第134話 白砂の迷宮第35層/大海の巣⑰
戦いは終わった。
未だ雨の降る塔の天辺。すっかり元の姿を取り戻したその場所で。
機能を停止した黒剣と、それが腹に刺さった『ゼェルだったなにか』が倒れている。
「……はっ、……はぁっ……」
俺はその横で岩床に蹲り、粗い呼吸を繰り返していた。
終わったのだと理解した瞬間、左目の視界が元に戻り、凄まじい疲労が襲い掛かってきたのだ。
緊張が解け、興奮で忘れていた痛みが全身を暴れ回っている。
不思議と左目の痛みは消えているんだが、今はそれよりも全身が痛い。
ただ、その痛みが『俺はまだ人間だ』と教えてくれている気がして、自然と笑みが浮かんでいた。
「は、はは……勝った、勝ったぞ……!!」
荒れた息で笑い声をあげて、それから激痛に悶えに悶え……しばらく。
ようやく立ち上がれるようになった俺は、改めて周囲を見渡して呆然とする。
「うわっ、なんだこれ、塔が……」
視界の先、塔の天辺は途中から完全に消失していた。
あの黒剣に切り裂かれた部分が崩れて海に落ちていったのだろう。
それは分かるんだが、一体いつの間に……。
最後のごたごたの際、穴が消えた時に崩れていたのか? 全く気が付かなかった。
足元が崩れなくて、本当に良かった……。
「とんでもねえな、あの剣……痛って……」
階下の皆が心配だが、彼らのことだ。きっと無事に逃げていることだろう。
一旦忘れて、すぐ横に視線を向ける。
そこにあるのは少し前までゼェルだった、黒い塊である。
……また復活したりしないよな?
ゼェルは死んだ。膝を曲げたまま倒れたその黒い塊はまるで炭化したみたいに柔らかさを失っている。
どう見ても動く気配はない……筈なのだが、それが不意に動き出した。
「――!!」
警戒を……と思ったが、すぐに止めた。
そうだった。この場にはそれと俺と……もう1人いたのだった。
「……ぐっ、ああ……」
ぐいとゼェルの身体が倒され、その下から1人の男が現れた。
そいつは俺よりも震える身体でなんとか起き上がると、深く、大きく息を吐き出した。
「終わった、か……」
全身血まみれ。
身に纏うのは赤黒く汚れた襤褸で、垂れた黒の長髪は艶を失い無数の白髪が混じっている。
それでも思わず見惚れてしまう程の、上背のある美丈夫。
その顔を俺は知らないが……誰かは直ぐに理解できた。
「……生きていたのか、第三王子……」
今回のごたごたの、もう1人の元凶。
ゼェルに離反され死んだ筈だが、どうやらあの『穴』の中で生き延びていたらしい。
どうやったのかなんて見当もつかないが、事実こいつはここにいる。
雨を浴びて血の塊を吐き出しながら、気だるげな顔で王子は俺を見た。
「安心しなよ、すぐに死ぬから」
あっさりとそう言ってのけた彼の脇腹は、深く切り裂かれて赤黒い血が漏れている。
先の黒剣の1撃だろうか。
それにしては出血量が少ないから、古傷なのかもしれない。
……まさか、迷宮都市の時のものか? だとしたらとっくに失血死してそうだが……。
まあ、そもそもあの血まみれの身体だ。間もなく死ぬというのは事実だろう。
それは理解した。だが――。
「なんであんたがゼェルを殺す?」
そこが分からない。
確かにこいつは、ゼェルに裏切られて襲われたのだろう。
だが、それにしても自分の身を犠牲にしてまであいつを殺す動機は一体……?
