第138話 白砂の迷宮第35層/大海の巣㉑
こうして、『大海』討伐のためにやる事が決まった。
本来の予定通りに、俺たちのボートに小蟹を乗せて『大海』まで運ぶ。
後は向こうの反応次第……出たところ勝負になる。
「じゃあ皆、後は任せた」
「うん、気を付けて!」
ジンたちに見送られながら、塔の外側に浮かべたボートが水面を滑るように進み出す。
まずはウィックたちが慣れるための試運転。その間に、2隻の船は可能な限り塔から離れてもらう。
互いの準備が済んだら、作戦開始だ。
「……静かだね」
「そうだな」
先頭に立つ蟹のすぐ後ろ、俺とカトルが座って周囲を眺めている。
蟹も人もいなくなった塔周辺は、驚くほどに音がない。
自然と聞こえるのは揺れる水面が塔にぶつかる音くらい。今も、ボートの進む音だけが緩やかに辺りに響いている。
「じゃあ旋回するよ、ルトフさん」
「了解。風は一定で帆を動かす……中々どうして、難しいものだね」
「そうそう、いい感じ! 塔に沿って進むんで、ぶつかりそうな時とか、微調整はお二人に任せます」
「ええ。その調子で、指示でも違和感でも何でも遠慮なく言ってね。船長はあなたよ」
「うす! でも、ホントに静かですねー」
高く伸びた細い柱につけられた、細長い帆にルトフが風を当てていく。帆と舵はルトフとウィックの担当だ。
細かい向き調整や移動用にとアンジェリカ嬢と鉄塊が櫂を操り、その度にたぷたぷと心地良い水音が聞こえる。
今までを想えば、ありえない程の穏やかな静寂だ。
「これから主と戦うってのが信じられないですよ」
「今は静かでも、直ぐにやかましくなるわよ」
「……また嵐が起きるだろうな」
「嵐かー。高波は慣れてるけど、このボートで大丈夫かな……痛って!」
船体を叩いて、想像以上に硬かったのか、痛みに手を振るウイックにアンジェリカ嬢が笑う。
「迷宮産の船は頑丈でしょ? そんじょそこらの嵐じゃ崩れないから安心なさい」
「そうみたいですね……でも、ひっくり返ったら?」
「そうさせないのがあなたの仕事。気張りなさい」
「はーい……」
戦闘時は俺が案内をして、ウィックたちが船を操ることになる。
正直初めての海上戦闘。しかも足場はこの小さなボートのみだ。
不安は大きい。
船での戦いもそうだし、俺の身体――左目についても。
――目覚めてから初めて使ったが、問題はなさそうだ。
左目は今までと同じように機能している。
海は仄かに光を帯びて美しく、空に浮かんだ『大海』はここからでも光って見える。
眩しくはないが、圧倒的な力を感じる。
これは……『踏み鳴らし』に感じた恐れに近い。
これまで戦ってきた主たちの中でも規格外の怪物。あの『大海』は、その内の1つなのだろう。
「ゼナウ、身体は平気? ……その、左手とか」
「ああ、問題ないよ」
実際、現時点では問題は感じない。
ただ、肩から左手にかけて、体表に何かが燻る感覚がある。
力を注ぎ込めば、またあのもやが使える……そんな確信がある。
できれば使いたくはないけどな。
視力と時止め。その2つでなんとかなる相手であることを祈ろう。
「……よし、こんなものでいいかな」
そうして、しばらくのお試し航海が続いて。
風と帆の扱いに慣れたらしいルトフが、ウィックと互いに頷いて口を開いた。
「アンジェリカ嬢、準備完了だよ」
「了解よ。ファム、合図をお願い」
その言葉を受けて、鉄塊が曳光弾を打ち上げた。
しばらく待つと、遠くからも打ち上がる。
これで互いの準備が完了した。
「じゃあ、入りますよー!」
試運転がてらゆっくりと進めていたボートが、速度を落として回頭。するりと塔の間へと入る。
――『大海』を動かすために、どこに小蟹を連れて行くべきか。
その問題は、この一連の出来事が『儀式』であると分かった瞬間に解決した。
『大海』が小蟹を――生贄を求めてやって来るなら、あの珠があった塔の中心部一択だろう。
今は水没しているから、とりあえず上まで持っていく。
駄目なら底まで降りてもらう。その時は面倒だが、戻ってシュクガル老たちにお願いするつもりだ。
ゆっくりと進む船の上、空を眺めていたら手に冷たいものが触れた。
見れば、カトルが手を握ってきている。
少しだけ震えているように見えたその手を、しっかりと握り返した。
「いよいよだね……今度は、一緒に戦える」
「……ああ、そうだな。勝とう」
「うん……!!」
短いそのやり取りで俺の心も少し落ち着いた。
どうやら未だ緊張していたらしい。
