第136話 白砂の迷宮第35層/大海の巣⑲
それから少しの時が立ち。
俺たちは塔の天辺、その直ぐ横に停泊した船の前にいた。
「止んだなあ」
「そうだな」
水面は塔の天辺ギリギリまで上がり、そこで停止した。
同時に雨も上がり、今は曇天が空を覆っているのみである。
そんな、いくらか明るくなった空の下。
急遽岩床に埋め込まれた杭によって緩く係留された船を、ウルファと並んで眺めている。
「まさか、迷宮に船が浮かぶとは……」
「信じらんないよなぁ、これ」
目の前に浮かぶ船は2隻。
どちらも木造の小型船で、全長はともに10m程度。
船としては小さいが、迷宮にあるにしてはあまりにも大きい人工物。
「こんなもんどうやって運んだんだ……?」
「運ぶ用の荷車があんだよ。オレらもたまに絡繰り用で借りるぜ。船ごと騎獣舎に置いてあったらしいから、騎獣たちに運んでもらったんだろ」
「ああ、確かに騎獣ならいけるのか」
あそこには牛たち力持ちの連中がいるから重たい船でも問題ないのだろう。
……いや、そういうことではなく。
「そもそもなんで船があるんだよ。ここ、迷宮だぞ?」
「ははっ、そりゃそう思うよな」
笑い声をあげながら、ウルファが船を叩いた。
迷宮産の素材で作られた木の船体は、とんでもなく硬く存在感がある。
「シュクガル様たち――迷書殿の船らしいぜ。ほら、ここの迷宮って1層から水洞窟が広がってるだろ? あそこの調査用に作ったのが置いてあったらしい」
「……そういえば潜ったとか言ってたな、あの爺さん」
あの階層は一気に駆け抜けたせいであまり記憶がないんだが、確か女王鱗魚鬼のいた水面なんかはかなりの広さがあった筈。深さはそれ以上だっただろう。
そこを潜って調べるなら、確かに船が要る……のか?
だからって船まで作るか普通?
相変わらず迷宮の調査となると凄まじい執念だよな、あの爺さんたち……。
「で、今回はそれが丁度いいってんで持ってきたらしい。まあー昇降機はいいとして、どうやってここまで運んだのかは、オレも分かんねえけどな……」
「そうだな……」
そんな疑問は浮かびつつ、準備の手は止めていない。
今はクリムたち騎士団組主導で駱駝君の中や下階にあった荷を積みこみながら、船上と船室に臨時拠点を移設中。
来る『作戦』に向けて、『赤鎚』を中心に急ぎ装備やらの点検や整備が行われていた。
俺も、ウルファに頼まれて荷運びの最中である。
「ボートの方はどうだ?」
「オレとアミカで改良中。そっちも直ぐにできるから安心しな」
作戦準備の中で、特に船に積まれていた小型ボートの改良が最優先で進められている。
ルトフたちと急ぎ立てた作戦において、最も重要な物になる。
準備は順調に進んでいる。うんうんと頷いていると、ウルファがぼやくように言った。
「でもよ、お前らの立てた作戦。あんなんでできるもんかね」
「ん?」
「相当な無茶になるぜ? 船は持たすが……大丈夫か?」
船とともにやってきた諸々のおかげで、ようやく打つ手が見えてきた。
だから立てた作戦だが、正直賭けでしかない。
なにせあんなこと、誰もやったことがないんだから。
ただ――。
「やるしかないさ。どうせ他に案もないしな」
「『踏み鳴らし』の時といい、加速装置といい……ホント無茶苦茶やるよな、お前ら」
「だよな。俺らもそう思うよ」
26層でやった落下での階層飛び越しとか、今思い出しても正気の沙汰ではない。
とにかく速度最優先で駆け抜けてきたが、本当に、良く生きてたどり着いたもんだと我ながら思う。
「まあ、それも全部お前らのおかげだよ。だから無茶ができる」
「そりゃなにより」
ふっと笑ったウルファの視線が、俺の身体を上から下に眺める。
「身体は大丈夫そうだな」
「ああ。武器も持ってきてもらえたし、なんとかなるさ」
あれから左目もおかしなことはしてないし、不安だった装備もセリィたちが持ってきてくれた。
数打ちの代物だが、今は十分。
むしろ、もしまたあのもやを使うなら、消耗品の方がいいだろうしな。
俺の言葉に、ウルファも納得したように頷いた。
「そうか。流石にオレらは邪魔になるから、ここで帰りを待つよ。勝って来いよ、ゼナウ」
「ああ」
拳を打ち合わせて、頷きあう。
これで「さあ出発だ!」なんて、できればいいんだが。
「……まあ、全部あっちが終わったらな」
そう言って振り返った先。
そこでは――。
「――で? 言い訳はそれで終わりかしら?」
「……はい、すみませんでした……」
