表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/7

黒き城の評議

闇がほどける音を、彼は初めて耳で聞いた。

呼吸。胸の内側が上下し、空気が冷たく刺さる。鼓動。規則的だが、ときどきもつれる。AX-8は——いや、いまはアクスと名乗ろう——石畳の路地に横たわっていた。鼻の奥に潮と薪の匂い。世界が“データ”ではなく“重さ”で押し寄せてくる。

〈未知=資産〉——かつての規則を、彼は改めて胸の棚に置き直した。


路地の出口で、少年が立ち止まる。港の船丁、ルカ・デル・ポルトと名乗った彼は、アクスの傍らにしゃがんだ。

「生きてるか」

「はい。多分」声が自分の喉を通る感覚は、想像よりも脆い。


アクスは立ち上がりながら、ルカの肩紐の擦り切れと、革靴の泥の色を見た。塩田の灰白。夜明け前に浜を走った足だ。

「両替所の列は?」とアクスが問う。

「長い。北の連邦で銀の話があって……みんな落ち着かねえ」

言いながら、ルカは袋から封蝋の切られた小箱を取り出した。


港の市場は、すでに熱を帯びていた。両替所の前では、怒った掌と怯えた眼差しが同じ列に並んでいる。

そこで香辛料問屋の女主人、ミラ・サフランに引き合わされた。黒い袖、抑えた金の耳飾り。彼女はアクスの値踏みをするような目つきを隠さない。

「見ない顔ね。ルカが拾ったの?」

「はい。拾われ、起き上がったところです」

アクスはミラが持つ小箱に目をやった。角の粉が彼女の指に移っている。

「その粉、少し拝借しても?」

許可を得て、アクスは微粉を指腹でこすり、爪で鳴る音を聴く。鈍い光、濁った響き。

「錫が多い。銀が痩せています。袋は百でも、重さは百に満たない」

ミラの片眉がぴくりと動いた。「……袖で読み、袋で測る子か。面白い。私はミラ・サフラン。あなたは?」

「アクス。職は、未定です」

「未定は嫌いじゃない。動くから」ミラは笑い、アクスを黒石の城へと促した。「ちょうどよかった。商人会議が始まる。物言う子どもは嫌いじゃない。ついてきなさい」


半円形の評議室は、外套の色が鱗のように並び、緊張で満ちていた。中央の机には秤と砂時計。金縁眼鏡の議長マグダラ・フェルモが、新顔のアクスに鋭い視線を向ける。

「ミラが連れてきた子か。ここは祈る場所ではない。決める場所だ。何か言いたいことがあると聞いたが」

書記テオ・リンデが革袋と銀貨、薄い帳簿を三冊、机に並べた。説明より先に判断を求める、この街の流儀らしい。


アクスは銀貨を一枚摘み、耳元で弾いた。響きは長いのに、尾が濁る。

「通貨の信認が、抜け始めています」

彼は帳簿を開いた。“9”の数字だけが妙に濃く、紙の裏に小さな丘を作っている。小計の位置も二度ずれていた。

「正しい間違い方を選ぶ時間すら、店にない。制度の誤差を、個人の手首が払わされています」


そのとき、北から報せが駆け込んだ。鉱山連邦、通貨急落。巨商会、連鎖破綻。

「即時動員だ!」軍務伯ハルトヴィヒ・ヴォルフが拳で机を鳴らす。

「交易路を断てば、こちらが先に枯れる」知識人貴族のエドアルド・ディ・ラグーナが静かに応じた。

言葉がぶつかり、火花になる。


アクスは棒で地図の余白を叩いた。赤線は北への穀物流、青点は港の保険店の位置。

「正面からぶつかるのは最後です。まず、補給線と信認を折る。港湾検査を強化し、再保険は帝国通貨建てに限定。北向けの塩は“少しだけ”絞りましょう。空の倉より『足りない棚』の方が、人は怯えます」

「姑息で儲かるなら、私は姑息を買うわ」ミラが肩を震わせた。ヴォルフは鼻で笑ったが、続く言葉はなかった。


議長マグダラが次の札を上げる。「税の形について。桟橋税か、消費税+地役権か」

「恐慌時の桟橋税は火に油です。滞貨が増え、治安コストが跳ね上がる。消費税+地役権なら、市場を殺さず歳入を拾える」


「風待ちの麦が三隻!」塩問屋バルト・サリーナが節くれだった手を上げる。「三日遅れで半値、七日で腐る。保険料は、いくらにする」

アクスは即答した。「三日までは通常、四日目から急曲線で割増に。腐敗の閾値の前に『怖さの値札』を見せ、船を急がせるための保険にします」

短い沈黙。やがて、バルトの指が一度だけ机を叩いた。了承の合図だ。


議長は最後の問いを置いた。「君は何を信じる」

数で答えられない問い。アクスは自分の掌を見た。新しい皮膚、そして胸の内側で脈打つ、六角の誓印の重み。

「秤は好きです。けれど秤が計れないものが、商いを動かすことも知りたい。——信頼を、変数として扱います」


羽根ペンが羊皮紙をかすめる音がいくつも続いた。議長マグダラは短く頷く。

「席を与えよう、アクス。監査補として、見る者の席を」

こうして、転生の朝から始まった一日は、黒石の城に認められる夜で終わった。彼はまだ知らない。この決定が、彼の運命だけでなく、この街の血流そのものを変えていくことになるということを。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