そこまでの何かが第三迷宮であったというのか。
だが俺の問いに、王子はゆるゆると首を振った。
「……問答は、いい。時間がないんだ」
ふらりと歩き出し、虚ろな瞳が俺の方を見た……が、視線が定まっていない。
よく見ればその瞳は白濁し始めている。もうまともに見えていないのだろう。
ただその目には、強力な意思が込められている様に俺には映った。
「いるだろう、彼女が。悪いけど、案内を頼めるかい」
「……ああ」
こいつが求める人物って言ったら……1人か。
こちらもふらつく頭で周囲を見回して、階下に降りれそうな場所を見つける。
「まずは降りよう。ここじゃ、雨が辛い」
互いに肩を貸し合って、ボロボロの俺たちは歩き出すのだった。
***
「――ゼナウ!」
崩れた足場が階段の様になった場所を見つけてなんとか4階層へと降りた俺たちを、走ってきたカトルが出迎えた。
……なんか、随分と久しぶりに会う気がする。
時を止めまくっていたからか? 奇妙な気分だ。
笑みを浮かべて手を振る彼女は衣服が一部欠けたり切れたりはしているが、大きな怪我もなさそうだ。
その顔を見た瞬間、身体から力が抜け落ちる。
「わわっ、大丈夫!? ……って、真っ赤!?」
慌てて走ってきたカトルが身体を支えてくれ、べっとりとついた血に驚く。
「これ……!?」
「……俺じゃなくて、こっちだ。スイレンを呼んできてくれ。治療を……」
「不要だよ」
だがそれは、あっさりと拒絶された。
「それより、いるのかい。彼女は」
「彼女って……ゼナウ、この人は?」
「……第三王子だよ」
否定されなかったからそうだと思ってるが、合ってる……よな?
恐る恐る窺うと、やはり否定はされない。間違いなさそうだ。
……間違いないのも、困るんだがな。
「第三王子って……!! え、でも……」
「どうやら生きていたらしい。助けてもらった」
「助け……? え、ええ……?」
困惑している。だよなあ……。
俺も助けてもらっていなかったら、未だに信じられていなかったと思う。
ゼェルの死体にも、あの黒剣にも興味がなかったようだし、この死にかけ王子様の目的は、どうやら本当に彼女らしい。
大丈夫かな……死人がこいつだけで済めば、いいんだけど。
「カトル、アンジェリカ嬢は?」
「えっと……」
「――いるわよ、ここに」
視線を彷徨せていたカトルの向こうから、声が聞こえる。
びくりと身体を震わせた、青い顔のカトルが横にずれると、そこには仲間たちの大半が揃っていた。
その先頭に立つのが、我らが頭目・アンジェリカ嬢その人。
カトルより更にボロボロの装備の彼女は、満面の笑みを浮かべている。
「無事でなによりよ、ゼナウ」
「……ああ」
……それなりの付き合いだからよくわかる。
あれは、激怒が最高潮に達している顔だ。
案の定、その目がすっと開かれる。
「……それで? なんでその男がここにいるのかしら」
背負っていた斧を岩床に叩きつけ、周囲に凄まじい音が鳴り響く。
全員が押し黙り、雨音以外の一切の音が消え、静寂に包まれる。
恐らく激しい死闘を乗り越えて尚、彼女の膂力は健在らしい。
「わざわざ、私に殺されに来てくれたのかしら?」
「……その通りだよ」
半ば冗談だった彼女の言葉に、第三王子は頷いた。
俺の肩から離れ彼女の前に跪くと、あろうことか頭を垂れた。
まるでそのまま首を落としてくれというかのように。
「ちょっと、何のつもり?」
「……殺してくれ。間もなく死ぬ命だが、君の鬱憤晴らしにはなるだろうさ」
「……ああ?」
ぞくりとする怒声が漏れる。
アンジェリカ嬢は第三王子の髪を鷲掴みにすると、その顔を睨みつける。
「何を、ふざけたことを……!!」
「ちょ、ちょっと待って! 落ち着いて……!!」