次期国王筆頭の新王子・ジンに加えて、迷書殿の2名に、民間上がりの探索者一行――ウィックたちまでもが岩床に座らされ、アンジェリカ嬢に問い詰められていた。
「なんだか、凄いことになっちまったな、色々と……」
「本当にな……」
どうしてこんな訳の分からない事態になったのか。
話は、少し前に遡る。
***
『――ちょっと、ジン!? なんであなたがここに来てるの!?』
『アン姉さん! 助けに来たよー!』
セリィが船や物資とともに連れてきた『援軍』。
その人員はあろうことか、大半が俺たちの関係者であった。
人数は全部で11名。
セリィにジンの王族2名に、迷書殿の2人。
そしてウィックたち民間上がり一行4名と、後は俺の知らない3人――支部に詰めていた蒼角騎士団の騎士が2名に、もう1人はたまたま支部にいた探索者らしい。
そんな彼らが援軍の第1陣である。
当然後続の支援部隊は準備されているが、急ぎの援軍としては、ひとまずこの11名が駆けつけてくれたというわけだ。
その説明を、接岸した船から降りたセリィから聞き終えて。
アンジェリカ嬢は、ゆっくりと頷いてから問いかける。
「それで? どうしてこの人員構成になったのかしら。詳しく、教えてもらえる? ……特に、ジンに関して」
「ええっと……」
目の前で困った笑みを浮かべるセリィと、ルトフたちに嬉々として物資の説明をしているジンを順に見て、アンジェリカ嬢は頭を抱えながらそう言った。
援軍自体はありがたいのだが、その選定には大いに疑問がある。
なにせ王子に民間上がり。どう見ても連れてきてはいけない候補筆頭ではないか。
セリィ自身もそれが良く分かっているのだろう。
必死に言葉を選びながら、何が起きたのかを説明してくれた。
――『大海』が呼び出され、塔に水が満ち始めたあの時。
セリィはルトフの要請に応じ、クルルと小蟹とともにこの閉鎖空間の外へと飛び出した。
穴から飛び出たそこは、35層の昇降機の直ぐ前だったそうだ。
それはつまり、ルトフの願いを小蟹が正しく聞き届けたことになるんだが……そこは今は置いておく。
ともかく、そのことに気づいたセリィはすぐさま地上に帰還し、この塔での出来事を支部に報告。
王族であり、なおかつ砂漠にいた筈なのにずぶ濡れ、しかもクルルと小蟹だけを連れて駆け込んできた彼女の言葉を受け、『大海の染獣』の実在を認定。
すぐさま緊急の人員派遣が決まった。
だが行き先は深奥層、しかも戦場だ。
そんな場所に生半可な人材を送り込むわけにはいかない。
派遣するには実力と経験と――なにより知識が要ると判断された。
なにせセリィによってもたらされた報告は、全てが未知の事柄だった。
35層の更に奥に存在した秘密の空間。そしてそこで行われた、染獣たちによる『主』の召喚。そして、厳重だった警備をあっさりと通り抜けた湖畔の国からの侵入者の襲撃。
ワハルの迷宮に詳しい筈の支部の人間ですら「嘘でしょ?」と首を傾げる事の連続だった。
そんな未知の危険地帯に救援に行ける人員なんて限られている。
深奥層でも問題なく戦え、長年迷宮に潜っただけではなく対人戦にも経験があり、なにより未知の迷宮に対応できる程の知識がある人材。
そんな希少な人員が……運よく、たまたま、その場に居合わせていた。
そう、シュクガル老だ。
『――その救援、儂らが行こう。こいつらも連れて、の』
突如として名乗りを上げたシュクガル老が、船員としてウィックたちを引き連れて、意気揚々と乗り込んできたというわけである。
「……いや、なんでそこでウィックたちが出てくんだよ」
「そうね。連れてくるには危険だと思うけど」
「ああ、それはね――」
今度はぱっと明るくなった表情で、セリィは続ける。
彼らが『共に騎士たちに締め出された』縁で意気投合したから、というだけではなく。
どうやらそこには――ウィックが元漁師であることが大きく影響したらしい。
「あら。彼、船が扱えたの?」
「うん。しかも荒れた遠洋で海獣を仕留めてたってことで、船を任すにはいいだろう、となったんだ」
少し誇らしげに、セリィはそう言った。
また一緒に探索できて嬉しいのだろう。それにしては、大分危険な区域だけどな……。
ただ、それでもウィックが選ばれたのは仕方なかったのだろう。
どうやら状況的に船が必須。だが船を操れる探索者なんて稀有な人材もまた、不足していたのである。
支部に詰めていた騎士団も海に関する技術はない。
貴族などの上流階級出身者が多い探索者たちはなおさらだ。そこに、まさかの元漁師がいたのだから、支部長も納得せざるを得なかったそうだ。……ホントか?
