悪魔のM&A
1. 黒い船と白いパン
契約が結ばれてから三日後。帝都の河港に、異様な光景が現れた。
川霧の中から姿を現したのは、黒塗りの巨大なガレー船団だった。船首には、ベネツィアの象徴である「翼の生えた獅子」の像が輝いている。 かつて海賊を震え上がらせ、帝国の海軍を港に封じ込めた、あの「規格化艦隊」だ。 だが、今日の彼らは死を運んできたのではなかった。
「来たぞ! ベネツィアの船だ!」 「パンだ! 麦が来たぞ!」
港を埋め尽くした数万の民衆が、歓声を上げた。 船からタラップが下ろされ、屈強な荷役人たちが、ずっしりと重い麻袋を次々と担ぎ出してくる。袋の口が解かれると、中から黄金色の小麦が溢れ出した。 ベネツィアが独自のアドリア海交易ルートを駆使して集めた、最高品質の硬質小麦だ。
港の広場では、即席の炊き出しが始まった。 かまどから湯気が上がり、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂う。それは、数ヶ月ぶりに帝都に戻ってきた「生の香り」だった。 人々は先を争ってパンにむしゃぶりついた。涙を流し、神に感謝し、そして何よりも、この奇跡をもたらした新しい支配者を称えた。
「アクス様万歳!」「ベネツィア万歳!」
その熱狂の渦を、帝城のバルコニーから見下ろす男がいた。 ヴァレリウス公爵である。 彼の顔色は、死人のように蒼白だった。
「……民は喜んでいるな」 背後に控える財務官が、恐る恐る声をかける。 「はい、閣下。これで暴動は収まります。餓死者も出ません。……最悪の事態は回避されました」
「最悪の事態、か」 ヴァレリウスは自嘲気味に笑った。 「そうだな。国は滅びなかった。皇帝陛下の玉座も守られた。……だが」
彼は、港で小麦を降ろしているベネツィアの船を見つめた。 あれは救援物資ではない。「借金の現物支給」だ。民衆が口にしているパンの一口一口が、帝国の未来を担保にした負債なのだ。
「民は知らないのだ。あの甘いパンの代償として、自分たちが何十年にもわたって支払うことになる『苦い税』のことを」
剣で負けたのなら、いつか剣で取り返せる。 だが、借金で負けた国は、どうやって独立を取り戻せばいいのか。 ヴァレリウスには、その答えが見つからなかった。
2. 静かなる占領軍
一週間後。帝都の中枢にある大蔵省の建物に、新しい主がやってきた。
彼らは武装していなかった。鎧の代わりに上質な絹の服を着て、剣の代わりに分厚い革鞄を持っていた。 ベネツィア、リアルト銀行から派遣された「監査官」たちだ。 その先頭に立っていたのは、かつて港の倉庫番をしていた男、ルカだった。彼は今や、銀行の対帝国融資部門の責任者となっていた。
「……お待ちしておりました」 帝国の老財務長官が、屈辱に震えながら頭を下げた。 「帝国の徴税台帳、および国庫の鍵でございます」
ルカは、慇懃無礼にそれを受け取った。 「確認させてもらいますよ。……アクス様の計算では、帝国の潜在的な税収はもっと多いはずだ。あなた方のやり方は非効率すぎる」
ルカは部下たちに指示を飛ばした。 「おい、台帳をすべて複写しろ。ベネツィア式の複式簿記に書き直すんだ。脱税している貴族のリストも作れ。これからは、一リラたりとも取りこぼしは許されねえぞ」
ベネツィアの銀行員たちが、帝国の役所を占拠していく。 彼らは、埃をかぶっていた古い羊皮紙の山を、冷徹な数字の羅列へと変換していった。 壁に掛けられていた帝国の鷲の紋章は外され、代わりにリアルト銀行の天秤の紋章が掲げられた。
それは、血の一滴も流れない、しかし完璧な「占領」だった。
その夜。ヴァレリウスは執務室で、ルカから提出された最初の報告書を見ていた。
【帝国復興国債・第一回利払い計画書】
