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第135話 白砂の迷宮第35層/大海の巣⑱




 温かい、揺り篭の中にいる気分だった。

 身体はお湯にでも浸かってるみたいに温かくて、顔の辺りを涼しい風が撫ぜていく。


 陽だまりの下、草原で寝転がる様な。

 開け放した窓の下でお昼寝でもしている様な。

 そんな心地の中で俺は寝転がっている。


 ああ、これだ。

 何の不安も恐れもない、穏やかな眠り。

 これこそが俺の求めていたものだ。


 このまま、気が済むまで眠っていたい。

 ……いいよな?

 あれだけ必死に戦って、ゼェルを倒したんだ。

 それくらいの褒美は求めたっていいだろう。


 ああ、それにしても心地良い。この風はどこから……。

 ぼんやりと揺蕩う意識の中、流れる風にぼおっと手を伸ばして――。


『――■■■■■■』


 突如真横から現れた真っ黒い()()の竜に、左腕をまるごと食い千切られた。


「――――っ!?」

「あ、起きたぁ」


 がばっと起き上がった視界の先。

 もはや見慣れた、湿った岩の床が広がっていた。


「……はっ、はっ……」


 心臓が荒く拍動して、繰り返す呼吸で喉が焼ける様に痛かった。

 ほんの一瞬前まで最高に心地よかった筈の眠りが、一気に崩れ去った。最悪だ……。


「大丈夫ぅ?」

「あ、ああ……」


 そう言って覗き込んでくるのは『赤鎚』のアミカ。

 確か、前も彼女にこうやって看病されていた気がする。


「んー、大分早いけど、顔色は良さそう……ちょーっと待っててねぇ」


 のんびりとした彼女の声を聞いて少しだけ落ち着きを取り戻せた。

 しかし――。


「俺の、左腕が……」

「あ、もしかして痛む?」

「……? 痛む?」


 奇妙なことを聞いてくる。

 治療はされている筈だし、実際痛みなんて何も――。

 そう思って左腕を見た瞬間、俺は言葉を失った。


 装備の外された左腕の外側には、竜の尾みたいな黒くて太い染痕がくっきりと刻まれていたのだ。


「これは……」

()()、治療した時にはもう出てたよぉ。でも、左腕自体にはほとんど怪我もなくてね、だからスイレンちゃんも首を傾げてたんだよねぇ」

「そうなのか」


 治療前にはこの染痕が浮かんでいた、と。

 そうなると、原因は明らかにアレだろう――最後の戦いの時の、顔やら腕に現れたあの()()()()

 あれには助けられたが、やはり代償はあったということか。


「んで、黒いところを切り取って保存しようとしてたから皆で慌てて止めたんだぁ。何起きるかわかんないからって」

「……そうなのか……」

「それで、どうなの? 痛む?」

「いや、大丈夫だ。感覚もちゃんとある」

「おおー、それは良かったねぇ……これだけ大きい染痕だから、スイレンも心配してたけど。良かった良かった」


 握る手には感触があるし、黒い部分を突いても痛みがあった。

 やはり、明らかに普通の染痕とは違うが、となるとこれは一体なんなのだろうか。


「スイレン、地上に戻ったら調べさせてーって息まいてたよ」

「……まあ、それくらいなら」


 何をされるか恐ろしくはあるが、調査は俺としてもお願いしたいくらいである。

 勿論アンジェリカ嬢たちが許すならだが……そこは問題ないだろう。


「わかった。アミカもありがとう。助かったよ」

「へへ、どういたしましてー」


 ふにゃりと微笑む彼女は、疲労もあるだろうにいつも通り。

 そんな彼女とのやり取りでようやく心も平静を取り戻し、息も整った。

 改めて身体を確認して、違和感がないかを調べていく。

 ……うん、大丈夫そうだ。


 戦いも終え、治療も済んで。

 ちょっと……いやかなり身体におかしなことは起きたが、それ以外は元通りだ。

 