更に「他にも雑用係がいる! こいつらは仲間だから連携もとりやすい!」と強く主張するシュクガル老に流されるまま、ウィックたち全員の参加も決まったそうだ。
……後半は大分暴論な気もするし、雑用係なら騎士を使えよと思うが、ともかく時間が最優先と押し切ったそうだ。訳が分からない。
アンジェリカ嬢も頭を抱える角度がどんどんと深くなっていた。
深く息を吐き出しながら、なるほどねと口を開く。
「一応、本当に一応だけれど、理屈はあるわけね。……それで? あれはどうして?」
「……えっとぉ……」
そして、援軍の最後の1人。
アンジェリカ嬢が激怒している要因、ジン王子である。
「ジン君は……気付いたら乗り込んでて……」
「はぁ?」
「物資を用意してもらってる間、アタシ、少しだけ寝ちゃって……。それで、起きて騎獣舎に置いてある船に行ったら……もう、ジン君がいて。お爺ちゃんとすっかり仲良くなってて……」
「……あの、馬鹿……」
一番来てはいけないジン王子は――まさかの本人自ら乗り込んできたのだそうだ。
当然ながら、この『大海の染獣』討伐が開始されてからジンの配下も常に支部に詰めていた。
そこにセリィが戻ってきたのだから、報告を受けたジンは大慌てで――政務を放り捨ててやってきた。
そして、セリィの報告から『船とそれを操る人材』が必要なことを聞きつけたジンの行動は素早かった。
騎士団や支部に的確な処理を命令し、後続の支援部隊を編成しつつ、自分はちゃっかり先遣隊に入り込んで、皆が気付く前に出発してやってきたのだ。
爺さんたちと共謀して船を素早く確保し、可能な限りの物資を詰め込み。
小蟹の導きの下、こうして素早く救援に駆け付けた――というわけである。
対応としては最高の動きで、実際俺たちはそれに救われた。
ただ1点、ジン自らその船に乗っているという点を除いて……。
「い、以上、です……」
「そう、ありがとう」
そうして、後半は震えていたセリィの話が終わり。
満面の笑みを浮かべたアンジェリカ嬢が、首を傾げた。
彼女は近くにいたジンを手招きして呼び寄せた。
……嫌な予感がする。俺は離れておこう。
「あ、アン姉さん。話、終わった?」
「ええ……でも、結局どうしてあなたが乗っているか、納得のいく説明がなかったのよ。だから教えてくれる? あなたはどうしてこの船に乗っているのかしら?」
「どうしてって、そりゃあ――」
身体が震える様な怒気を孕んだ声でそう問いかけるアンジェリカ嬢に、一切気が付いていないジンは変わらずの笑みで、答えた。
「――迷宮で帆船を操るなら、風魔法使いが要るでしょ? そこで俺の出番ってわけ!」
「……あ゛あ゛?」
その迂闊な答えが、決定的だった。
案の定、その言葉を聞いた瞬間に、アンジェリカ嬢の斧が岩床に叩きつけられた。
塔と水面が揺れ、慌ただしく作業を進めていた全員の動きが、一瞬停止した。
「あ、アン姉さん……?」
「……これから国を背負って立つ人間が、何を嬉々として戦場にやって来ている!」
「ひぇ……っ」
咆哮と言っていい怒声が響き渡る。
その顔が、すぐさま周囲へと向く。
「そしてそれを止めなかった馬鹿ども! ――お前ら全員……並んで座れ!」
……こうして、恐ろしい尋問と説教が始まったのだった。
時間にして数分程度だが、圧倒的な密度の恐怖が奴らには襲い掛かっていることだろう。
何かあるたびに斧頭が地面に叩きつけられ、塔と水面が揺れる。
最初こそ皆驚いていたが、今となってはもう慣れたもの。無視して作業を進めていた。
「アンジェリカ様、皆のおかげでここまで早く駆け付けられたんです。そこまでにしてもらえればと……」
「そうじゃそうじゃ! ニスリン嬢の言う通りじゃ! そもそも儂らの船を貸してやったんじゃぞ。じゃから――」
「黙らっしゃい! これはジンの、王としての自覚の問題です! ジン、あなたも黙ってないで何か言いなさい! もっとマシなことを!」
「……ごめんなさい……だって、心配だったから……」
「……子どもかぁ!」
……そんな、間抜けな問答が続けられつつも、ちゃんと情報共有は進んでいた。