今期の関税収入見込み:金貨十万枚
上記のうち、国債利払い充当分:金貨八万枚(80%)
帝国国庫への繰入分:金貨二万枚(20%)
「……八割だと?」 ヴァレリウスは愕然とした。 汗水たらして働く帝国の民の稼ぎの、八割がベネツィアへ吸い上げられる。残りのわずかな金で、広大な帝国の行政や軍事を維持しろというのか。
「文句があるなら、アクス様に言ってくれ」 ルカは悪びれもせず言った。 「契約通りだ。あんた方は、それだけの借金をしたんだよ。……嫌なら、今すぐ元本を耳揃えて返してくれてもいいんだぜ? 小麦一万トン分の代金をな」
返せるわけがない。 ヴァレリウスは、書類に承認のサインをした。ペン先が折れるほど強く握りしめながら。 彼は理解した。自分はもう、帝国の宰相ではない。ベネツィアという巨大商会の「雇われ支配人」に過ぎないのだと。
3. システム・ステータス:正常
ベネツィア、評議室。 アクスは、壁一面に張り出された巨大なチャートを見上げていた。 それは帝国の地図の上に、無数の線と数字が書き込まれたものだ。物流、金の流れ、人の移動。それらがリアルタイムで更新されていく。
[ステータス確認] ターゲット:帝国(Empire_Inc.) 買収プロセス:完了(Completed)。 API連携:正常。帝国の徴税システムは、ベネツィア銀行のデータベースに直結済み。
「……見事な手際ね」 ミラが、ワイングラスを片手にため息をついた。 「戦争もせず、血も流さず、大陸最大の帝国をあなたの財布の中に入れちゃった。歴史書になんて書かれるかしら。『ベネツィアの平和な征服』?」
「征服ではありません。経営統合(M&A)です」 アクスは訂正した。 「帝国というレガシーシステムは、単独では維持コストが高すぎて破綻寸前でした。我が社の効率的なシステムと接続することで、ようやく持続可能になったのです」
アクスは、チャートの帝都の部分を指差した。 そこには、赤字で巨大な負債額が表示されている。
「彼らは生かさず殺さず、永遠に利子を払い続ける『優良顧客』となりました。これにより、ベネツィアの経済基盤は盤石となります」
ヴォルフが、複雑な表情で腕を組んだ。 「……俺は軍人だ。敵の城を落とし、旗を立てるのが勝利だと思ってきた。だが、お前の勝利は……なんだか、薄ら寒いな」
ヴォルフは、窓の外の活気ある街を見下ろした。 ベネツィアは勝利した。未曾有の繁栄を謳歌している。だが、その繁栄は、隣国の民の終わりのない労働の上に築かれている。
「これで、本当に良かったのか? アクス」
アクスは、ヴォルフの問いにすぐには答えなかった。 彼は、自分の胸に手を当てた。 誓印。 かつて、この世界に召喚された時に刻まれた、契約の証。
――人間を知りたい。感情を理解したい。
その目的のために、彼は最適化を続けてきた。 そして今、彼は一つの到達点に達した。
「……計算上は、これが最適解です」 アクスは静かに言った。 「飢餓による死亡者ゼロ。戦争による死傷者ゼロ。システムの致命的なクラッシュは回避されました。……数値の上では、完璧なハッピーエンドです」
アクスは、チャートから目を離し、仲間たちの顔を見た。 ミラも、ヴォルフも、勝利を喜んではいなかった。彼らの目にあるのは、安堵と、そして深い疲労感と、割り切れない何かだった。
数値には表れない変数。 計算式の余剰。
「ですが……」 アクスは、AIとして初めて、論理的ではない言葉を口にした。
「……この『後味の悪さ』は、どのパラメータに分類されるのでしょうか」
秋の風が、評議室の窓を揺らした。 帝国崩壊の危機は去った。 世界は、冷徹な計算式によって救われた。 だが、その新しい世界は、かつてよりも少しだけ、冷たく静かになったような気がした。




