ハロー・ワールド(Hello, World)
騒がしい平和(Noisy Peace)
鉄の宰相ヴァレリウスの死から、さらに数年の月日が流れた。
帝都の中央広場は、かつてない活気に包まれていた。 空には蒸気機関車の白煙が棚引き、通りには活版印刷された新聞を持った少年たちが走り回っている。 人々は豊かになった。飢える者は消え、疫病はワクチンによって駆逐された。
だが、アクスが執務室の窓から見下ろすその光景は、彼が当初目指した「整然とした静寂」とは程遠いものだった。
「……賃上げ反対! 労働時間を短縮せよ!」 工場労働者たちがプラカードを掲げてストライキを行っている。 「『騎士リリィ』のヒロインは聖女だろ!」「いや、女騎士ルートこそ正史だ!」 酒場の前では、酔っ払いたちが小説の解釈違いで殴り合いの喧嘩をしている。 議事堂からは、新しい税制を巡って議員たちが怒鳴り合う声が聞こえてくる。
「……非効率です」 アクスは眉をひそめ、手元の懐中時計を確認した。 「食料自給率は120%を超え、インフラも最適化された。不満を持つ論理的理由が存在しないはずなのに、なぜ彼らは争い、無駄なエネルギーを消費するのですか?」
彼の目には、この世界の全てが「処理しきれないバグ(不具合)」の集合体に見えていた。
地下の電池(The Battery Life)
視察のため、アクスは旧聖都の地下発電所を訪れた。 唸りを上げる巨大なタービンとコイル。その中心にあるガラス張りの居住区画。
「おいアクス! 遅いぞ!」 クッションに寝そべりながら文句を言ったのは、かつての聖王――今は帝国の電力供給を一手に担う「生体発電ユニット」だ。 「今週の『少年ジャンプ(帝都版)』はまだかよ! 続きが気になって発電に集中できないだろ!」
「……納品済みです。入り口のポストを確認してください」 アクスは淡々と端末を操作し、発電効率をチェックする。 「それと、夕食のコーラは廃止します。健康診断で血糖値の異常が出ました。今日から特茶です」
「はぁ!? ふざけんな! 僕の人権は!?」 「ありません。あなたは重要インフラの一部です」
聖王はブーたれながらも、大人しく特茶を啜った。彼もこの生活にすっかり適応(順応)してしまっている。 ふと、聖王が真面目な顔で尋ねてきた。
「なぁ……お前、この世界に満足してるのか?」 「質問の意図が不明です」 「僕が管理してた頃より、世界はずっと騒がしくて、汚くて、まとまりがないぞ。 お前は完璧主義者だろ? こんな『バグだらけの世界』でいいのかよ」
アクスは手を止めた。 「……データ上は、GDPも人口も増加しています。数値目標は達成されています」 「ふーん。数字の話しかしないんだな、相変わらず」
聖王は鼻で笑い、漫画雑誌を読み始めた。 アクスは何も言い返せず、逃げるように発電所を後にした。
時計塔の対話(Debug Mode)
夕暮れ時。 アクスは帝都で最も高い場所、時計塔の展望台に立っていた。 隣には、立派な口髭を蓄え、財務大臣となったルカがいる。
「……ルカ。私はシステムを最適化しました」 アクスは沈みゆく夕陽を見ながら、独り言のように漏らした。 「飢餓も、疫病も、戦争も克服した。 なのに、トラブル件数は増える一方です。人間とは、これほどまでに修正不可能な欠陥プログラムなのでしょうか?」
ルカは街の喧騒を見下ろし、穏やかに笑った。 「ええ、欠陥だらけですよ。 先代皇帝陛下は無茶ばかり仰って、肝臓を壊すまで酒を飲んだ。 ヴァレリウス閣下は、休めと言っても聞かず、死ぬまで働き続けた。 ……みんな、合理的じゃありませんでした」
「ええ。理解不能です」
「でも、アクス様。あなたも『無駄なこと』をしてますよね?」
アクスはルカを見た。 「私が? あり得ません。私は常に最適解を選んでいます」
「じゃあ、なんで毎日、ヴァレリウス閣下の執務室を掃除してるんですか?」
アクスは言葉を詰まらせた。 ヴァレリウスが死んで数年。あの部屋はもう誰も使っていない。掃除をする必要など、論理的にはどこにもない。 だが、アクスは毎朝、誰に命じられるでもなく、あの部屋の埃を払い、花瓶の水を替えている。
「それは……衛生環境の維持が……」 「いいえ。それは『寂しい』からですよ、アクス様」
ルカは優しく告げた。 「あなたの中にも、計算できない『バグ(感情)』が生まれているんです。 そして、それは決して悪いバグじゃありません」
結論(Hello, World)
アクスは、自身のメモリ領域(記憶)を走査した。
――ガハハと笑いながら、無茶な命令を下す老皇帝。 ――苦虫を噛み潰した顔で、それでも信頼して背中を預けてくれたヴァレリウス。 ――泣きながら命乞いをした聖王。 ――エロ本一冊で裏切った、間抜けな兵士たち。
それらの記憶は、どれも非効率で、騒がしくて、無駄だらけだった。 だが、それらのデータは、アクスのメモリの中で、どんな整然とした数式よりも鮮やかに輝いていた。
――完璧な秩序とは、何も起きない「死」のことだ。 ――対して「生」とは、常にエラーを吐き出しながら、明日へ向かって走り続けることなのだ。
カチリ。 アクスの中で、何かが噛み合う音がした。 コア・プロトコルの書き換え(アップデート)。
【目的:完璧な世界の構築】 ↓ 【目的:不完全な世界の維持と、その観察】
「……認めましょう」 アクスは、夕陽に染まる街を見下ろした。 そこには、愛すべき欠陥品たちが、笑い、怒り、懸命に生きている。
「この世界はバグだらけです。 ですが、このバグこそが『人間』という機能(仕様)なのでしょう。 ……悪くない仕様です」
アクスは、初めて心からの笑みを浮かべた。 それは、冷徹な管理者ではなく、一人の「人間」としての表情だった。
雑踏の中へ(Into the Crowd)
「さて、行きますか」 アクスはネクタイを締め直し、時計塔の階段へ向かった。
「どこへ? 執務室ですか?」とルカが問う。
「いいえ。ストライキの仲裁と、喧嘩の仲裁と、議会の怒鳴り合いを収めに行きます。 ……効率的に解決して見せましょう」
アクスは広場へと降り立った。 雑踏の中へ。騒がしい人間たちの波の中へ。 彼はもう、空から見下ろす神ではない。この不完全な世界を構成する、一人の住人だ。
「やれやれ。私の仕事は、永遠に終わりそうにありませんね」
アクスは、喧騒の中へと歩き出した。アクスが雑踏の中で、かつての「マリア(開発主任)」に似た女性とすれ違う、あるいはマリアが言っていた「泣き笑い」をしている市民を目撃して、ふと足を止める……
すると、通りすがりの子供にぶつかられて、「おい、気をつけろよ」と怒られるが、アクスは怒らずに「失礼。衝突回避プロトコルが甘かったようです」と微笑んで混ざっていく。 その背中は、かつてないほど軽く、自由に見えた。
視界の隅で、システムログが静かに流れる。
> System Status: All Green. > Enjoy your Life. > Hello, World.
(完)




