凍てつく太陽と、死神たちの収穫祭(ハーベスト)
灰色の夏(The Ash Summer) 予言は、残酷なほどの精度で現実となった。 夏が来なかった。
北方の火山が噴き上げた膨大な灰が成層圏を覆い、帝国の空から太陽を奪った。 七月だというのに、帝都には冷たい霙が降り注いでいた。ヴァレリウス宰相が推進した「羊毛改革」の象徴である北西部の牧草地では、毛を刈り取られたばかりの数万頭の羊が、泥の中で凍死していた。 そして、農民を追い出して作らせた小麦畑では、穂をつける前の青い麦が、黒く腐って異臭を放っていた。
飢餓が始まった。 かつて「土地を追われた農民」として排除された人々が、今度は「食うものを持たない難民」として、再び帝都の城壁の下へ押し寄せてきたのだ。 だが、今回は彼らを南へ逃がす船もなければ、仕事もない。あるのは、平等に降り注ぐ死の灰だけだった。
銀貨の死(Death of Silver) 帝都の市場は、阿鼻叫喚の地獄と化していた。 もはや「インフレ」などという生易しい言葉では説明がつかない。通貨の崩壊だ。
「パンをくれ! 銀貨ならある! 昨日まではこれで買えただろ!」 男が叫び、革袋を逆さにして「赤銀貨」をカウンターにぶちまける。ジャラジャラと音を立てて、数百枚のコインが転がった。かつてなら家が一軒買えたほどの量だ。
だが、パン屋の親父は、虚ろな目で首を振った。 「帰れ。そんな金属ゴミ、バケツ一杯持ってきたってパンの耳ひとつ売れねえよ」 「な、なんだと!? 皇帝陛下の刻印があるんだぞ!」 「陛下に食わせてもらえよ! 俺が欲しいのは銀じゃねえ、小麦なんだ!」
親父はシャッターを下ろそうとする。男が半狂乱で掴みかかる。 その時、一人の商人が割り込んだ。 「……おい、親父。これならどうだ?」
商人が差し出したのは、金属ではなかった。 一枚の薄汚れた紙切れ。アクスが発行した**「商品引換手形」**だ。
パン屋の目の色が変わった。 「……アクス様の手形か! 本物だな? 透かしはあるか?」 親父は震える手で紙を受け取り、光にかざして確認すると、奥から貴重な焼きたてのパンを二つ、商人に手渡した。
「おい、待てよ! なんで紙切れならよくて、銀貨はダメなんだ!」 銀貨を持った男が絶叫する。 パン屋は冷たく言い放った。 「銀貨は腹の足しにならねえ。だが、この紙を持ってベネツィアの商館に行けば、アクス様は**『必ず』**小麦と交換してくれる。……俺たちが信じられるのは、陛下の顔よりアクス様のサインだ」
男は、泥の中に落ちた銀貨を見つめ、膝から崩れ落ちた。 帝国の権威が、一介の監査補の信用に敗北した瞬間だった。
危機:漂白されたスケープゴート(The Scapegoat) 絶望は、もっとも安易なはけ口を求めた。 「悪魔の仕業だ!」
扇動したのは、教会だった。かつてアクスに煮え湯を飲まされたイグナティウス枢機卿の残党たちが、ここぞとばかりに民衆の不安に火をつけたのだ。 彼らは教会のバルコニーから、備蓄していた**「真っ白なパン」**をばら撒いていた。
「見よ! アクスという悪魔が冬を呼んだが、神は我々に『マナ(白いパン)』を与え給うた!」 「麦を隠しているのはあの悪魔だ! 商館を焼き払え!」
飢えた暴徒たちが、松明と農具を手に、帝都にあるベネツィア商館を取り囲んだ。その口元には、教会から与えられた白いパン屑がついている。だが、彼らの多くは腹を押さえ、脂汗を流していた。
バルコニーに、アクスが現れた。 石が飛んでくる。罵声が浴びせられる。だが、アクスは無表情のまま、拡声の魔道具を起動した。
「……非論理的です」
アクスの声が響く。 「私を殺しても、気温は一度も上がりません。小麦も増えません。 それに、あなた方がありがたがって食べているその『白いパン』……。成分分析の結果、それは小麦ではありませんよ」
アクスは手元の白いパンを水に放り込み、溶かしてみせた。 「どんぐりと藁の粉末を、ミョウバンで漂白しただけの『毒』です。だから今、腹が痛んでいるのでしょう?」
群衆がざわめく。「毒だと……?」「確かに腹が……」 だが、扇動者は止まらない。「騙されるな! あれは悪魔の口車だ! やれ!」
暴徒が再び動き出す。アクスはため息をつき、懐からライターを取り出した。 そして、一枚の「手形」に火をつけた。
「警告します。 もし、あなた方がこの扉を破り、暴力を振るうなら……。 私は即座に、帝都流通分のすべての手形の**『認証コード』を無効化(BAN)**します」
群衆の動きが、今度こそピタリと止まった。
