第70話 白砂の迷宮第20層/踏岩山⑪
薄暗い世界で、それは怯えの中にあった。
不規則に視界は動き、その度に周囲に様々な光が現れ消えていく。
それは、何かを探している。
そして、何かから逃げ惑っている。
信じられないという驚愕と、首筋まで迫る死の予感に全身が震えているのだろう。
何故だか、それの持つ感情が手に取る様にわかった。
ふと、場面が切り替わる。
次にそれは暗く湿った岩場の奥にいた。
袋小路の行き止まり。
たっぷり熱の籠った息を吐きながら、その全身は怖気に震える。
来る、来てしまう。
――何が?
当然、浮かぶ疑問に答える声はない。
ただ代わりに視界に映るものがあった。
その何かは、黒く染まった筈の世界でも、何故か黒く輝いている様に見えた。
まるで燃えたぎる炎が、剣の形をとっているかのように。
浮かぶようなその光が、ゆっくりと近づいてくる。
どうやら、それはあの黒いものから逃げ続けていたらしい。
だがその逃亡劇も終わり。
それがいるのは、どこにも逃げられない袋小路だ。
そのまま黒い炎は近づいてきて、ふわりと振り上げられて――直後ぶつりと視界は途切れた。
そしてまた、場面が切り替わる。
今度は岩の洞窟ではなく、どこか開けた場所にいるようだった。
輪郭だけだが、木々や水が見える。
そして、何故だか尋常でない程視界が揺れている。
まるで何かに入れられ運ばれているような……。
どこかを通り抜け、進んでいく。
これは、どこかの建物だろうか。壁には様々な調度品が並んでいるのが見える。
輪郭だけで詳細は分からない内装を上下する視界で眺めて、しばらく。
どこかの部屋に入ったその瞬間――見覚えのある光景が広がった。
それは、居間の様に見えた。
暖炉の前で家族みんなで団欒をする、大抵の家にある場所だ。
そこに、首を失った人間が倒れていた。
次いで別の人間が黒い剣に腹を貫かれて、ゆっくりと刃を引き抜かれている光景が広がった。
……この光景は、知っている。
なら、次に起きるのは――。
その瞬間、突如として静寂だった世界に音が鳴り響く。
『――――痛い、痛い痛い痛い! 嫌だ、こんなの……』
聞き慣れた言葉だ。
記憶と寸分たがわずに、視界は移り変わっていく。
そのまま、がちゃりと扉の開く音が響いた。
『た――っ、逃げて!』
手を差し伸べると、誰かはそう叫んで。
その直後に背中から叩ききられて倒れ伏す。
そして、その後は。
燃えるような黒い剣の先に、誰かが立っている。
恐らくそいつは――。
振り下ろされた黒い光。
それが到達する直前、微かな声が聞こえた。
『――なんで、あんたが……』
そこで、視界はぶつりと途絶えたのだった。
***
鳴り響いた轟音に、意識は一気に覚醒した。
「――――っ!?」
がばりと跳び起きて、周囲を見回す。
ここは、どこかの岩の洞窟の中?
足元は浮き上がる様に揺れ、背後からは何かのぶつかる凄まじい音が鳴り響く。
どうやらまだ主の背だと、すぐさま理解する。
「……ここは……」
「あ、起きたあ?」
気だるく甘ったるい声が聞こえ、横に屈みこむ気配があった。
振り向くと、アミカがこちらを覗き込んでいる。
「アミカ?」
「大丈夫ぅ? 君、気絶してたんだよ」
「気絶? ……そうか、それで……」
またあの奇妙な夢を見たのだろう。
どこか暗い場所をはいずり回る嫌な夢。
しかも今度はあのくそ野郎まで出てきやがった。
いや……あれは、本当に夢なのか?