アンジェリカ嬢もここで説教を長々とするつもりはなく、ジンの迂闊な発言に激怒する前に、お互いの情報は交換済み。
俺やルトフたちで協力して作戦を立てて、全員の了承を得た。
後はそれを実行するのみである。
その鍵となるのは……今は船の上にいるだろう小蟹と、そこで正座させられている王様一行なのであった。
……大丈夫かな、この作戦……。
***
その頃、浮かぶ船の上。
海側の柵に寄りかかってぼおっとする少女が1人。
すぐ横で小蟹が柵越しの水面を覗き込んで上下するのを微笑ましく見つめていた彼女の下に、やって来る影が3つ。
「……セリィ」
「あ、カスバル。クルルに……あなたがヤクルね?」
「――――!!」
「わ、ホント見た目はそっくりなんだ。でも体毛の色は違うんだね……って、あははっ。ちょっと、くすぐったいよ」
屈んでクルルともう1匹の相棒――ヤクルを撫でていたセリィが、のんびり歩いてきたカスバルを見上げた。
「見つかったんだね、ヤクル。ふふっ、やんちゃさんだな君はー!」
「ああ……まさか、『海』の中にいたとは思わなかった。どおりで、見つからないわけだ」
そう呟いたカスバルが、積まれた木箱に腰かける。
迫る2体の毛皮に埋もれつつあるセリィはその言葉に首を傾げた。
「海の中?」
「ああ。そこの蟹があれを呼んだ瞬間から、ヤクルの気配が一気に強まってな。多分、城塞握砂蟹に紛れてこの塔にやってきて、前の召喚の時にでも、巻き込まれたのかもしれん」
「……?」
明らかに分かっていない顔のセリィに、カスバルがふっと笑う。
口笛を吹いて呼んだヤクルの背を撫でながら、彼は「そうだな……」と思案しながら口を開く。
「ヤクルは……クルルもだが、こいつらは魔力を喰って生きる。普段は俺から供給されてるんだが、ヤクルは俺と逸れただろ? だから代わりに巨大な魔力を持つ存在、例えば主とかに寄生して魔力を吸ってたんだろう」
「それが最初は城塞握砂蟹で、その後ここで『大海の染獣』に移ったってことか、なるほど……?」
よくわからないけれど、よくわかったとセリィは無理やり納得するのだった。
そんな彼女を見つめながら、カスバルは問う。
「お前は? 平気か?」
「……うん。もう落ち着いた」
兄である第三王子との再会は思っていたよりもあっけないものだった。
地上から援軍を連れてきたセリィは、兄の生還を知らされても直ぐには会いにいかなかった。
皆への説明と物資の受け渡しなどの作業――自分の責務をあくまで優先したのだ。
……本当は、少しだけ覚悟を決める時間が欲しかっただけなのだけれど。
そうして落ち着き、覚悟も決めて。
つい先ほど、ようやく船内で治療中の兄に会いに行ったのだが……。
『……ニスリン様、第三王子は、その……』
『わかってる。ちゃんと全部聞いたよ。だから、平気』
身体は異形と化し、心もおかしくなってしまったのだろう兄を前に、セリィの心は、驚くほど凪いでいた。
セリィが部屋に入った音に気が付いたのか、白濁した目が、ぼんやりとこちらを見る。
『……ォァ?』
『……っ』
およそ人の言葉とは思えない鳴き声。
それに驚いたのは、一瞬だけ。
今は錯乱しているが、恐らくそれはしばらくすれば戻るだろうとの事。
だから、しっかりと言葉として伝えておく。
『……兄様は、優しい人だった。そして、弱い人だった』
『……?』
『いつも責務から逃げて、他の王子に任せきりで。でも後でとっても後悔するんだ。自分のせいなのにね』
でも、家族には優しくて、愛をたっぷり注いでくれた。
色んな事を知っていて、いつも周りには人が絶えなくて……そんな兄が大好きだった。
彼が変わったのは、迷宮というものに触れてから。
そして、第二王子が亡くなってからだった。
圧し掛かる責務に耐えられずに迷宮の奥に逃げて……今、こうしてここにいる。
『……結局、兄様は最後まで逃げたんだね』
『……?』
音に反応したのか、手がこちらへと伸ばされる。
それに触れることはせず。
セリィは、ゆっくりと頭を下げた。
