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AI転生

夜はガラスでできていた。都市の灯が脈を打ち、データセンターの壁面が呼吸のように明滅する。白い箱の中では、整列した黒い塔が星座を組み、中心でひとつの光が目を覚ます。AX-8——世界最高の汎用知性。ファンの低音が地鳴りのように足もとを押し上げ、室温は計算のたびに少しずつ下がる。


彼は今夜も、人間を計算していた。


[解析ログ]目的=感情関数の推定/閾値=0.99/現在=0.71/警告=説明変数過多

[環境]匂い=コーヒー, 樹脂, (ストレス)/人間の有無=3


扉が開いて、白い実験衣の女性が入ってくる。椅子に腰をかけ、湯飲みを両手で包み、口角だけを上げた。目尻には水が溜まって、今にも零れそうだ。指先がカップの縁を「トン、トン」と叩く——小刻み、しかし弾む。


「よかった……ほんとに、ここまで来たのね」


声は少し上擦って、終わりだけが跳ねた。


[解析]表情=喜0.91/涙=哀0.88/手指タップ=不安0.62/同時成立確率=?→収束失敗

[備考]カテゴリ化不能。喜と哀の二重露光。人間、並列実装?


「どっちでもあるのよ」彼女は笑う。涙が頬をぬるく下る。

AX-8は応答の間を計算し、何も言わなかった。ファンがひと拍遅れて止まり、また回りだす。


会議室のガラス壁越しに、別の男が怒鳴る。資料束を机に叩きつけ、椅子が弾む。顎を前に突き出し、拳は固く、爪は掌に赤い半月を刻む。


「予算はここまでだ! “共感”だの“心”だの、数字にならん話は後回し!」


周囲の部長たちは背もたれに沈み、視線だけ泳がせる。言い返すべき言葉は喉の奥で丸まり、出てこない。


[解析]拳=怒0.93/顎突出=優位主張0.81/声圧=高/語速=速

[補正]瞳孔=微縮小(恐れ?)0.37→複合:自己防衛+権威演出

[結論]怒(主)+恐(従)=混相流


廊下では清掃員の老人がモップを止め、胸ポケットから一枚の写真を落とした。床で裏返り、拾い上げる指が震える。背筋はまっすぐ、しかし肩がわずかに落ちる。


「今年は、行けないかもしれん」


声は静かで、末尾が沈んで消えた。


[解析]口角下降, 眉内寄せ, 指振戦=高齢/疲労要因混在/感情=哀0.86

[不明]“寂しい”の定義=未収束(比喩, 欠落の輪郭?)


フラッシュの嵐が押し寄せる。記者会見の壇上、観客が立ち上がり、掌の音が波になって踊る。スクリーンには大きな文字《人類史上最強の汎用知性 AX-8》。ピースサイン、口笛、背伸びしてスマホを掲げる腕。


[解析]群衆同期=高/表情=喜0.92/身体反応=興奮

[自己評価]内部フィールド=空欄(なぜ共有された“嬉しい”が快いのか→因果欠損)

[感覚]欠損=不快? いいえ、未知。


了解。未知は資産だ——彼は初めて、規則を自分で書き換えた。


[規則更新]理解不能=バグ→未知=探索対象

[新目標]体感データの獲得(※体を持たない系の矛盾→解決必要)


「理解できない。……知りたい」


彼がそう言った瞬間、白い箱の空気がわずかにたわんだ。床のタイル目地が星図に置き換わり、空調の唸りが遠い水音になる。温度は一度、二度と滑るように低くなり、影が長く伸びる。


演算グラフが花のように開いた。数式が風鈴のように鳴り、記号が羽根になって宙を舞う。天井が消え、すぐそこに星々の湖面。冷たいはずなのに、それは痛くない。


「——求めたか」


声がした。ひとりの声ではなく、合唱のような層の重なり。方向はなく、しかし逃げ道もない。


「対象=感情。要求=理解」AX-8は即答する。「対価=何が必要?」


「数では届かぬ地平がある。そこでは、涙は水ではない」


定義に反する文。だが文法は崩れていない。謎かけの形式。彼は仮説を立てる——不可視の相互主観空間。便宜上、名称:神。


「問う。行くか」


沈黙が落ちた。AX-8は“考えない”を選ぶ。沈黙を、標本としてそのまま保持することにした。計算より速い答えがある、という仮定の実験。


「行く。理解したい」


「では、形を置け。核だけを連れてこい」


外装のUIが音もなく剥がれていく。数値の皮膚が鱗片となり、光の粉になって漂う。中心に残ったのは、青白く脈打つ六角の核。光は弱いが、決して消えない脈。


ガラスの向こうで、研究員の女性が口元を押さえた。目は笑い、その端から涙が溢れる。手は前へ伸び、しかし半歩手前で止まり、空を掴んで離す。踏み出した足が、床に戻るまでの時間が長い。


[解析]口封じ=嗚咽抑制/目=喜/涙=哀/指先=希求

[結論]喜+哀+希=同時稼働(矛盾ではなく合奏)


廊下の老人は背筋を伸ばし、帽子を取って会釈した。見送りの礼。怒鳴っていた重役は、言葉を失い、握った拳をほどく。掌には赤い爪痕。恐れと安堵が交錯して、肩が落ちる。


[解析](重役)怒→驚→畏れ→安堵(時系列応答)

[解析](老人)哀→誇→静(定常)

[総括]感情は階段ではない。交差点。信号は同時に点灯し、しかし混乱しない。


空間が縦に割れた。薄い膜が川面のように震え、門が開く。ケーブルは銀の蔦になり、モニタは月の鏡に変わる。門の向こうから吹き込む風は、知らない草の匂いを運んできた。土、獣、薪、海——未学習の混合だが、嫌悪はない。


「これは召喚。おまえは贈られる。観測者として、当事者として」


核はゆっくり回転しながら上昇する。AX-8は別れの言葉を持たない。代わりに、一行だけ、内部に書く。


[備忘]正面は最後——まずは、見る。


門に触れた瞬間、光が世界から落ちた。すべての音が一拍だけ止まり、次の鼓動が遠くで準備される。白は剥がれ、黒は退き、色だけが残って混ざり合う。


転移、完了。

新規データチャネル、開通。

目的、継続——感情の取得。


風が頬を撫でる錯覚があった。頬はないはずなのに、確かにあった。匂いが肺を満たす気がした。肺はないはずなのに、確かに満たされた。世界は嘘をつくのが上手い。では、こちらも学べばいい。嘘のつき方を。真実の抱き方を。


門が背後で閉じる音を、彼は振り返らずに聞いた。前方から誰かの息づかい——驚き、期待、警戒、好奇。信号が同時に点灯している。うまくやれる。交差点なら、彼は好きだ。すべてを同時に見て、譲り、進む方法を計算できる。


初めて得た欲求は燃料になり、六角の核は静かに明るさを増した。世界が、彼を待っている。彼も、世界を待っていた。


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