 ――俺は、生き延びたんだ。


 夢ではなかった。

 俺は奴に勝って生き延びてみせたのだ。

 この奇妙な左腕は、その何よりの証だろう。

 じんわりと浮かぶその感慨に浸りながら、俺は片付けを始めたアミカに問う。


「それで、皆は?」

「ん」


 アミカが顎で示した先。

 そこでは仲間たちが2手に別れていた。


 片方はこの塔の岩の小部屋の端。

 スイレンが眠る第三王子の治療を行っているようだった。

 止まることなく作業をしているから、死んでいるわけではなさそうだ。


 そしてもう一方は、塔の内側の端。

 そこに残りの仲間たちが集まって、外を眺めているようだった。


「あれは何をしてるんだ?」

「『大海の染獣』と海面の確認だよー。そろそろこの4階も沈み始めるみたいだから」

「……もう、か?」


 あれだけ高かった塔が、いつの間に……。

 俺が海面を気にしていたのは戦い始めた最初だけ。

 その後直ぐに塔を上って、後はずっとゼェルと戦っていたからまったく気にしていなかった。

 言われてみれば、確かに水面を叩く雨音が近い。


「俺は、どれだけ寝てたんだ?」

「んー? 1時間くらい? 丸1日は寝てると思ってたから、早かったね」

「……多分だけど、たたき起こされたんだと思う」

「……?」


 左頬に手を当てる。

 こちらは元々多くが染痕だったのでほとんど感触はないが……手触りはざらついている様に感じた。

 その部分を指さして、アミカに尋ねる。


「こっちも、腕と同じになってるか?」

「え? うん。半分仮面でも被ってるみたいに黒くなってるね」

「……そうか」


 腕と同じ紋様が広がっているのだろう。

 恐らく肩も。あの()()があった場所は等しくそうなっている筈だ。

 先の戦いの結果、俺の中の腐竜の『割合』が増えたんだろう。


 相変わらず喋ったりはしないが、夢に出てきたりといった干渉をしてくるようになった……のだと思う。

 痛みもないし、今のところは共生関係になれたと、そう考えることにしよう。


 ……俺の安眠が遠のいている気がしなくもないが、今だけは助かった。

 立ち上がって身体を確かめる。

 重たい疲労が未だ身体の奥底に溜まってるが、動く分には問題なさそうだ。


「大丈夫?」

「ああ。……行こう。状況を確かめたい」


 まだ終わっていない。

 むしろ、これからが本番と言っていいだろう。

 皆の所へ向かおうとして、ふと気付く。


「なあ、武器の余りってあるか?」


 ゼェルを仕留める際に武器を捨ててたのを思い出した。

 装備、何も残ってないわ……大丈夫か、これ?



