黒い森の呪いと、三年目の蒸気(スチーム)
1. 呪われた利権(The Cursed Asset)
帝国の北端。国境を越えた先に広がるその場所は、古くから「シュヴァルツ・ムーア(黒い森の湿地帯)」と呼ばれ、人々から忌み嫌われてきた。 一年中晴れることのない鉛色の空。足首まで沈む腐葉土の泥。そして、腐った卵のような硫黄の臭いが立ち込める、死の世界。
帝都の執務室にて。ヴァレリウス宰相は、借金のカタとしてその土地の権利書を差し出しながら、口の端を吊り上げた。
「……良い取引だろう、アクス。あの土地の下には、帝国でも最大級の『燃える石(石炭)』が眠っていると言われている」
「知っています。成分分析データによれば、埋蔵量は推定数億トン」
「ならば話は早い。99年の租借を認めよう。……ただし、あそこは『気難しい』土地でな。過去に何度も開発を試みたが、そのたびに作業員が戻ってこなかった」
ヴァレリウスは知っていた。あそこは地下水脈が複雑に入り組み、掘れば即座に水没し、さらに致死性のガスが噴き出す「人食いの森」であることを。 アクスが連れて行く難民ごと、泥に沈めばいい。そうなれば帝国の借金も有耶無耶にできる。それは、老獪な政治家が仕掛けた「自然の罠」だった。
2. 死の初期投資(Sunk Cost)
一ヶ月後。 シュヴァルツ・ムーアに到着した4,500人の難民たちを待っていたのは、泥沼の地獄だった。
「杭が止まらねえ! どこまで沈むんだ!」 「水だ! また水が出たぞ! ポンプ(手押し)が追いつかねえ!」
建設は難航を極めた。 建物を建てようにも、基礎がズブズブと沈んでいく。アクスは「松の巨木を数万本沈めて地盤を固める」というベネツィア流の工法を指示したが、その作業だけで半年が過ぎた。
さらに、「呪い」が牙を剥く。 地下深くまで掘り進めた坑道で、突如として水が噴き出したのだ。逃げ遅れた十数名が溺死した。 翌日には、無色無臭のガスが噴出し、カナリアよりも先に人間が倒れた。
「……損耗率0.8%。許容範囲内です」
アクスは、泥まみれの遺体が並ぶ横で、手帳に数字を書き込んだ。 「補充の人員を要請。……作業を続行します」
難民たちの目から光が消えていく。 「ここは地獄だ」「俺たちは使い捨てか」。 不満と絶望が臨界点に達しようとしていた。人間の精神力だけで挑むには、大自然の障壁はあまりに巨大すぎた。
3. 悪魔の咆哮(Technology solves Curse)
一年目の冬。 浸水して作業不能になった坑道の前で、現場監督が膝をついていた。 「無理です、アクス様。バケツリレーじゃ、この水は汲み出せません。……ここは呪われています」
「呪いではありません。ただの『水圧』です」
アクスは、巨大な鉄の塊を積んだ荷車を引かせてきた。 それは、アクスが設計し、帝国の熟練鍛冶屋に作らせた**「ニューコメン式蒸気ポンプ(初期型)」**だった。
「点火」
ボイラーに火が入る。 シュゴオオオオオッ……!! 森を震わせるような轟音と共に、黒煙が噴き上がった。難民たちが「悪魔の咆哮だ」と悲鳴を上げて逃げ惑う。 だが、その悪魔は、彼らを食う代わりに猛烈な勢いで仕事を始めた。
ギッタン、バッコン。ギッタン、バッコン。 巨大な天秤のようなビームが上下するたびに、坑道から凄まじい量の泥水が吐き出されていく。 人間が百人で一日かかる量を、この鉄の塊は一時間で飲み干した。
「……嘘だろ。水が引いていく」
さらに、蒸気で回るファンが、坑道の奥に新鮮な空気を送り込み、有毒ガスを強制的に排出した。
「物理的に解決しました」 アクスは煤で汚れた顔のまま、呆然とする監督に告げた。 「これより24時間体制、3交代制で掘削を開始します。……機械は疲れませんから」
4. 三年の煤煙(Time Skip)
そして、三年が過ぎた。
かつての「死の湿地帯」は、地図から消滅していた。 代わりにそこに現れたのは、**「北の工業地帯」**と呼ばれる、煙と鉄の都市だった。
空は煤で灰色に染まり、禿山になった大地には、血管のようにレールが敷かれ、蒸気を吐く鉄の馬(蒸気機関車)が石炭を運んでいる。
視察に訪れたヴァレリウス宰相は、ハンカチで口を覆いながら、その光景に言葉を失った。 「……これを、三年で作ったのか。あの泥沼の上に」
「ええ。数千人の労働者と、数百人の犠牲を払って」 出迎えたアクスは、かつての純白の服ではなく、汚れの目立たない黒い服を着ていた。その目は、以前よりも深く、冷たい光を宿している。
