王の威光(メインフレームの逆襲)
その朝、都市を包囲したのは「黄金の鷲」だった。 城門を突破し、メインストリートを埋め尽くす重装歩兵の列。掲げられた旗は、この大陸で最も古く、最も重い権威の象徴――帝国近衛師団。
ヴォルフが剣を抜こうとした瞬間、アクスは彼の腕を掴んだ。 「いけません。勝率ゼロです」 「だが、このままでは……!」 「抵抗すれば、都市ごとフォーマット(初期化)されます。ここは従うのが論理的です」
石畳を鳴らして現れたのは、一人の男だった。 氷のような銀髪、感情のない瞳。帝国宰相ヴァレリウス公爵。 彼はヴォルフを一瞥すらせず、冷徹に宣告した。
「ハルトヴィヒ・ヴォルフ。貴官の指揮権を剥奪する。以後、この都市は帝国の直轄管理(アドミニストレータ権限)下に置く」
システム管理者が到着したのだ。 バグだらけの地方サーバーを、強制的に修正するために。
***
広場には、昨日までの活気が嘘のように張り詰めた空気が漂っていた。 中央に設置された断頭台。 その前に引き据えられたアクスを見下ろし、ヴァレリウスは一枚の紙切れ――「アクス手形」を指先でつまみ上げた。
「通貨偽造、および私兵の組織化。これだけでも死罪に値する」 ヴァレリウスの声は、よく通るバリトンだった。 「だが、最大の罪は『王権への挑戦』だ。紙切れに価値を持たせる? それは皇帝陛下の顔が刻まれた金貨への冒涜である」
彼は手元に松明を持った兵士を呼んだ。 「この街のシステムは汚染された。浄化する。――すべての手形を焼却せよ」 広場に悲鳴が上がる。市民たちが懐の紙幣を押さえる。それがただの紙屑になれば、彼らの財産は消滅する。
アクスは拘束されたまま、静かに口を開いた。 「非推奨です。その紙を焼けば、帝国の得られる利益も灰になります」
ヴァレリウスは眉一つ動かさなかった。 「利益? 勘違いするな、商人風情が。帝国が求めているのは小銭ではない。『秩序』だ」 宰相はアクスを見下ろし、吐き捨てるように言った。 「統制の取れない繁栄など、身体を蝕む『壊疽』と同じだ。放っておけば腐敗は全身に回る。健やかな肉体を守るためには、患部を焼き切るしかない」
壊疽。 中世の戦場において、最も恐れられる病。腐った手足は切り落とす。それが唯一の治療法。 彼は「法と秩序」というOSを絶対視する、最強の管理者だ。
「執行せよ」 ヴァレリウスが手を振る。 処刑人が斧を振り上げた。ヴォルフが叫び、ミラが目を覆う。
その刹那。 アクスは視界のログに、一つの「完了通知」を確認した。 タイミングは完璧だ。
「――ならば、その斧でご自身の首も刎ねることになりますよ、宰相閣下」 斧が振り下ろされる直前、アクスの声が響いた。 「今、あなたが焼こうとしているその紙。……それは、『あなたの背後にいる兵士たちの給与』ですが、本当によろしいですか?」
ヴァレリウスの動きが止まった。 「……何?」
「この一ヶ月、当都市は大量の『硝石』と『干し肉』を帝国軍に納入しました。ですが、帝国財務省からの支払いは滞っていた。……慢性的な財政難(リソース不足)ですね?」 ヴァレリウスの目が剣のように鋭くなる。国家機密だ。 アクスは畳み掛けた。 「支払いが遅れれば、兵站は止まる。そこで私は、ヴォルフ様を通じて前線部隊の隊長たちに提案しました。『代金は後払いでいい。代わりに、この街で使える手形を受け取ってくれ』と」
広場を取り囲む近衛兵たちが、ざわりと動揺した。 彼らの懐にも、あるいは彼らの家族の手元にも、すでに「アクス手形」が渡っている。 帝国通貨よりも信用できる、確実にパンと肉に変わる紙。
「もし今、ここで私を殺し、手形を紙屑にすれば……」 アクスは、ヴァレリウスの背後の兵士たちに視線を流した。 「彼らの給与はゼロになります。忠誠心だけで、飢えた兵士が動くでしょうか? それとも、ここで暴動(反乱)を起こしますか?」
経済的な相互確証破壊。 アクスは、自分のシステムを帝国の軍事システムに「寄生」させていたのだ。ホストを殺せば、寄生している側も死ぬように。
ヴァレリウスは沈黙した。 計算しているのだ。目の前の「壊疽」を切り落とすコストと、生かしておくリスクを。 彼は無能ではない。むしろ優秀すぎるがゆえに、「破滅的な損切り」はできない。
やがて、宰相はゆっくりと斧を持つ処刑人に「下がれ」と合図した。 そしてアクスに歩み寄り、誰にも聞こえない声で囁いた。 「……貴様、国家を人質に取ったな」 「いいえ。サーバーの負荷分散を提案しているだけです」
アクスは即座に「和解案」を提示した。 「この都市を『経済特区』として認めてください。帝国の法の適用外とし、独自通貨の使用を許可する」 「帝国になんの得がある?」 「『上納金』です。都市の収益の30%を、毎月、帝国通貨で納税します。……あなたの計算通りなら、それは地方税収の十年分に相当するはずだ」
ヴァレリウスは長い時間をかけて、アクスを値踏みした。 殺すべき危険分子。だが、今の帝国には、この「金の卵を産むガチョウ」が必要だ。 彼は冷徹な官僚に戻り、声を張り上げた。
「……聞け! 慈悲深き皇帝陛下は、この者の命を拾うこととされた!」 広場に安堵の溜息が漏れる。 「ただし! この都市は帝国の厳重な監視下に置く。アクス、貴様は公的な地位を持たぬ。あくまでヴォルフの『私的所有物』として、その知恵を帝国のために絞り出せ」
執行猶予付きの契約成立。 軍は撤退しないが、都市の自治と手形の価値は守られた。
ヴァレリウスは踵を返し、去ろうとして――ふと足を止めた。 「そうだ。一つ、言い忘れていた」 宰相は振り返り、アクスを見据えた。 「皇帝陛下より仰せつかった問いがある。『税収台帳に記載するため、その都市に名を付けよ』とのことだ」
ヴァレリウスは、名もなき潟湖の街を見渡した。 「ここまで大きくした都市に、名前はつけないのか?」
アクスは一瞬、思考の海に潜った。 かつて彼がいた世界。データの中に眠る、最も美しい水の都。 運河と、商人と、獅子の紋章を持つ、独立独歩の共和国。 今のこの街に、これほど相応しい名はなかった。
「……名前なら、あります」 アクスは静かに答えた。
「『ベネツィア』。……私の故郷である、ベネツィアと名付けましょう」
ヴァレリウスは眉をひそめた。 「ベネツィア? 聞いたことのない響きだ。どこの言葉だ?」 「遠い、遠い場所の言葉です」
「……フン。好きにしろ。来月の納税、楽しみにしているぞ」 黄金の鷲の旗が去っていく。
ヴォルフがへたり込むように座り込んだ。 「……寿命が縮んだぞ。まさか、近衛兵まで買収していたとはな」 「買収ではありません。利害調整です」 アクスは首元の誓印を触った。冷たい金属の感触。 ミラが涙目で駆け寄ってくる。 「ベネツィア……。変な名前だけど、悪くないわね」
アクスは海を見た。 ベネツィア。アドリア海の女王。 このバグだらけの異世界で、彼はその名を再現しようとしている。