***



 そこから皆に合流して、分かった状況は以下の3点。


 まず、ゼェルを倒したところで『大海の染獣』に一切動きがないこと。

 ゼェルと『大海』にそもそもなんの関係もないのだから当然といえば当然なのだが……ただ、あれだけ真下でド派手に戦っても動かなかったというのは気になる。


「でも、どうして何もしてこなかったんでしょうな? あ奴からしても、我らを纏めて排除する好機だったのでは?」

『関係がないんじゃないですか? あの獣には』


 弓使いワーキルの声に答えたのは、カイであった。

 彼はナスルとクリム、ウルファと一緒に上がって、周囲の警戒と観察を行ってもらっている。


「どういうことだ、カイ」

『あれは蟹が呼んで、それに応じて出てきたんですよね? なら、俺たちや湖畔の国(ラクトリア)の連中が何してるかなんてそもそも関係がないんじゃないですか?』


 あれは蟹に呼ばれて、この隔離された塔の何かのために動いている。

 そこにいる侵入者――否、それすら満たない()()がうろちょろしていた所で気にも留めない。

 そういうことなのだろう。


「……僕らみたいな小さな生命体のことなんて気にするような存在じゃないか、それもそうだね」


 うんうんと頷いて、ルトフは視線を下へと移した。


「今はどちらかというと、水面(こっち)の方が問題だね」


 問題の2つ目。それは海が満ちる速度がどんどんと上がっていること。

 1階層が沈んでから徐々に溜まる速度は増しているそうで、この様子ではあと1時間もしないうちに4階層全てが沈むと予測される。


 当然、俺らはそれより早く上がらなければならない。つまり、遮蔽も逃げ場もない天辺へだ。

 半分くらい崩れちゃってるが、幸い、もう片方の塔がある。

 端なら渡れるとカイが言っていたので、なんとかなるだろう。


 そして最後。これが最も重要である。

『大海の染獣』に動きがない限り――俺たちにできることは何もないということだ。


「空を飛ぶ手段は、残念ながらないわね」

「だねぇ……」


 溜息を吐きながらそう告げるアンジェリカ嬢にルトフ。

 奴はいつの間にか塔の天井を越えて空の遥か高くに昇っている。

 そこへと到達する手段を持つ者はこの中にはいない。それどころか、この国の誰も持っていないのではないだろうか。


「海が満ちれば降りてくるかしら?」

「どこまでを『満ちる』というか、それ次第かな。この塔まで沈んでから動き出されても困る」

「……それもそうね」


 そうなったら我らは何もできずに沈んで終わりだ。

 流石に船の用意はしていない。一応カトルが頑張れば生き延びれはするが……それも時間の問題だろう。


「となるとこちらから動かないと駄目だけれど……とれそうな手はある?」

「1つだけ。ただ、送り出しちゃったんだよねえ……」

「あの、小蟹ね」


 溜息を吐き出しながら、アンジェリカ嬢が頬に手を当てる。

 染獣をどうにかするために染獣を頼らなければならないなんて……全くもって理解しがたい状況である。


「あれなら『大海の染獣』を動かせるのかしら」

「可能性は一番高いだろ? そもそも呼び出したのは蟹たちだ」

「……呼んだものを殺すのを助けろって言うつもり? 聞いてくれると思う?」

「さあね。ただ、恩は売ったよ?」


 ルトフたちは小蟹の要請に応じ、手あたり次第の蟹たちを外へ逃がしていった。

 各階層にも外に通じる穴が開いていたので、移動しながらも助けられる多くを放り投げ……押し込んでいったのだ。


 かなりの数を助けた自信がある。だから、協力くらいはしてくれるはずだ。

 ……そもそも、あの蟹が『大海の染獣』を呼んだ理由が不明なのだけれど。


「どちらにせよ、まずは上がらないとだね」

「……そうね。カトル、イマ。お願いね」

「はーい! 任せて!」


 すぐ横で座り込んでいた2人が手を挙げ応える。

 外は未だ雨。こちらは怪我人連れだし、なによりこれから数時間雨に打たれ続けるのは勘弁である。

 そこで、カトルの氷で一時的に雨を防いで、その間に『赤鎚』が急いで拠点を作ることにした。


 後はそこで救援を待ちつつ、『大海の染獣』討伐の方策を練ることになる。


「よし、じゃあやることは決まったから……その前に、済ませようか」

「そうね。ゼナウも起きたことだし、()()の話を聞きましょうか」


 アンジェリカ嬢がこちらへと視線を向け、そのままそれは奥へ――。

 眠っている、第三王子へと移った。

 どうやら俺が目覚めるのを待っていてくれたらしい。


「……正直、気は進まないけれどね」

「そう? 私は楽しみよ。さあ、行きましょう。楽しい楽しい、尋問の時間よ」


 満面の、恐ろしい笑みを浮かべて。

 アンジェリカ嬢はそう言ったのだった。



***



「スイレン、どうかしら?」


 そのまま、俺と彼女とルトフの3人で王子の下へと向かった。

 歩いている途中でアンジェリカ嬢が指で合図をして、ルトフが風魔法を止める。

 ……ここから先は、多分、皆に聞かせない方が良い。そういうことだろう。


「あ、はい。つい先ほど――」

「……起きてるよ、シュンメル」


 スイレンの言葉を遮って、震え掠れた声で王子が言った。

 白濁した、不安定に揺れる瞳が何となく声のした方を向いている。


 その腹には、未だ大穴が空いている。血こそ綺麗に拭き取られているが、だからこそ分かる大怪我……否、致命傷だ。

 いや、なんでこれで生きてるんだ?