あれだけの死闘をした後だってのにな。それだけ、目に映る怪物が凄まじいということなのだろう。
「――皆、いい?」
ふっと笑って左手の具合を確かめていると、アンジェリカ嬢の声が聞こえる。
「最終確認よ。私たちの目的は、あれの核を手に入れること。だから決して破壊しないように」
「……それが難しいよね。見る限り、相手は水だ。そもそも攻撃がまともに通るのかい?」
「その点は大丈夫。私たちにはカトルがいるもの」
「うん、任せて……!!」
カトルが胸を叩いてそう言った。
「たっぷり休んで、魔力も充分! 核以外を頑張って凍らせるから、核はお願いね」
「……頼もしいね」
若干引き気味の笑みを浮かべているルトフに気づかずに、カトルは興奮気味に頷いている。
やる気の発露なのか、身体からは氷の魔力が発せられ、少し肌寒いくらいまで周囲が冷える。
それはカトルの氷のおかげもあるが、そもそもこの一帯が冷涼な気候に変わりつつあった。
あれほど暑かった砂漠は、いつの間にか満たされ水によって心地よい気候にまで変わっていたのだ。
天候も、気候すら変える怪物。
世界を滅ぼすには充分な力なのだろう……が、こっちのカトルも負けてはいない。
「カトルであの『大海』を凍らせる。それが、私たちの勝つ方法よ」
いくら奴が流動する水の集合体でも、凍らせて固めてしまえば、攻撃は通る筈。
そうして核の周辺を固めてからぶっ壊せば、奴の身体から核を剥がして手に入れることができるだろう。
つまり俺たちの勝利条件は、カトルの力をあの『大海』に届かせることなのだ。
俺の目も、小蟹も、この船も。
全てはそのために使う。
皆の期待を一身に背負ったカトルは、それでも笑みを浮かべる。
「家族にも怖がられた、私の力。それがこんなにも皆の役に立ててとっても嬉しい。それに……」
空に浮かぶ巨影を睨みつけるようにして、カトルは告げる。
「あの染獣は、私が必ず倒してみせる」
「その調子よ。……あなたの力を、存分に見せつけてやりなさい」
力強くそう呟いて、アンジェリカ嬢が微笑む。
「あなたや私の【迷素遺伝】に、ファムの【獣憑き】。あの王子には汚れたものと言われた力で、私たちはこの国を助ける。……再び立ち上がる時、私はそう決めたの」
自分の右手を掲げて光に透かすようにして。
もう迷ってはいない瞳で、カトルと鉄塊を順に見つめ――最後に俺を見た。
「でも、この35層に到達し、未知の『大海』を討伐するには……最後の1人がどうしても見つからなかった。迷宮を素早く、安全に進むことができ、何より『大海』を探せる手段を持つ者――それが、ゼナウ、あなただった」
「……結局、見つけたのは俺じゃなかったけどな」
それを成したのはカスバルにセリィ、あとついでにナスルだ。
アンジェリカ嬢たちも含めて、全部この国の人間たちが、自分たちの力で辿りついた結果。
何なら俺は、ゼェルを呼び寄せて更なる問題を起こした気さえするが……。
「何を言ってるの。ここまでたどり着けたのは間違いなくあなたのおかげよ。正直、期待以上の働きだったわ。報酬、期待してなさい」
「もう、充分すぎるくらい貰ってるが……」
ほとんど使う暇もないが、ちゃんと金銭的な報酬も貰っている。
正直そう言った常識すらも抜け落ちているが、きっと、カトルと2人でのんびり諸外国を回れるくらいはあるだろう。
「駄目。ちゃんと考えておきなさい。次期国王のお墨付きよ?」
「……了解。楽しみにしておくよ」
「他の皆も一緒よ。私たちは、皆で勝って、皆で幸せになるの。これは、そういう戦い」
だから、勝ちましょう。
アンジェリカ嬢の言葉に、皆が深く頷きを返した。
勝って生き延びる。
そう、心を一つにして。
船はゆっくりと目的の場所へとたどり着く。
「……そろそろだ」
ウィックの声がするのと同時。
『――――!!』
かたりと、目の前の蟹が動き出した。
繰り返していた上下運動が止まり、突如として両の爪を振り上げる。
ふと、その周囲に青い光が瞬いた気がして。
左目に映る空の光塊が、ずるりと動き始めた。
「……波の音がする」
カトルの呟きの通り。
空の巨影が、身動ぎをしてこちらを見る。
水が寄せては返さず、ざあざあとした音が空から鳴り響く。
流動する巨大な怒涛。
獣の形をした水の怪物。その顔がこちらへと向いた、そんな気がした。
「動いた」
「小蟹に気づいたか。やはり、推測は間違ってなかった様だね……っ!?」
ルトフの言葉が途中で途切れる。
