カノッサの逆説(ゼロデイ・エクスプロイト)
老王の沈黙(Legacy System Waiting)
北の聖都。その城門前は、地獄のような寒さだった。 三日目の朝。猛吹雪の中、初老の皇帝レオナルド三世は、凍傷になりかけた足で立ち続けていた。 暖かな毛皮のマントは没収され、身に纏うのは粗末な修道服一枚。白髪の髭には氷柱が下がり、唇は紫色に変色している。
「……見ろ、あの老いぼれを」 城壁の上から、嘲笑う声が降ってくる。聖主国と同盟を結んだ周辺国の若い王たちだ。 「帝国の栄光も地に落ちたな。あと一時間もすれば、泣いて許しを請うだろう」 「早く土下座すれば、暖炉のそばに行けるのになぁ!」
彼らは手に持った温かいワインを掲げ、敗残者たちを見下ろして笑った。 その光景に、ヴァレリウスは歯を食いしばり、怒りで身を震わせていた。 「……陛下。もう限界です。倒れるフリをなさってください」
だが、レオナルド三世はわずかに首を振った。 ガタガタと震える身体とは裏腹に、その双眸には老いた獅子のような、底冷えする光が宿っていた。
「……よい。余が惨めであればあるほど、奴らの油断は深くなる。そうだろ、アクス?」
傍らに立つ少年――アクスは、懐中時計を見つめていた。 「はい。現在、敵の油断係数は最大値。」
限界への到達(The Limit)
その時、ベネツィアでは 『アクスさん、ご指示通り……買い占め完了です』
それは、商都に残ったルカだった。声は枯れ果て、疲労困憊していたが、そこには任務を完遂した男の安堵があった。
『裏ルート、ダミー会社を総動員して、市場に出回った「ベネツィア債(国債)」と「帝国通貨」を、底値ですべて拾いました。もう中央銀行の金庫には、銅貨一枚残っていません』
ルカは、暴落し続けるナイフを素手で掴み続けたのだ。 市場には今、聖主国の商人と、帝国の没落を願う旧貴族たちによる「空売り(ショート)」の山が積み上がっている。彼らは「帝国は破産する」と信じ込み、借金をしてまで債券を売り浴びせた。 そのすべての売り注文を、アクスとルカが裏で吸収したのだ。
『ルカ。そろそろ予定時刻を過ぎました。予定通りできたでしょうか?ルカを信じて……これより、価格破壊を実行します』
アクスは皇帝の背中に手を置き、静かに告げた。 「陛下。仕込み(セットアップ)は完了しました。……反撃の時間です」
靴紐の逆説(The Shoelace Paradox)
重い地響きと共に、ついに城門が開いた。 三人は衛兵に促され、大聖堂の広間へと通された。 祭壇の奥には教皇が座り、左右にはニヤニヤと笑う諸国の王たちが並んでいる。暖かな室内の空気が、凍えた肌を刺すように包んだ。
教皇が、抑揚のない声で告げた。 「迷える子羊、レオナルドよ。 跪け。そして聖王陛下の慈悲を乞え。さすれば、温情としてニッケルの輸出を再開してやろう」
広間に嘲笑がさざめく。 「さあ、頭を下げろ」「帝国の終わりだ」
皇帝はよろめきながら、ゆっくりと膝を折った。 膝が床につく――その寸前。 皇帝は動きを止め、解けていた靴紐に手を伸ばした。
そして、震える手で、しかし丁寧に、蝶結びを作り直した。 その数秒の静寂が、場を支配する。嘲笑が消え、困惑が広がる。
皇帝は、ヴァレリウスの手を借りて、堂々と立ち上がった。 背筋を伸ばし、祭壇を真っ直ぐに見据える。そこには、敗者の惨めさは微塵もなかった。
「勘違いするな、若造ども。余は神に祈ろうとしたのではない。……靴紐が解けていただけだ」
「き、貴様……! 何をしている! ニッケルが欲しくないのか!」
叫んだのは、教皇の隣に座っていた、同盟国の若い国王だった。 彼は顔を真っ赤にして立ち上がり、ワイングラスを床に叩きつけた。帝国の屈服を見るために特等席にいた彼にとって、老皇帝の不遜な態度は許しがたい侮辱だった。
対照的に、教皇は眉一つ動かさなかった。 ただ、能面のような無表情で、不可解なエラーを見つめるようにレオナルドを見下ろしているだけだ。その瞳の奥には、人間的な感情が欠落している――まるで、背後にいる「誰か」からの指示を受信し続ける、精密な端末のように。
マンガンの発表(Disruptive Innovation)
「以後、帝国の代表として私が説明します」 アクスが一歩前に進み出た。 懐から、黒ずんだ無骨な金属塊を取り出し、教皇たちの足元へ放り投げる。 ゴトッ、と鈍い音が、静まり返った大聖堂に響いた。
