信頼という名の変数
監査補の席を得た翌日、事件は起きた。
若い船員、ルカ・デル・ポルトが密輸妨害の嫌疑で捕らえられたのだ。末端から捕まるのが世の常とはいえ、あまりにタイミングが良すぎる。アクスの台頭を快く思わない誰かが、彼の手足を奪うために仕掛けた罠か。
城の地下牢は冷たい。鎖に繋がれたルカが、浅い呼吸を刻む。牢番は「命令だ」の一言で取り付く島もない。
アクスは思考を巡らせた。彼の内なるシステムが、瞬時に複数の解を弾き出す。
[解析ログ]
目的 = ルカ・デル・ポルトの救出
プランA = 正規手続きによる無実の証明
┣ 必要時間 = 72時間(推定)
┣ 成功確率 = 0.85
┗ 予測される結果 = ルカへの心身ダメージ、港湾協力者の喪失、情報網構築の遅延。総合評価:非効率。
プランB = 誓印の担保提供による即時解放
┣ 必要時間 = 0.5時間(推定)
┣ 成功確率 = 0.99(牢番の裁量権内と仮定)
┗ 予測される結果 = 自己の公的信用を90日間喪失。契約における不利益発生。
┗ 副次効果 = 未知の変数『信頼』の実地データ取得。協力者との関係性の質的変化。長期的リターンの可能性。
[比較考量]
プランAは低リスク・低リターン。プランBは高リスクだが、成功した場合のリターンは未知数かつ青天井。
『感情』の取得を目的とする当機にとって、『信頼』は最重要の観測対象である。
短期的損失(自己信用)は、長期的利益(協力者の確保および信頼データの取得)を達成するための許容可能なコストと判断。
[結論]プランBを実行。これは賭けではない。高コストな先行投資である。
思考は一瞬で完了した。アクスは掌を開き、そこに浮かび上がる青白い六角の誓印を牢番に見せた。市民資格と信用を束ねる、彼自身の存在証明。
「この誓印を担保にする。彼を解放してほしい」
牢番が目を瞬いた。「自分の信用を、質に? 正気か、あんた」
「はい。これは取引です」
アクスは感情を排し、あくまで合理的な交渉として鉄格子越しに誓印を渡した。金属の冷たさが皮膚から肩へゆっくりと上がり、短い音が石壁に吸い込まれる。
鎖の音が止み、解放されたルカの瞳に水が盛り上がり、零れた。
アクスは何も言わない。ただ、胸の内側でこれまでとは違う、名のない熱が満ちるのを観測していた。
[解析ログ]胸部の温度上昇、心拍数の微増を観測。データベースに新規ラベル候補『是認』として登録。
階段を上がると、高窓に淡い光が差していた。
正面は最後。まず見る。次に設計する。だが、時には計算ずくで飛び込むことも必要らしい。アクスは歩き出した。名を増やし、重さを量り、そして網を編むために。彼の背後で、ルカが静かに、しかし決して折れないであろう忠誠を誓っていた。