 思わずスイレンを見るが、当然伝わるわけもなく、目をぱちくりとさせながら首を傾げている。

 ……後で聞くしかないか。ともかく、王子はあれでも生きているらしい。


 アンジェリカ嬢たちは既に分かっているのか、気にせず話を続けている。


「あら、昔みたいにアンジェリカ姉様、でも良いのだけれど?」

「……もう君は王族ではない」

「ジンは呼んでくれるけれど……まあ、どうでもいいことね」


 肩を竦めて、アンジェリカ嬢が笑みを浮かべる。

 

「それで、そろそろ教えてくださる? どうして、あなたはここにいるのかしら。迷宮都市で行方不明になった筈のあなたが」

「……もう知ってると思うけど、僕らは迷宮都市でゼェルに裏切られ、攻撃された。僕自身はゼェルと戦うことになり、この通り殺されかけたわけだ」


 やはり、あの腹の大穴はゼェルにやられたものだった。

 だとしたらとんでもない古傷だが……なんで死んでないんだ?


「ただ――君らが見たかは知らないが、ゼェルは黒剣の力を使うと、自我があやふやになるんだ。僕らには見えないものが見え、存在しない誰かと会話を始める」

「……聞いたわ。精神を汚染されていたと」


 アンジェリカ嬢の言葉に、王子が頷く。


「僕との戦いでもそうなった。だから、その隙に飛び込んだのさ。彼の『穴』の中に」

「……良く生きてたな」


 思わずそう呟いていた。

 だって、あの穴に自ら飛び込もうなんて普通は思わない。ゼェルと戦ったというのなら、尚更に。


「その声は……左目の君か」


 俺の声に反応したのか、彷徨う視線がこちらに向いた。


「穴の中は、意外と静かなものだったよ。流れがないから身体が削られることもない。ただ代わりにじっくりとあの光の影響を受けるみたいでね、僕も何度幻覚を見たか。そのせいであれからどれくらい経ったのかも、正直曖昧なんだ。……実際、どれくらい経ったんだ?」


 その質問には、ルトフが答えた。


「10日は間違いなく経ってますね」

「……そうか、そんなに。あそこは音もなく、変化もなかった。ただただ、中にいる者の精神を蝕んでいく。正気を保てたのは、奇跡だったんだろうね」

「……大した奇跡だこと」


 呆れる様にそう呟いて。

 アンジェリカ嬢が首を傾げた。


「それで? 穴から奇跡的に生還を果たしたあなたは、ゼナウと一緒にゼェルを倒した。それはどうして?」

「どうしてって……今話したじゃないか。殺されかけた相手だよ? 僕が生きているのが分かったら、今度こそ殺されるだろう。それを防ぐために殺すのは、当然だろう? ……それに」


 そう、言葉を切って。

 俺の方を白濁した目が見つめた。

 

「左目の君ならわかるだろう。あの男は、自我を失いかけたことであまりに危険な存在となってしまった。彼だけなら別に構いはしなかったが、あの黒剣……あれは駄目だ」


 触れた物を切り裂く黒光。

 その威力は凄まじく、この塔の一部を見事に切り裂いてしまったのだ。


「もしあれを王都で使われたら、間違いなく国が亡ぶよ。勿論、普通なら国相手にそんなことはしない……が、あの男はもう狂っていた。正常な判断なんでできないだろうさ。そしてここは、王都の真下だ。探索者はともかく、王族にも一般市民にすらも危険が及ぶ可能性があった。そんなことは許されない……だろ? だから止めたのさ」