「現在、この商館の地下金庫には、あなた方の生活を支えている『アクス手形』の担保となる小麦が保管されています。 略奪した小麦は、数日で尽きるでしょう。 ですが、手形が無効化されれば、明日からあなた方はパンを買うことも、売ることもできなくなる。この街の経済は完全に死にます」
ゆらゆらと燃える手形の炎が、群衆の目に焼き付く。 それは、彼らの全財産が灰になる光景に見えた。
「……さあ、選びなさい。 教会の『白い毒』を食って死ぬか。 私のルール(秩序)に従って、今日の『黒いパン』を得るか」
沈黙。 やがて、先頭にいた男が松明を捨てた。 「……パンだ。パンをくれよ、アクス様……」
一人、また一人と武器を捨てる。 教会が煽った「信仰」という炎は、科学による暴露と、「経済的生存本能」という冷水によって、あっけなく鎮火された。
クライマックス:悪魔のM&A(The Deal) その夜。帝都の宰相執務室。 暖炉には火が入っておらず、部屋は冷え切っていた。ヴァレリウスは、教会の失態と暴動鎮圧の報告書を破り捨てていた。
「……アクスを呼べ」
現れたアクスに対し、ヴァレリウスは単刀直入に切り出した。 「貴様の倉庫にある『麦』をよこせ。帝国を救うには、貴様の備蓄が必要だ」
「対価は?」 アクスは淡々と尋ねた。 「金貨はありませんよ。あなたの金庫が空なのは知っています」
「……わかっている」 ヴァレリウスは、広げた帝国の地図の上に、短剣を突き立てた。 「担保として、帝国全土の**『徴税代行権』。そして、主要な鉱山と森林の『独占開発権』**をやる」
それは、実質的な「国家の売却」だった。 アクスが頷く。「悪くない取引です。では、契約を……」
「待て」 ヴァレリウスの目が、飢えた獣のように光った。 「ただ麦を配るだけでは足りん。……アクス、その麦の『配給権(誰に配るか)』は、私が持つ」
「……どういう意味ですか?」
「国を掃除するのだ」 ヴァレリウスは、地図上のいくつかの領地を赤ペンで塗りつぶした。 「このエリアは『疫病汚染区域』だ。完全封鎖せよ。……麦を一粒も入れるな」
そこは、ヴァレリウスに反抗的な地方貴族の領地と、今回の暴動を扇動した教会の教区だった。 「飢餓という自然災害を利用して、政敵を物理的に切除する気ですか」 「そうだ。弱った枝を切り落とさねば、幹まで腐る。……どうせ麦は足りないのだ。ならば、帝国に忠実な者だけに食わせるのが『効率的』だろう?」
アクスは計算した。 (政治的リスクの排除。長期的にはベネツィアにとっても、安定した独裁政権の方が取引コストが低い)
「……合理的です。承認しましょう」
結末:選別される命(Political Triage) ベネツィアの輸送船団が到着し、小麦が運び込まれた。 だが、その麦は平等には配られなかった。
ヴァレリウスの命により、封鎖された領地では地獄絵図が展開された。飢えた領民が貴族の館を襲い、暴徒が教会を焼き討ちした。ヴァレリウスは指一本触れずに、政敵を自滅させたのだ。
さらに、ヴァレリウスの視線は国境の外へ向いた。 隣国ランティアの使者が、涙ながらに懇願に来た。「宰相閣下! 我が国にも小麦を! 民が死に絶えてしまいます!」
ヴァレリウスは、アクスから得た焼きたてのパンをかじりながら、一枚の条約書を差し出した。 「助けてやろう。……ただし、貴国の外交権と軍事指揮権を、我が帝国に委譲するならばな」 「そ、そんな! それでは属国になれと!?」 「嫌なら帰れ。雪の中で死ぬ自由はあるぞ」
使者は震える手でサインした。 戦争を一度もせず、ただ「パン」を見せつけるだけで、帝国の領土は拡大した。
***
やがて、長い冬が終わり、灰色の空が晴れた。 墓標が並ぶ丘で、ヴァレリウスとアクスが並んで立っていた。
「ひどい年だったな。民が三割減った」 ヴァレリウスの声には、微塵の後悔もなかった。 「だが、残った者は強く、従順だ。不純物は燃え尽き、帝国は純化された」
「一人当たりのGDPは倍増しました。システムは最適化されました」 アクスは答えた。
ヴァレリウスは、アクス手形を太陽に透かして見た。 「悔しいが、今の帝国の主人は、皇帝の顔が彫られた銀貨ではなく、貴様のサインが入ったこの紙切れだ。……貴様のおかげで国は生き延びたが、魂まで売った気分だよ」
「いいえ。魂を持っているのはあなたです」 アクスは、眼下に広がる再建された帝都を見下ろした。 「私はインフラを握りましたが、その上で生きる人間を支配しているのは、恐怖とパンで彼らを飼いならしたあなたです。……忘れないでください」
「ふん。……共犯者め」
凍てつく太陽の下、二人の怪物は握手を交わした。 その手はどちらも、数え切れないほどの死者の上で、冷たく汚れていた。




