負債と泥沼(デット・エクイティ・スワップ)
凍てつく金庫、燃える胃袋 帝国の冬は、鉛色の空に覆われていた。 だが、今年の冬は少し違っていた。帝都の市場には、南方の海を越えて運ばれてきた小麦が山と積まれ、パン屋の煙突からは白い煙が絶え間なく立ち上っていた。 飢えは去った。 数ヶ月前、飢餓に狂い、隣国ベネツィアへとなだれ込もうとした十万の民衆は、今や満腹の腹をさすりながら、暖炉の前でまどろんでいる。 彼らは口々に称える。「皇帝陛下の慈悲だ」「いや、ベネツィアのアクス様の魔術だ」と。
しかし、その豊かさが「ツケ払い」であることを知る者は、帝城の奥深くにいる数人しかいなかった。
帝都、大蔵省の地下金庫。 帝国宰相ヴァレリウス公爵は、分厚い毛皮のマントを羽織ってもなお震えが止まらなかった。 寒さのせいではない。目の前に広がる「空虚」のせいだ。
「……これだけか」
ヴァレリウスの声が、空っぽの石壁に反響する。 かつて帝国の栄華を象徴するように積み上げられていた金貨や銀貨は、底をついていた。あるのは、埃をかぶった数箱の銅貨と、使い古された武具、そして先代皇帝の肖像画だけだ。
傍らに控える老財務長官が、死刑宣告のような報告を読み上げる。 「閣下。来週は、ベネツィアとの契約に基づく『帝国復興国債』の第一回利払い日でございます」
ヴァレリウスは呻いた。 「……額は」 「金貨八万枚。……現在、国庫にある換金可能な資産をすべて合わせても、一万枚にも届きません」
絶望的な数字だった。 アクスとの契約により、ベネツィアは帝国の飢餓を救うために巨額の食料と輸送費を肩代わりした。その代金は「国債」という形で借金となり、帝国は毎年、その利子を払わねばならない。 だが、飢餓から立ち直ったばかりの帝国の経済は、まだよちよち歩きだ。税収は戻っていない。 払えなければ「債務不履行」だ。 契約書の条項は明確だ。『利払いが滞った場合、担保権を行使する』。担保に入っているのは、帝国の「徴税権」そのものだ。 もしデフォルトすれば、アクスは法的に正当な権利として、帝国の税収を根こそぎ奪っていくだろう。国家の財布を完全に握られる。それは、帝国の死を意味した。
「……国を売るわけにはいかん」
ヴァレリウスは、空の金庫の扉を拳で叩いた。皮膚が裂け、血が滲む。 痛みで、辛うじて理性を繋ぎ止める。
「馬車を出せ。……ベネツィアへ行く」 「閣下? 手ぶらで行かれても……」 「手ぶらではない」
ヴァレリウスは、腰に帯びた剣――皇帝から賜った宝剣を握りしめた。 「私の私財、屋敷、領地、そしてこの命。……すべてを差し出す。這いつくばってでも、猶予をもぎ取るのだ」
毒入りの契約書 ベネツィア、リアルト銀行本店。最上階の特別応接室。 豪奢な調度品に囲まれたその部屋で、アクスとヴァレリウスは対峙していた。 テーブルの上には、冷めかけた紅茶と、一枚の督促状。
「……単刀直入に申し上げましょう、宰相閣下」 アクスは表情筋を一切動かさずに切り出した。 「金貨八万枚。期限は明日です。……用意できていないようですね」
ヴァレリウスは、眉一つ動かさずに紅茶を一口すすった。 「ない袖は振れんよ、アクス。飢餓は去ったが、税収が戻るには時間がかかる。……リスケジュール(返済計画の変更)を頼みたい」
「銀行は慈善事業ではありません。契約書第14条に基づき、担保権を行使します。帝国の徴税権を……」
「待て」 ヴァレリウスは、静かに手を挙げた。その動作には、敗者の惨めさは微塵もなく、むしろ老獪な政治家の重みがあった。 「徴税権を奪えば、帝国は死ぬ。死んだ牛からは乳も肉も取れんぞ。……それは貴様の好む『合理的』な結末かね?」
「では、代案を」
ヴァレリウスは、懐から一枚の地図を取り出し、テーブルに広げた。 指差したのは、北の国境地帯。『黒い森の湿地帯』。
「担保の代わりに、ここをやろう」
同席していたミラが「あんな泥沼を?」と怪訝な顔をするが、アクスは無表情のまま地図を見つめた。
「……領土の割譲ですか。帝国宰相ともあろう方が、随分と思い切った『売国』をされる」
「言葉が過ぎるな。売るのではない。『貸す』のだ」 ヴァレリウスは、薄い笑みを浮かべた。 「99年間の『租借』だ。……貴様の調査団が、あの泥沼の下に眠る『黒い石』に関心を持っていることは知っている。 我々にはゴミ同然だが、貴様の技術なら宝の山になるのだろう? 今回の利払いと元本の一部……それを帳消しにするなら、あの土地の自由な利用を認めてやってもいい」
ヴァレリウスは、地図上の国境線を指でなぞり、声を低くした。