 理由は、それだけだよ。

 そう言葉を締めた王子は、肩を竦めて薄く微笑む。


「……なんて、そんな理由じゃ君らは納得しないかな。ただ、これでも王子だ。国を想う気持ちは、本当のつもりだよ」

「……」

 

 彼のその言葉に、俺は何も言うことができなかった。

 今告げられた『理由』は、王子として――国を背負う者として完璧な答えだったろう。

 剣の危険性も、あの男の精神がまともじゃなくなっていたのも事実。

 ならばそれを止めようとした王子の想いも……事実というのだろうか?


 だが、そんな筈がないのだ。

 俺たちはこいつのしてきた所業を知っている。

 そのゼェルをこの国に呼び込み、多くの命を犠牲にしたのは、何を隠そうこの第三王子なのだから。

 だから分からない。何故この男が、今になってそんなことを――。


「――まあ! なんてご立派な理由なのかしら」


 俺もルトフも黙る中、ぱちぱちと拍手の音が鳴り響く。

 音の出所は――アンジェリカ嬢。


「まさに国を導く王子の矜持。本当に、素晴らしいお考えです」

「……白々しいな。シュンメル」

「まあ酷い。あなたの意見には本当に賛同しているんですよ? 王子は、国を想い守るもの。……勿論、そこにはその中に暮らす人々もまた、含まれているのでしょう?」

「……っ」


 その民を犠牲にしていたことを知っているだろうに、アンジェリカ嬢は敢えてそう言った。

 ……なんか、嫌な予感がするなぁ……。


「ご立派なお心がけ、大変感服いたしました。そんな王子様に、1つ質問です」


 その不安は、残念ながら的中したようで。

 アンジェリカ嬢の拍手が不意に止まって――満面の笑みで、彼女は告げた。


「なら、ルシド様は?」

「――――」

「あのお方は、あなたの言う『守るべきもの』に、含まれていなかったのでしょうか?」


 こつり、とアンジェリカ嬢が前に進み出でる。

 合わせていた手をゆっくりと滑らせながら、彼女は続ける。


「あなたなんでしょう? 私たちが砂漠を探索している時に刺客を送り込んだのは」

「……それは……」

「そして殺した! あのゼェルと同じように。つまり……あの人も、この国の害だったとそう言うのかしら? あの侵略者と、あなたの兄が同じだと?」

「……そんなわけが!」


 咄嗟に出た咆哮に、第三王子は顔をしかめた。

 直ぐに容態を確認しようとしたスイレンを片手で静止し、彼はアンジェリカ嬢の方を見つめる。


「そんなわけがないだろう。……あれは、事故だったんだ」


 その発言に、今度はアンジェリカ嬢が声を張り上げた。


「事故!? 事故とおっしゃる? 自ら刺客を放っておいて、死んだら事故!?」

「……っ、ああ……」

「まあ不思議。そんな()()、聞いたことがない。なら何をさせに刺客なんて送り込んだのかしら。お使いでも頼んでいたの?」

「……そういうことか……いいだろう」


 わざとらしく大仰に振る舞うアンジェリカ嬢。

 それに対して、王子は大きく息を吐き出してから、真っすぐに彼女を見つめて。


「ああ、事故だよ。だって――あの時始末するのは兄さんじゃなくて……シュンメル。君だったんだから」


 そう言い放ったのだった。


「……?」


 あまりにあっさりと言い放ったので、一瞬何を言ったのか理解できなかった。

 今、とんでもないこと言わなかったか? こいつ……。


 だって今の発言って、王子が兄の婚約者を殺そうとしてたってことだろう。それを、本人に騎士団長もいる場で堂々と言い放ったのだ。

 それを……え、いいのか? 大丈夫なのか、色々と。

 訳も分からず呆然としていると、耳元で風が吹き、ルトフの声が聞こえてきた。


『ゼナウ』

「……?」

『こっちこっち』


 呆然としていると、ルトフが手招きしているのに気が付いた。

 近づくと彼は風を止め、耳元でこっそりと囁く。


「……第三王子は、純血主義って奴でね。【迷素遺伝】や【獣憑き】のような人たちを、特別嫌っていたそうだよ。そんなものが王族の血に入ったら、化け物の血で汚れてしまう……なんてさ」