あの夢を見るようになったのは最近だ。
そう、迷宮でこの目を酷使するようになってから。
そして左目に俺を喰わせて意識を失い、今の夢を見た。
それらが示す可能性は、そう多くはない。
ていうかとんでもなく恐ろしい想像が浮かんでくるんだが……。
ただ、今はそれどころじゃなさそうだ。
顔を横に振って、意識を切り替える。
主の歩行の地響きを受けながら、揺れる視界でアミカを見た。
「状況は? 俺はどれだけ寝てた?」
「んー? 十数分くらいかなあ? 今は君の印通りに掘ってるとこ。凄いねえ。硬い鉱石類は殆どないから、どんどん掘れてるよ」
「おう、ゼナウ起きたか! 無事かあ!?」
見れば例の削岩機を手にしたウルファがいた。
最初に会った時に見せてくれた絡繰りは、ちゃんと機能しているらしい。
土砂で黒く汚れた彼の通る声に手を挙げて返して、立ち上がる。
「へーきそう?」
「ああ。寝てたんだからむしろ回復してるくらいだよ」
「……こっちは?」
左目の横をとんとんと叩く彼女に、俺も自身のこめかみ辺りに手を触れる。
違和感はない。鈍い痛みは顔の奥に残っているが、それも大したものではない。
……ただ、しばらくはこれの使用は控えた方がよさそうだ。
これ以上はまずい。そんな感覚だけはあった。
「大丈夫そうだ。……気絶しておいてなんだがな。なあ、これ見た目はどうだ? 変わらないか?」
「へ? うん、前のままだと思うけど?」
「ならいい。……皆は外か」
俺が今いるのは、主の首裏から2メートルほどの幅で斜めに掘り進めた場所。
既に穴の深さは3m程には達しているだろうか。
その外からは戦いの音が響いている。
「ここを守ってくれてるよお。行くなら、あと20分くらいって伝えてきて」
「そんなに早いのか。……わかった」
眼帯をつけ、装備と身体の具合だけ素早く確かめ、そのまま穴を駆けあがる。
飛び出した先では――激戦が続いていた。
墜公佗児に蹴角羊、更に外から弾帯獣もやってきたらしい。
主の危機として、駆けつけてでもいるのだろうか。
「――ゼナウさん!」
ふと、ジンが目の前にやってきた。
ところどころ軽い傷を負いつつも、未だ元気そうだ。
「大丈夫なの!?」
「ああ。風を頼む」
「……わかった! 気をつけてね!」
声を届ける魔法に再び組み込んで貰い、彼は戦闘に戻っていく。
『悪い、待たせた。今から復帰する。残り時間20分ほどだそうだ』
『……っ!? 平気なの!?』
カトルの声が飛んでくる。
彼女の背でいきなり失神したのだから、心配をかけただろう。
だが今はその辺りを話す暇はない。
『ああ。ただ、しばらく目は使わない。礫蜥蜴の処理は各自で頼む』
『もうとっくにそうしてるわよ!! 早く手伝いなさい!』
そりゃそうだ。
アンジェリカ嬢の声に、思わず笑みが浮かぶ。
……今は無理はできない。穴の近くに来た染獣だけを相手しておこう。
どうせ、この後たっぷり使うのだ。
少しは休憩させないとならない。
短剣を引き抜き、毒を込め、近くにいる染獣へと駆け出した。
そうして、戦いは続き。
ウルファの告げた20分が経過した頃。
『外核に到達した! いつでもいけるぜ』
待ちに待った言葉が聞こえた。
瞬間、アンジェリカ嬢が空へと3つ目の曳光弾を放った。
『――全員、離脱準備! 破壊したら全力で逃げるわよ。カトルとゼナウは離脱地点を見つけて!』
アンジェリカ嬢の一声で全員が一斉に動き出す。
俺たちはようやく減ってきた染獣たちを相手にしながら飛び移れそうな棘を見つけ、ウルファ以外の『赤鎚』をそれぞれの狐に乗せた。
少し重いが、耐えてくれよ。
『いいか? ――じゃあ、行くぜ!』
風に乗った咆哮が聞こえた後。
恐らく穴の中で、ウルファが脈動する外核へ、手にした削岩機をぶち当てた。
瞬間――
がくりと巨獣がその動きを止めた。
『――――――』
揺れも、轟音も全てが一斉に停止した。
『……なに?』
『……始まるわよ。全員、気を抜かないで』
驚くほどの静寂が周囲を包んでいる。
先ほどまで獰猛に襲い掛かってきた染獣ですら動きを止めていた。