「ただし、アクス。条件が一つある。 この森の向こう側――『北の教皇領(聖主国)』には、決して手を出すな」
アクスは計算機のような目で問い返した。 「不可侵条約への配慮ですか? 経済的な商圏拡大であれば、国境は障害になりませんが」
「違う。あそこは『触れてはいけないブラックボックス』だ」 ヴァレリウスの瞳に、稀に見る深刻な色が宿った。 「いいか。帝国は民の『身体』と『財布』を支配している。貴様もまた、民の『胃袋』を握った。 だが、奴らは違う。奴らは民の『脳(OS)』の管理者権限を持っている」
ヴァレリウスは、自分のこめかみを指差した。 「『信仰』という名のバックドアは、帝国のあらゆる市民の脳に最初から埋め込まれているのだ。 下手に刺激すれば、昨日まで隣人だった善良な市民が、一夜にして自爆テロも辞さない『神の兵』へと書き換わるぞ」
「……メンタル・ハッキングのリスク、ですか。承知しました。当面は接続を回避します」
「ああ、そうしろ。……あの眠れる怪物を起こすのは、まだ早い」
アクスは計算した。 相手はこちらの狙い(石炭資源)を見抜いた上で、足元を見てきている。だが、デフォルトさせて帝国を殺すより、資源を手に入れて産業革命を起こす方が、長期的利益は大きい。
「……悪くない提案です。ですが、条件があります。あそこを帝国の法が及ばない『経済特区』とすること」
「認めよう。ただし」 ヴァレリウスは、鋭い眼光でアクスを射抜いた。 「皇帝陛下の顔を立ててもらわねば困る。形式上、あくまで『帝国の土地』であるという体裁が必要だ。……この三つの付帯条項を盛り込め」
ヴァレリウスが差し出したメモには、こう記されていた。
一、租借期間終了後、当該地域の全インフラは無償で帝国へ返還される。 二、雇用する労働者は帝国市民に限り、彼らへの技術教育を義務とする。 三、公用語および教育は帝国のものを使用する。
アクスは瞬時に計算を行う。 (99年後の資産価値など、現在割引価値で計算すればゼロに等しい。技術も一世紀経てば陳腐化する。……こちらのデメリットは皆無だ)
「……帝国のプライドを守るための条項ですか。よろしいでしょう。実利さえ取れれば、名目など幾らでも差し上げます」
「話が早くて助かる」
二人は、互いに腹の底を探り合うような視線を交わしながら、契約書にサインをした。 握手はしなかった。 ただ、互いに「してやったり」という微かな感情を、鉄面皮の下に隠したまま。
馬車の中の独白 会談を終え、銀行を出たヴァレリウスは、待たせていた馬車に乗り込んだ。 扉が閉まり、馬車が動き出した瞬間、彼は深く座席に沈み込み、長く重い吐息を漏らした。
「……閣下、よろしかったのですか?」 同乗していた若き財務官が、悲痛な面持ちで尋ねた。 「あの土地を……将来、莫大な富を生むかもしれない場所を、たかが借金のカタに売り渡すなど」
「売ったのではないと言っただろう」 ヴァレリウスは、閉じていた目を開けた。その瞳には、先ほどまでの疲労の色はなく、冷徹な征服者の光が宿っていた。
「あれは『種蒔き』だ」
「種蒔き、ですか?」
「ああ。アクスという男は、全てを『減価償却』で考える。 奴にとって、99年後の工場など、価値のないスクラップだ。だから返還条項を簡単に飲んだ。 ……だが、国家は違う」
ヴァレリウスは、窓の外を流れるベネツィアの街並みを睨みつけた。
「国家とは『蓄積』だ。 アクスはあそこで、莫大な金をかけて工場を建て、鉄道を敷き、我々の民に最新の技術を教え込むだろう。 奴が必死に投資し、開発し、完成させた世界最高峰の産業基盤……。 99年後、契約の鐘が鳴った瞬間、その全てが『無償』で帝国のものになるのだ」
財務官が息を呑む。 「そ、それでは……ベネツィアは……」
「我々のために、自腹で帝国を近代化してくれる『パトロン』だよ」 ヴァレリウスは口元を歪めた。 「条項に入れた『帝国市民の雇用』と『帝国の教育』。これが効いてくる。 100年経っても、そこで働く者たちの魂は帝国人のままだ。技術だけを盗み、魂は売らせない。 アクスは目先の『効率』と引き換えに、未来の『主権』を手放したのだ」
ヴァレリウスは、自らの膝の上で拳を握りしめた。
「私は死ぬだろう。お前も死ぬ。だが、帝国は生き続ける。 曾孫の代の皇帝は、アクスが育てた最強のエンジンを手に入れて、世界を獲るだろう。 ……これは敗北ではない。100年越しの勝利のための布石だ」
馬車は帝都への帰路を急ぐ。 その車輪の音は、今はまだ弱々しいが、やがて世界を轢き潰す鋼鉄の響きへと変わる予感を孕んでいた。