「……王子は【迷素遺伝】を持ってるんじゃなかったか?」


 ジンが確かそんなことを言っていた気がするが。


「そうなんだけどね。彼らが言うには、王族のそれは、特別に与えられた別物なんだって。だから、()()()が混じることは許されない」

「は? なんだそりゃ」

「そう思うよね。でも、彼らにはそれが全てなんだよ」


 だから、兄である第二王子が【迷素遺伝】を持つアンジェリカ嬢と結ばれるのが許されなかったと。そういうことなのか……?


 向けた視線の先で、第三王子は笑みに顔を歪ませながら吼えている。


「……はっ、これを言わせたかったんだろう、君は! そうだよ、あの時刺客を放ったのは僕で、手違いから兄様が死んでしまった。あれは事故だったんだよ……!!」


 あまりにも悍ましい王子の思想と言葉。

 だがそれを真っ向で受けて尚、アンジェリカ嬢の笑みは崩れない。

 

「……っ、なんなんだよ、この身体は! 痛みが、消えない……!!」


 荒げた声に顔を歪ませ、腹の大穴付近を押さえた王子が苦しんでいる。

 しばらく呻いた後、荒い息を吐きながら、再び顔をあげた。


「……これで気は済んだかい? なら、さっさと殺してくれると助かる。痛みで気が狂いそうなんだ」

「……」

「聞いているのか!? シュンメル……!!」

「……はあ」


 王子の声に応えることはせず。

 ゆっくりと天井を見つめ、それから深くため息を吐きだして。

 たっぷりと間を開けてから、アンジェリカ嬢が口を開いた。

 

「やっぱりね。おかしいと思っていたわ。あなたが、あれほど崇拝していたルシド様を殺すなんて、どう考えてもありえなかったもの」


 ふっ、と思わず噴き出た笑みを浮かべて。

 脂汗を浮かべる王子を見下ろした。

 

「ねえ、そうでしょう?」 

「……当たり前だろう。誰が兄を殺すと思う」

「でも、その婚約者は殺すのでしょう? その兄が愛した人を。……意味が分からないわ。自分の頭がおかしいって、誰も教えてくれなかったの?」

「……っ」


 淡々とそう告げながら、アンジェリカ嬢は自身の腕を見つめ、長手袋(イブニンググローブ)をおもむろに外した。

 あの時に失い、得てしまった自分の黒い腕。それを光に透かすように見つめながら、こてりと首を傾げる。


「それで? 間違ってルシド様を殺して? 自暴自棄になって迷宮に籠って……あのゼェルを呼び寄せたわけよね。『迷宮になら、死者を蘇らせる秘宝がきっとある!』……なんて、あり得ない夢を信じて」

「……」

「全部、あなたが起こしたこと。あなたがしたのは自分のやったことの後始末ってだけ。しかも、最後の最後、ほんの少しゼナウを手伝っただけでしょう?」

「……黙れ」

「それで、王都を守った? はあ、何を言ってるのかしら。視力だけじゃなくて、頭もボケてしまったのかしら」


 こつり、とアンジェリカ嬢が寝転がる王子の真横に進み出でる。

 スイレンを下がらせ、満面の笑みでその顔を見下ろした。

 