「なんだ、その汚い石は。ニッケルではないな?」 天井のモニター越しに、聖王の声が響く。
「新製品発表。 これは**『マンガン』**。帝国内のどこにでもある、ありふれた石です」
アクスは冷徹に告げた。 「我々は、高価なニッケルの代わりに、この安価なマンガンを添加することで、十分な強度を持つ強靭鋼(ハドフィールド鋼)の精製に成功しました」
「は……? マンガンだと? あんなゴミ屑で鋼ができるわけが……」
「できます。そして、コスト計算を提示します」 アクスは、空中に指で数字を描くように宣言した。
「あなた方のニッケル鋼に対し、我々のマンガン鋼は**『3分の1の価格』**で製造可能です。 もはや、高価で入手困難なニッケルなど、産業用には不要です」
ダブルパンチ(Crash and Boom)
アクスは天井を見上げた。 「今、この瞬間をもって『新製法』を世界に情報解禁しました」
それは、聖主国と旧貴族たちに対する、死刑宣告のスイッチだった。
――同刻。世界の市場は、悲鳴と歓喜の爆発に包まれた。
「帝国が新素材を発表! 生産コストは三分の一だ!」 「ニッケルはもう要らないらしいぞ!」 「帝国の工場はフル稼働中だ!」
その情報は、二つの巨大な衝撃波となって経済を襲った。
第一の衝撃。「ニッケルの暴落」。 聖主国連合が独占し、価格を吊り上げていたニッケルの価値が、一夜にして地に落ちた。「代替品がある」と知れた瞬間、それはただの漬物石と化したのだ。聖主国の鉱山資産は、瞬時にしてゴミ同然となった。
第二の衝撃。「ベネツィア債の垂直上昇」。 「帝国は破産しない。むしろ、以前より強く安価な鉄で大復活する」。 その確信は、紙屑同然に暴落していたベネツィア債への猛烈な買い注文を呼び込んだ。
「か、買い戻せ! ベネツィア債を買い戻せ! 償還期限が来たら破産するぞ!」 帝国の破滅に賭けて国債を「空売り」していた敵国商人や旧貴族たちは、顔面蒼白で市場に群がった。 空売りとは、「安く買い戻して返す」約束で利益を得る手法だ。価格が上がれば、その分だけ損失になる。
彼らは必死に債券を探した。だが、市場には売り物が一つもなかった。 なぜなら、市場に出回っていた債券はすべて、ルカが底値で買い占めてしまっていたからだ。
「売ってください! いくらでも出します!」 「残念ですが、非売品です」 ルカは冷たく電話を切る。
市場に債券がない。それでも期限までに買い戻して返済しなければならない。 需要だけがあり、供給がゼロ。 ベネツィア債の価格は天井知らずに跳ね上がり、チャートは垂直の壁を描いた。
空売り勢は、「ベネツィア債高騰による無限の損失(借金)」と、「ニッケル暴落による資産消失」のダブルパンチを食らった。 担保にしていた鉱山は価値を失い、債務だけが天文学的に膨れ上がる。 彼らは破産どころではない。一族郎党、未来永劫這い上がれない借金地獄へと叩き落とされたのだ。
宣戦布告
大聖堂の中、若い国王へ急報が入る。 「へ、陛下! ニッケル相場が大暴落しています! 我が国の資産が消滅しました!」 「さらにベネツィア債が暴騰! 空売りしていた王室ファンドが破綻しました! 我が国は……破産です!」
「ば、馬鹿な! 我々の石が……神の石が……!」 若い王は腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
その様子を、教皇はただ無言で見つめていた。まるで壊れたおもちゃを見るような目で。
ヴァレリウスは、絶望する諸王を見渡し、愉快そうに笑った。 「聞いたな? 貴様らの石は、ただの漬物石になった。 経済制裁は無効化された」
ヴァレリウスは剣の柄に手をかけ、高らかに宣言した。 「これより帝国は、より安く、より強い鉄で武装し、貴様らの『首』を回収しに行く! 首を洗って待っていろ!」
混乱に乗じ、アクスが放った閃光弾が炸裂する。 ホワイトアウトする視界の中、三人は大聖堂を脱出した。
雪原を爆走する馬車の中。 老皇帝レオナルドは、凍えた手をさすりながら、子供のようにニヤリと笑った。
「……マンガンか。道端の石ころが、ダイヤモンドより価値を持つとはな」 「ええ。希少性など幻想です。供給量とコストこそが正義ですから」
アクスは懐中時計を閉じた。 屈辱の時間は終わった。ここからは、圧倒的な物量と経済力による、蹂躙の時間だ。