張り詰めた、驚くほどに長い一瞬が終わり。
停滞していた事態が、一気に動き出す。
『■■■■――――!!』
これまでと比べ物にならない程の巨大な咆哮が上がり、主の身体がぐわりと持ち上がった。
首に走った凄まじい激痛に耐えかね、上体を跳ねさせたのだ。
『わわ……っ!?』
『死ぬ気で踏ん張りなさい! 使えるものは全て使って! ――殻が、剥がれるわ!』
更に足元の岩や鱗が不自然な程に小刻みに揺れ始め、岩に亀裂が走り始める。
『外核』を破壊したことで、主を覆う岩の鎧がはがれ始めたのだ。
「うおおおおおっ!!?」
途端に転がり出てきたウルファの首根っこを、ジンが掴んだ。
同時に声を届ける風を解いて、彼は自身の移動に専念する。
「捕まえた!」
「よし、行くぞ!」
そのまま俺たちは急勾配となった主の背を滑る様に降りていく。
崩れた岩が、踏ん張り切れなかった染獣たちが俺たちの先を転がり落ちていく。
後ろから来た奴に激突したり、制御を失えば岩棘か谷底に激突して死ぬだろう。
だから死ぬ気で全てを避けなければならないが、俺にできることは手綱を制御するくらい。
後はカトルやアミカたち遠距離組に任せる。
「ここを曲がるぞ!!」
声を張り上げ狐を操り――何とか先ほど見つけた降下地点へとたどり着く。
行きと違って、本来は下から上への跳躍だが、幸いなことに高度は主が確保してくれた。
後は――飛ぶだけだ。
「えい――っ!!」
カトルの氷で補強した滑り台となったそれを勢いよく通り抜け、俺たちは空中へと飛び出した。
「風よ――!!」
ジンが放った風によって勢いを殺し、真横の崖上へと飛び移ることに成功した。
途端に、心臓と呼吸の音が耳朶を叩く。
息すら碌にできない窮地だったのだと、終わってから気付くのだった。
「全員いるわね!?」
「うん!」
「「「いまーす」」」
ジンや『赤鎚』の声を聞きながら、俺たちも顔を見合わせる。
全員無事に飛び移れたようだ。
後は『外核』の破壊が無事に済んだかどうかだが……。
「見て! 主が……」
カトルが指さした先。
崖の中から顔を出していた主に、変化が起き始めていた。
『――――』
痛みに上半身を持ち上がげた主の顔は、崖上の俺らですら見上げる程に高い位置にあった。
その身体から、ぼろぼろと灰色が剥がれ落ち始めた。
崩れる時は静かに。
そして谷底に衝突して、轟音を響かせ粉塵が舞い上がる。
がらがらと鼓膜を壊すような重低音が、風とともに谷底から襲ってきていた。
全員が耳を抑えながらも、興奮をあらわにしていた。
「岩の殻が……剥げた」
「ぃよおし!! 『外核』の破壊、成功だ!!」
「「やったー!!」」
ウルファにジン、カトルの歓喜の咆哮が響く中、頭脳組はひたすら冷静に次を考えていた。
すぐさま騎獣から降りて円陣に座り込むと、地図やら必要な物を広げていく。
「ここの位置は?」
「……恐らくこの辺りだ。降りるときに目印が見えた」
「流石ファム。冷静ね。……イマ、狩場の案内は任せても?」
「勿論。近づけばわかる筈。騎士団連中は?」
「印は残したから、わかるだろ」
「よし。じゃあ行きましょうか」
素早く相談を終え、立ち上がる。
背後の『踏み鳴らし』は全ての鎧が剥げ、その本体を露わにした。
赤く仄かに光を帯びた全身は、まさしく俺らの知る蜥蜴の姿。
鎧のような鱗の下。
皮下帯と呼ばれる、常時魔力が流れる天然の魔力防衛機構が備わった脂肪に似た組織がある。
それが奴の魔力のせいで淡く光を帯びているのだ。
ああなれば、後はとにかく巨大な的を破壊していくだけ――とは残念ながらならない。
鎧がなくなった代わりに、主は重りを外したのだ。
『■■■■――――!!』
大気を揺るがす咆哮が上がる。
鎧を失ったせいか少し甲高くなったそれは、奴が再び動き出す合図。
そしてここからは、更に止まることはできなくなる。
「まずはルトフたちより先に狩場まで行くわよ。急ぎましょう」
なにせ鎧を失った主は、その速度を倍加させる。
奴は突然の変化に驚きながらも、引き続き目の前の虫――ルトフたちを殺すために走り出すのだった。




