のない市民には読めない文字だが、その「雰囲気」だけでパニックを起こすには十分だった。 群衆がミラの店に殺到する。「隠した小麦を出せ!」「俺たちを飢え死にさせる気か!」 ミラは店の奥から短剣を持ち出し、青ざめた顔で入り口を塞いでいる。 「デマよ! そんな命令、聞いてないわ!」 「嘘をつけ! ここに証拠があるんだぞ!」
アクスとルカは、路地の陰からその光景を見ていた。 「……まずいな。暴動になるぞ」ルカが焦る。「アクス、どうにか止められないか?」 「止められません。情報の拡散速度が閾値を超えています」 アクスは冷徹に分析する。 「今の彼らにとって、事実は重要ではない。『騙されて飢えるかもしれない』という恐怖のリスクヘッジとして、暴力を選んでいるだけです」
[解析] 攻撃種別:偽情報によるDoS攻撃(サービス拒否攻撃)。 目的:市場機能の麻痺、および領主への信認失墜。 現状の脆弱性:公文書の「真贋判定」を行う手段(認証キー)を、一般市民が持っていないこと。
「修正が必要です。……ルカ、紙屑を拾ってきてください。できるだけ安くて、汚い紙を」
***
一時間後。評議会の緊急招集。 ヴォルフは苛立ち、机を叩いた。 「兵を出して鎮圧する! 偽の布告を撒いた奴を捕らえろ!」 「不可能です」エドアルドが首を振る。「出回っている偽書は数百枚。誰が始めたかもわからない。下手に市民を斬れば、それこそ『食料独占』の噂を肯定することになる」
そこへ、アクスが入室した。手には、泥のような色をした粗悪な紙切れの束。 「解決策を持参しました」 彼はその紙切れを机にばら撒いた。 「この紙を、公式な『保証書』として配布します」
ヴォルフが眉をひそめた。 「……正気か? 便所紙にもならんゴミだぞ。こんなもので領主の威光が示せるか」 「威光は偽造されます。必要なのは『機能』です」 アクスは説明を始めた。 「現在、敵は『高価な羊皮紙』と『精巧な紋章』を使って市民を騙しています。市民は羊皮紙なんて触ったこともないから、それっぽければ信じてしまう」 「だから、逆にします」
アクスは一枚の紙切れを手に取り、水差しから水を一滴、垂らした。 水滴は染み込まず、コロコロと玉になって転がり落ちた。
「仕掛けその一:『撥水加工』。紙を漉く際に、微量の松脂と膠を混ぜています。見た目は安っぽい紙ですが、水を通さない。……普通の紙なら、すぐに染みてふやけます」 次に、アクスは紙の端を指差した。不自然なほど鮮やかな青いインクで、線が引かれている。 「仕掛けその二:『構造色』。これはただのインクではありません。ムール貝の内側を粉砕し、特定のアブラナ油で溶いたものです。正面から見ると青ですが、斜めから見ると……」 アクスが紙を傾ける。青い線が、鈍い金色に光った。 「色が変化します(ホログラムの代用)。この配合を知っているのは、港の一角にある染物工房だけです」
「そして最後」 アクスは紙を二つに破り、その断面を見せた。 紙の繊維の中に、一本の赤い糸が織り込まれている。 「仕掛けその三:『セキュリティ・スレッド』。屑糸を混ぜて漉くのは簡単ですが、この『赤と黒のより糸』を、紙の中心層だけに埋め込むには特殊な技術が要ります」
アクスは評議員たちを見渡した。 「水。光。そして糸。……これらは、子供でも確認できる。学識も、鑑定眼も要りません。 市民に告知するのです。『本物の命令書は、水を弾き、色が変わり、赤い糸が入っている』と。 敵が高価な羊皮紙で偽造を続けるなら、我々は圧倒的に安価なゴミ(ハイテク紙幣)で、市場を埋め尽くします」
ミラが、紙切れを手に取って光にかざした。 「……面白いわ。羊皮紙なら一枚銀貨十枚かかるけど、これなら銅貨一枚で作れる。偽造しようと思えばできるでしょうけど、コストが合わない(割に合わない)わね」 「はい。攻撃者のコストを上げ、防御者のコストを下げる。それがセキュリティの基本です」
***
正午。市場の広場。 アクスは、ヴォルフの兵士たちと共に「検証所」を設置した。 そして、群衆に向かって宣言した。 「領主様からの正式な通達だ! 本物の命令書には『三つの証』がある! 怪しい紙を持ってる奴は、今すぐここで試してみろ!」
群衆がざわめく。 最前列で煽っていた男――先ほどの扇動者が、焦ったように叫んだ。 「騙されるな! それは役人の時間稼ぎだ! 紙なんてどうでもいい、食料を出せ!」
アクスは、その男を指差した。 「そこのあなた。あなたが持っているその立派な命令書……本物だと言うなら、水をかけてみてもいいですね?」 「な、なに?」 「本物なら弾くはずです。もし濡れて破れたら……それは『偽物』です」
群衆の視線が男に集まる。 男は後ずさりした。「ふ、ふざけるな! こんな神聖な文書に水をかけるなど……」 「やれ」 ヴォルフが命じる。兵士がバケツの水を、男の持っていた羊皮紙にぶちまけた。
結果は明白だった。 羊皮紙ではなく、安物のパルプを漂白して作った偽造紙は、水を吸って見るも無惨にふやけ、インクが滲んで判読不能になった。 「……溶けたぞ!」 「偽物だ! あいつ、俺たちを騙してやがったんだ!」
オセロがひっくり返るように、群衆の怒りの矛先が変わる。 男は青ざめて逃げ出そうとしたが、逃げ場はない。怒り狂った市民たちに取り押さえられ、殴る蹴るの制裁が始まった。
アクスはその光景を、感情のない目で見つめていた。 ルカが横で身震いする。 「……えげつねえな。あいつ、半殺しにされるぞ」 「自業自得です。彼はエラーパケット(不正データ)として、ネットワーク(群衆)自身によって排除されました」
広場のあちこちで、市民たちが配られた新しい「保証書」を水に濡らし、光にかざして喜んでいる。 自分の手で「真実」を確かめられる快感。それがパニックを鎮静化させていく。
アクスは、手帳にログを残した。 [学習完了] 信頼とは、権威から与えられるものではない。 ユーザー自身が「検証可能」であるときのみ、システムは安定する。
ふと、視線を感じて顔を上げる。 人混みの向こう、フードを目深に被った小柄な影が、こちらをじっと見ていた。 騒ぎが収まると同時に、その影は煙のように消えた。 [警告]未確認の監視者を探知。 敵の主力は、まだ動いていない。 今回の偽書騒動は、こちらのセキュリティ強度を測るための、単なる「ペネトレーションテスト(侵入実験)」に過ぎなかったのかもしれない。
アクスは、濡れても破れない紙切れをポケットにしまい、次なる攻撃に備えて思考を加速させた。