「その上で私に殺してくれだぁ? あわよくば私に王族殺しの汚名でも被せようとしたのでしょうけれど……いくら何でも、おふざけにも限度があると思いません? ねえ?」

「……黙れ、それ以上は……!!」


 視力の低下した王子でも分かるくらいに黒い指を目の前で振りながら。

 アンジェリカ嬢はそれはそれは楽しそうに言葉を続ける。


「あなたは、この国を転覆手前まで追い込んだ大罪人。しかもその身体は……ああ、迷宮に魂を売って、人ではない怪物になってしまった。国の機密に何百人もの人間をも失って、得たものが()()?」


 つつ、と大穴の真上の空をなぞりながら笑う。


「知ってる? あなたのこの穴、傷口はとっくに塞がってるの。穴は開いてるけど、内側は真っ黒になった皮が張ってあるんですって。内臓も肉もなくなったのに、まるで『穴が開いているのが本来の姿』みたいに修復されてるの。不思議ね?」

「……っ」

「だから、いくら治療してもあなたの姿は元には戻らない。ずっとこのまま。もしかしたら、不老不死になれたかもね? おめでとう」

「……ふざけるな……」

「それ、どっちが?」


 おぞましい、地の底から響くような声でアンジェリカ嬢が告げる。


()()()()()、その結末がこれ? ……まあ、随分とご立派な王子様だこと」

「……やめろ……」

「ねえ、王子様? ご立派なあなたに教えて欲しいのだけれど――そんなあなたを生み育てた人たちは、一体どんな咎を負うのかしら?」

「……今すぐ僕を殺せ!」


 激高してそう叫んだ王子に、アンジェリカ嬢は今までで最大の笑みを浮かべた。


「やっぱり、()()が理由なのね。何が鬱憤晴らしなんだか。自分の家族を守りたいだけじゃない」 

「……っ、貴様……!!」

「何人も巻き込んでおいて、家族は守りたい? ……そんな甘えたこと、許されるわけがないじゃない。だってここは、怪物なら王子の妻を――()()を殺してもいい国なのでしょう?」