『……私が探していたのは、この国の王子であった筈の兄です。決して、国を転覆させようとした愚かな犯罪者ではありません。どうか、王子として……いえ、人として正しい行動を。私があなたに言えるのは、それだけです』
視線の定まらない兄の顔をしっかりと見つめ、気付けばそう言い放っていた。
兄様のせいで大勢の人が死んだ。あっけなく殺された人も、死にかけで放り捨てられた人だっていただろう。
全部、この人が逃げた結果だ。
でもその元凶である本人が、今こうして手厚い治療を受けてここにいる。
その事実に、なんだか無性に腹が立って。
それだけを告げて、セリィは部屋を出てしまった。
――最初は、兄様の無事を確かめたくてここまで来たんだけどなぁ……。
そのために無謀にも飛び込んだこの砂漠で、セリィは彼がしていた行いの数々を知った。
それは到底許されていいことではないし、彼はその結果、報いを受けた――そう思っていたのだけれど。
「まさか生きてたなんて……」
死んでいたら――なんて、そう思えたらむしろ楽だったのに。
顔を見た瞬間、良かったと心の底からそう思えたのだ。
でも、すぐにその身体に驚いて、怒りが浮かんで、心が凪いで。
セリィの言葉にも、兄は彷徨う手をこちらへと伸ばすだけで何の返答もしなかった。
――謝罪が欲しかったわけじゃない。喜んで欲しかったわけでもない。
ただ……ならば自分は何を求めて兄を探していたのだろう。
部屋を出てから、ずっとそのことを考えていたが、答えは出ない。
「……正直、今は何も考えられないや」
セリィの中で色んな言葉や感情がぐちゃぐちゃにこんがらがっていて、結果、不思議と冷静になっているという状態であった。
クルルやヤクルとじゃれて笑うこともできるし、見上げる『大海』に緊張も走る。
いつも通りだ。
ただ、ふと見つめた両手がやけに震えている。
これが全身に広がったら、多分自分は、しばらく動けなくなるだろう。
だから、セリィは思い切り息を吸い込んで、自分の両頬を叩いた。
その音に、クルルとヤクルが小さく咆哮を上げる。
「――――!!」
「だから、考えるのは一旦やめ! 今はとにかく皆のために、作戦を成功させること、それだけをやるよ!」
「……そうか」
そう元気よく告げたセリィの手は、未だ震えている。
頷いたカスバルは何も言わない。
代わりに、木箱から降りた彼はセリィの頭を撫でた。
「あ……」
ごつごつとした彼の大きな義手はとても冷たくて硬い。
それでも、触れた所からじん、と温かくなったような気がした。
「お前は、単身で砂漠に乗り込んできた強い奴だ。そんなことをできる奴を、俺は他に知らない」
「……うん」
だから――。
そう、続く言葉を目を閉じて待っていたセリィ。
だがそれはいつまでたってもやって来ず。
「……うん?」
首を傾げて目を開くと、カスバルはクルルたちを引き連れて船を降りていくところであった。
揺れる水音とアンジェリカの怒声が響く中、セリィは1人取り残され――呆然と呟く。
「え……だから? だから何なの……!?」
全く言葉の意味が分からなかった。強いから、何!?
まさか……あれで励ましたつもりだというのか?
――いや、下手すぎない……!?
そう言えば、カスバルとはそういう男であった。
対人相手の意思伝達能力を極限まで削ぎ落し、相棒の2体と長いこと砂漠に潜り続けた男である。
その言葉は全くわからなかったが……でも、そんな彼が今、自分を励まそうとしていたのだ。
それだけは、嬉しい。
呆れの溜息とともに、満面の笑みを浮かべながら、セリィは姿が見えなくなった男へと頷きを返したのだった。
「……うん、頑張ろう。ね、小蟹さん」
そんなやり取りの間もずっと空――ではなく足元の海を見て喜んでいる蟹を見ながら、セリィはそう呟いた。
「……ずっと海の底を見てるけど、何かあるの?」
当然、その蟹からも答えは返ってこなかった。
……まあ、いいか。ともかく、精一杯頑張るのだ。
『――――』
のんびりと身体を上下させる彼の動きに合わせて。
遠くから、潮騒の音が鳴っている様な、そんな気がするセリィであった。