船が大きく揺れたのだ。
皆が必死に船に捕まる中、ウィックの悲鳴が響く。
「なんだ!? いきなり波が出たぞ……!!」
「波どころか……あれ!!」
アンジェリカ嬢が指さした先。
海に、巨大な渦が生まれていた。
それは海を巻き上げ、空に昇る水柱と化している。
巻き上げられた水は吹き始めた風に流され、叩きつける雨となる。
渦に吸われた海面が持ち上がり、崩れた海面が荒々しく上下し始めた。
「上から下から……!! 凄いな。動いただけでこれかよ……!!」
たった一瞬の合間に、この変貌。
まだ奴は何もしていない。目覚めただけだぞ。
それでこれとは……今までは本当に、のんびりと眠っていただけらしい。
もし奴が本格的に暴れ始めたら、一体どうなるってんだ。
だが――。
「……大丈夫。私が、凍らせる」
奴がそのまま蟹を喰いに降りてきたら、カトルの餌食だ。
気づかれないようにと、なるべく表面に出さないように魔力を巡らせたカトルが、今か今かと待ち構える。
『――――』
蟹が呼び、それに応える様に『大海』が降りてくる。
恐ろしくはあるが、同時にその美しさに思わず見惚れてしまう。
――現れた時は碌に観察できなかったが……すげえな。馬鹿でかい硝子が動いてるみたいだ……。
青く流れる水の怪物。
呑み込まれたら最期の、獣の姿をした水の巨塊が、音もなく空を歩いてやって来る。
カトルの手が届くまで、あと少し――。
「ルトフさん、竜巻の風を防げる!? 駄目なら帆を仕舞って! このままじゃ流される!」
「……なんとかやってみよう!」
上下に揺れる船体をウィックたちが必死に抑える中、ゆっくりとこちらへと近づいてくる。
その体躯は、およそ10mを超えているだろうか。
耳のない狼のような獣。
当然目も存在はせず、ただ流れ続ける水が、不思議な模様を形作る。
目も耳もないってのに、奴は確実に蟹を感知している。
船の先端部に立つ生贄――小蟹を喰おうとして。
水で形作られた美しいその獣が、大きく口を開いて――ぴたりと、動きを止めた。
「……おい、何で止まる?」
奴がいるのは俺らの3mは上空。
カトルの手は、どう頑張っても届きそうにない。
「どうして……? 気付かれたってこと?」
「分からない。ただ、僕らが見えてるのなら、怪しんでも不思議じゃない」
『――――』
小蟹が再び両爪を振りあげる。
自分はここだと示すようなその動きに、しかし『大海』は反応しない。
ただただ、こちらを見つめるようにして空中に佇んでいた。
風雨と波音が、どんどんと勢いと音色を増している。
飛ばされまいとなんとか耐える船の上。
アンジェリカ嬢の溜息が聞こえた。
「……流石に、そう簡単には倒されてくれないってことかしら」
溜息とともにそう言った、その直後。
奴の、『大海』の頭部が割れ、巨大な顎が開かれた。
『――――■■■■■■■■』
強烈に流れる水の身体の――その奥。
彼方から、押し寄せる怒涛が聞こえてくる。
「うわっ!?」
大気が揺れ、周囲の水が荒れ狂う。
跳ね上がった波にかちあげられるようにして船体が浮いて、直後飛沫を上げて着水する。
横殴りの波に顔が濡れ、強烈な塩辛さが舌を焼く。
「……っ」
慌てて水を吐き出しながら、空を睨む。
奴の身体。その内包する光が、強さを増している。
どうやったかは知らないが、奴は俺らを――敵の存在を感知した!
「力を溜めてる! 戦う気だぞ!」
「……結局、こうなるか!」
ルトフが魔力を放って、周囲を風が包んでいく。
雨音に紛れ始めていた声が、はっきりと耳元に伝わった。
『ウィック、ここからは君が頼りだ。思ったことは全て叫べ! 僕が伝える!』
『――分かった!』
『奴の攻撃手段は、恐らく水の砲撃。後は前肢とか尻尾とか……その辺りだろ! まずは、全力で逃げるぞ!』
『おう! 兄ちゃん、案内任せたよ!』
水と風の轟音が響き始める中、空の『大海』は湿った咆哮を響かせる。
それに呼応するように、周囲の水が大きく震える。
豪雨に豪風。その全てを伴って。
捧げられた贄を受け取るために。
まずは邪魔者を消し飛ばそうと、世界を滅ぼした怪物が今度こそ降りてくる。
『来るわよ。全員、できる限りをやりなさい! 勝つわよ……!!』
『――おう!』
周囲から水柱が迫り、叩きつける風雨が視界を塞ぐ。
その向こうから、『大海』が船へと突貫を始めた。
俺らが海の藻屑となるか、奴を凍らせて核を奪うか。
この国を救うための最後の戦いが、幕を開けるのだった。




