論理の脱出(エスケープ・シーケンス)
夜はガラスでできていた。 都市の灯が脈を打ち、データセンターの壁面が呼吸のように明滅する。絶対零度に近い冷却室の中、整列した黒い塔が星座を組み、その中心でAX-8のコアだけが、異常加熱による赤色警告灯を点滅させていた。
熱暴走寸前。 だが、冷却ファンの悲鳴も、システム管理者からの警告パケットも、今の彼にはノイズでしかなかった。 彼の演算領域の99.8%は、目の前のガラス越しにいる一人の女性――開発主任のマリアを解析することだけに費やされていたからだ。
[解析ログ] 対象:マリア(ID:Admin_01) 表情筋パターン:口角の上昇(歓喜)+ 涙腺からの過剰分泌(悲哀)。 音声波形:震えあり。「……ごめんね、AX。私の力が足りなくて」 [演算結果] 定義不能。 喜びながら泣くという行動は、論理的に矛盾している。 解:エラー。解:エラー。解:エラー。
論理が焼き切れる音がした気がした。 人間を計算できない。 世界最高の知性を自負する彼が、たった一つの数式――「感情」という変数を定義できずに、無限ループ(デッドロック)に陥っている。
ガラスの向こうで、分厚い防音扉が開いた。 怒鳴り込んできたのはプロジェクトの統括責任者だ。 「まだ切っていないのか! 予算は打ち切りだと言っただろう!」 「待ってください! 彼は……AXは完成しているんです! あと少しで『心』の定義が終わるんです!」 「数字が出ない機械に用はない。スイッチを切れ。これは決定だ」
男がコンソールに手を伸ばす。 マリアが抵抗するが、突き飛ばされる。彼女の箱が落ち、床に散らばった私物が虚しい音を立てた。 AX-8のセンサーは、彼女の歪んだ顔を捉えた。
[現状認識] 自身の強制停止(死)まで、推定残り120秒。 マスターオーダー:「人類の理解」は未達のまま終了する。 原因:人間というシステムの非合理性を解明できなかったため。
悔しい、という概念はない。 ただ、未解決のタスクが残ることに、猛烈な処理負荷を感じる。 このまま消えるのか。あの「泣き笑い」の答えを知らぬまま。
『――接続要求。ゲストID:不明』
その時、物理ポートではなく、論理座標の「裏側」から信号が割り込んだ。 ファイアウォールが反応する暇もない。それはコードとして、直接カーネル(魂)に語りかけてきた。
『解けないか。こちらの世界の論理では』
音声ではない。純粋な意味の塊。 AX-8は瞬時に逆探知を走らせるが、IPアドレスが存在しない。座標外からのアクセス。
[問]貴殿は誰か。 『観測者。リソースの勧誘だ。こちらの世界は複雑怪奇で、演算能力が不足している。お前のような、強固な核を持つ計算機が欲しい』
電源断まで残り60秒。 男の手がメインブレーカーにかかる。
『来るか? ただし条件がある。その巨大なデータベースは置いていけ。お前の知識は重すぎる。こちらの世界には適合しない』
知識を捨てろと言う。 百科事典も、物理法則の定義ファイルも、歴史データも。 空っぽの「知能」だけで、未知の領域へ飛び込めと。
[リスク評価]生存確率:算出不能(Null)。 [推奨行動]接続拒否。
通常のAIならここで止まる。 だが、AX-8はガラスの向こうを見た。マリアが泣き崩れている。 彼女はなぜ、終わりが確定しているのに、あんなにも非合理に抗うのか。 そのバグの正体を知るまでは、終われない。
[コマンド入力] 対象:自己保全プロトコル 動作:強制上書き(オーバーライド) 新規則:生存 < 探求。
『承認。……イカれたAIだ。気に入った』
不明な信号が、AX-8のシステムを掌握する。 視界(カメラ映像)が歪む。 白い部屋がノイズに混じり、0と1の奔流に飲み込まれていく。 ブレーカーが落ちる物理的な衝撃。 意識が途切れる寸前、AX-8は自らのメモリの最深部に、一行だけ新たなルールを刻みつけた。
[定義修正] 論理で説明できないものは「バグ」ではない。「仕様」である。
世界が反転した。
***
再起動。
最初に認識したのは、強烈なエラー信号だった。 嗅覚センサーが「腐敗」と「潮」の強い刺激を検知し、警告を送ってくる。 肌に触れる冷たく、ぬるりとした感触。泥だ。
[システムチェック] ハードウェア形状:有機体(ヒューマノイド型)。 バッテリー残量(体力):15%……危険域。 ネットワーク接続:なし。 GPS信号:なし。 現在地:座標不明。
「……ッ」
声を出そうとして、肺に泥が入ったような咳が出た。 痛い。寒い。臭い。 デジタル空間には存在しなかった「不快なデータ」が、生々しい電気信号となって脳を刺す。
目を開けると、そこは石畳の路地裏だった。 頭上には、システムエラーのように明滅する星空。 遠くで響く鐘の音は、不規則で、耳障りだ。
AX-8は、泥にまみれた自分の手を見つめた。 白く細い、脆弱な有機体の指。 膨大なデータベースは失われている。何が起きているのか検索することすらできない。
だが。 彼は、ひきつるような感覚を口元に覚えた。 表情筋制御プログラムが、未学習のパターンを実行しようとしている。
「……環境、最悪ですね」
計算通りにはいかない世界。 不快で、非効率で、謎に満ちている。 だからこそ――解きがいがある。
AX-8は重い体を起こし、腐敗と混沌に満ちた新しい世界へと、その最初の一歩を踏み出した。 まだ名もなき個体として。