「……!!」


 その一言が、決定的だった。

 ぱくぱくと口を動かす王子に、アンジェリカ嬢が優しく囁く。


「正しい国のために、必要な血を流す。あなたの、思想通りでしょう?」

「……ああ、あああ……」

「それに、本来はあなたのような化け物を殺すのが我々探索者の仕事だけれど……残念。今日は、()()()()のが目的なの。良かったわね? 生きられて」

「……ああ、ああああ!!」


 不意に、王子が空に手を伸ばして声をあげた。

 あらゆるものが決壊したかのように、口も目も限界まで開き、それぞれから体液がぼたぼたと漏れ始める。

 それでも構わずに、あらんかぎりの声を張り上げた。


「どうして死んでしまったんだ、兄さん! あなたがこの国を導くべきだった。臆病なバクシム兄さんでもなく、逃げ出した僕でもなく、あなたが……!!」


 半狂乱になりながら、異形と化した王子は、ただひたすらに叫び声をあげる。


「それが、どうしてこんな怪物女を守ったんだ! こんな()()()()()、どうして王族に入れたんだ! 一体、どうして――……」


 言葉は途中で途切れた。

 王子は突如気を失ったかのように眠りについてしまった。


「……スイレン?」

「錯乱、されているようでしたので」

「あら。もっと聞いていたかったのに……まあ、これ以上は聞くだけ無駄かしら」

「……どういうことだよ、今の」


 1人取り残された俺は、呆然と呟く。

 すぐさまアンジェリカ嬢へと詰め寄った。


「セリィはどうなるんだ?」

「はあ? どうもしないわよ。咎を負うのはこいつだけ。当たり前でしょう?」


 演技よ、演技、とアンジェリカ嬢は長手袋(イブニンググローブ)を着けなおしながらそう言った。


「……演技だって?」

「なによ、まさか本気だったとでも思ってるの? 酷いわね。あれだけ一緒に過ごしたのに」


 よよよ、とわざとらしい泣き真似をし始めたが……。

 いや、絶対演技じゃなかっただろ、あれ。

 聞くだけのこっちの身体が恐ろしくて震えたくらいだ。


 王子なんか口から泡を吹きながら気絶している。

 それほどの、凄まじい感情の爆発だった。


「でも結局大した話は聞けなかったわね。時間の無駄だったかしら」

「そうかい? 収穫はあったと思うけど。これで憂いなく戦えるだろ?」

「……ふふ、それもそうね」


 微かにそう笑みを浮かべて、アンジェリカ嬢は、俺たちへと背を向けた。


「ねえ、ルトフ、ゼナウ。少しだけ、時間をもらってもいいかしら」

「……ああ。構わないさ。作業は僕たちだけで進めておく」

「……ごめん。直ぐに戻るわ」


 そう言って、彼女は走っていった。

 その背を、2人して見送る。

 

 ……最愛の人が、自分のせいで殺された。

 彼女はとっくに気付いていたのかもしれないが、想像するのと、こうして本人から事実として突きつけられるのは、やはり違うのだろう。


「……ルシド様はさ」

「……?」


 ふと、ルトフが呟く。


「僕と訓練するたびに、アンジェリカ嬢がどれだけ可愛いか自慢してきたんだよ。その怪力で、とっくに怪物令嬢なんてあだ名がついてたのに、そんなこと知らないみたいに惚気てくるんだよね。聞く方は、たまったもんじゃなかったよ」

「……」

「でも、王子は凄く幸せそうでさ。僕はそんな彼を見てるのが好きだったんだよね」

「……そうか」


 俺がゼェルとの戦いを終えたように。

 彼女もまた、過去の因縁に決着をつけられた……のかもしれない。

 だとしたら良かったと、そう思うことにしよう。


 しばらくそのまま立ち尽くしていると、ルトフがぱん、と柏手を打った。

 

「さ、僕らはできることをしよう」

「……ああ。ジンのために、『大海』の核を持ち帰らないとな」


 今は、未来のことを考えなければ。

 もしかしたら、この国には他にも後ろ暗いことがあるのかもしれない。

 だが俺たちにはジンがいる。あいつなら、きっと良い方向に進むことができる筈だ。

 そのためにも、最後の戦いを勝って終わらないとな。


 ……そう、意気込んだところで、風とともに上層のカイから声が届いた。


『――皆さん。……船が来ました』

「え?」

『国旗を振ってます。どうやら、来たようですよ――援軍が』

『みんなー! お待たせー! 無事ー!?』


 そこに響いたのは、セリィの必死な叫び声であった。 

 どうやら、待ち望んでいた最後の一手がやってきたようだ。


「間に合ったか……しかも船だ。流石、ニスリン様だね」

「ああ。これで助かったな。ちょっと……厄介ごとはあるが」


 背後で眠る王子を見る。

 セリィ――ニスリンからすれば死んでいた筈の人間がいきなり現れたのだ。

 想像できるだけでも多くの問題が噴出するだろう。

 憂鬱だ――そう思う心に、追い打ちがかかる。


『……嘘でしょ?』

「……? どうしたんです? カイ」


 真上のカイから困惑の声が届く。

 それはとても珍しいことで、ふと、嫌な予感が浮かぶ。

 できれば、そこから先は聞きたくない。

 そんな淡い願いは、残念ながら聞き届けられなかった。


『……気のせいでなければ、船の先頭に……いますね』

「それは、何が……いや、誰が?」

『皆ー! 待たせたなー! 俺が来たよー!』


 答えは、本人から返ってきた。

 全員の耳を劈く、元気な声が風に乗ってやって来る。

 聞くだけで元気を叩き込まれるようなその声は、本来絶対にこの場に来てはいけない者の声。


「……あいつは一体、何をしてるんだ?」

『一緒に国を救うぞー!』

 

 最早風を通さなくても聞こえるその声は、次期国王になった筈の、新王子・ジンのものであった。

 ……本当に、大丈夫だよな? この国……。


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