5. 絵図面の労働者(Pictogram Manuals)
ヴァレリウスが最も戦慄したのは、工場の規模ではなかった。 そこで働く**「人間」**だった。
巨大なプレス機の前で、男たちが無駄のない動きでレバーを操作している。 蒸気圧計を確認し、バルブを調整し、安全弁を開く。その動作は一糸乱れぬもので、まるで彼ら自身が機械の一部であるかのようだった。
「……アクスよ。彼らは元農民のはずだ。文字も読めぬ彼らに、どうやってこれほど複雑な機械操作を教え込んだ?」 ヴァレリウスは疑念を抱いた。 「まさか、三年かけて文字から教えたわけではあるまい?」
「文字は教えていません。非効率ですから」 アクスは、壁に貼られた一枚の**「板」**を指差した。
そこには、文字は一切なかった。 描かれていたのは、極限まで単純化された**「絵」**だった。
『赤いレバーの絵』 → 『蒸気の絵』 『針が赤いゾーンに入った絵』 → 『ドクロのマーク』 → 『バルブを閉める手の絵』
「視覚情報への置換です」 アクスは説明した。 「『圧力が臨界点に達したらバルブを閉鎖せよ』という文章を理解するには、教育に五年かかります。 ですが、『針が赤に行ったら、レバーを引け。さもなくば死ぬ』という絵なら、三秒で理解できます」
アクスは、黙々と作業する労働者たちを見渡した。 「彼らは『なぜそうなるか(理論)』は理解していません。ですが、『何をすればいいか(操作)』だけは完璧に遂行します。 ……思考をショートカットし、反射神経だけで動くように再設計しました」
ヴァレリウスは、板の上の単純な絵と、その通りに動く人間を見比べた。 それは教育ではない。「プログラミング」だ。 人間というハードウェアに、絵図面という簡易言語を使って、直接命令を書き込んでいるのだ。初の産声でもあった。
6. 結末:黒い剣の切れ味(The Compromise)
帰り際、アクスは工場の出口で、一本の剣をヴァレリウスに差し出した。 装飾の一切ない、黒々とした鉄の棒のような剣だ。
「……試作品です。お持ちください」
アクスは、不満げに剣の表面を指でなぞった。 「成分分析の結果、硫黄の除去率が目標値に届きませんでした。この森の石炭は不純物が多すぎる。 強度にはムラがあり、炭素含有量の誤差もプラスマイナス0.2%。……設計上の理想値には程遠い、**『妥協の産物』**です」
アクスにとっては、それはあくまで「許容範囲内の不良品」に過ぎなかった。 だが、ヴァレリウスは無言でそれを受け取ると、腰の鞘から自らの剣――帝国の名工が三ヶ月かけて鍛えたという宝剣――を抜き、従者に持たせた。
「……妥協、か」
ヴァレリウスは、黒い剣を構えた。 そして、何の躊躇もなく、従者が持つ宝剣の刀身めがけて振り下ろした。
ガキンッ!!
高い金属音が響き、折れた刃が回転しながら泥の中に突き刺さった。 折れたのは、帝国の宝剣の方だった。 黒い剣の刃には、刃こぼれ一つない。
「な……っ!?」 従者たちが息を呑む。 ヴァレリウスは、震える手で黒い剣を見つめた。 歪みも、傷もない。ただ冷徹に、物理法則に従って「切断」というタスクを遂行しただけの鉄塊。
(……これが、妥協だと?)
ヴァレリウスは戦慄した。 アクスが「不純物が多い」「ムラがある」と吐き捨てたこの鉄は、帝国の歴史上、最も強靭で、最も鋭利な**「神具」**に他ならなかったからだ。 「……アクスよ。貴様の見ている『完璧』は、神の領域にあるのか」
「いいえ。物理的な限界点(理論値)にあるだけです」 アクスは平然と答えた。 「現在の設備では、これ以上の精度は出せません。次のフェーズで、転炉を導入し、品質を安定させます」
ヴァレリウスは、黒い剣を鞘に納めた。 その重みは、単なる武器の重さではなかった。 アクスが「失敗作」と呼ぶゴミでさえ、帝国の至宝を粉砕する。その圧倒的な文明の格差の重みだった。
「……美しいとは言えんが、強い」
ヴァレリウスは、煤けた空を見上げた。 彼は、この工場が吐き出す「製品」の価値を理解した。だがそれ以上に、ここで作られた「マニュアル人間」たちの価値を見抜いていた。
(文字が読めなくても、絵図面一つでこの『神具』を量産し、扱える人間……。 これは、最強の兵士ではないか)
「礼を言うぞ、アクス。この黒い森は、確かに帝国の『心臓』となるだろう」
蒸気機関の汽笛が鳴り響く。 それは、中世の闇を切り裂く文明の音であり、同時に、人間が「規格化されたリソース」として消費される時代の、冷酷なファンファーレでもあった。