「あれだけのことをして、殺してくれだ? どこまで貴様は――」
「死んじゃう、死んじゃうから!」
「殺されに来たんだろうが! 本望だろ!」
慌てて割り込んできたルトフが引きはがして、アンジェリカ嬢を落ち着かせる。
未だ吼える彼女を鉄塊に引き渡して、盛大に溜息を吐き出すと、王子の前に跪いた。
「……君は……」
「ご無沙汰しております。クリド王子。金蹄騎士団のルトフです。……元、ですけれど」
「邪魔をしないでくれ。僕は、彼女に……」
「あなたの事情は分かりませんが、そうはいきません」
笑みを浮かべたまま、その顔を近づける。
決して聞き逃さないように、はっきりと告げた。
「ニスリン様が、間もなくここに戻られます」
「……なんだって?」
一切動かなかった第三王子の表情が、初めて歪んだ。
震える腕が、ルトフの肩を縋る様に掴む。
「何故、あの子がここにいる……!! こんな場所に、どうして……!!」
「全部、あなたが原因でしょう? ああ大変! ルシド様だけじゃなく、自分の妹まで巻き込んで」
「……そんな、僕は……」
「アンジェリカ! そこまでだ。それ以上、君の品位を汚しちゃいけない」
「……ふん」
珍しく吼えたルトフに、アンジェリカ嬢は小さく息を吐き出しただけだったが、黙ったようだ。
再び穏やかな笑みを浮かべて、ルトフが王子の手を取った。
「まずは、治療を。全てお話します。だから王子もお教えください。一体何があったのかを」
「……分かった。ただ、この傷は深い。治療は最低限にしてくれ。まだ、残ってるだろう。『大海の染獣』が」
「ご配慮、ありがとうございます」
ルトフの合図で、スイレンたちが飛んでくる。
どうやら無事だったらしい駱駝君の1つに彼を乗せて運ぶようだ。
慌てて移動していく一行を余所に、ようやく鉄塊の拘束が終わったらしいアンジェリカ嬢たちが近づいてきた。
「全く、今更何だっていうのよ……ほらカトル。片側貸しなさい」
「いや、俺が代わろう。背に乗せてくれ」
「ありがとうファム兄さん」
鉄塊に支えられる――どころか背負われた。
ガキみたいで恥ずかしいんだが……正直立つのもしんどかったのでありがたい。
「汚れるぞ……」
「気にするな。それより、お前の治療が必要だ」
「そうそう。まずは休まないと!」
3人の暖かな声と穏やかな視線に包まれる。
カトルは俺の身体をあちこちめくって、回復薬を振りかけてくれている。
滅茶苦茶染みて痛いが……直ぐに楽になっていく。
身体も、心も。
……ああ、終わったのだ。俺は生き延びたのだと、ようやく全ての緊張が解けた気がした。
途端に、ギリギリ踏ん張っていた意識が沈んでいく。
そんな中、アンジェリカ嬢が近づいてきた。
「聞くまでもないことだけれど……勝ったんでしょう?」
「……ああ。勿論だ」
「流石ね。ほら、手……は、マズいわね。ファム、代理」
「うむ」
「……?」
俺ではなく鉄塊が上げた手を、アンジェリカ嬢が思いっきり叩いた。
気持ちのいい音が、塔の中に響き渡った。
向こうからウルファたちがなんだなんだと顔を出しているが、アンジェリカ嬢は気にせず声を張り上げた。
「――勝ったわよ! やったわ、ゼナウ、皆! 私たちは、勝ったのよ!」
アンジェリカ嬢が、今度こそ満面の笑みを浮かべて喜びの声をあげ俺たちを纏めて抱きしめた。く、苦しい……!!
カトルがうんうんと勢いよく頷き、鉄塊がふっと微笑んでるが……止めてくれ……。
「痛い……死ぬ……」
「ああ、ごめんなさい。つい興奮してしまったわ」
頭が割れるかと思った。
カトルが回復薬を頭にぶっかけようとしてきたので、慌てて止める。
頼むから今は勘弁してくれ。大丈夫だから……。
……しかし、そうだな。
「勝ったんだな、俺は……」
「何よ、元気ないわね」
「当たり前だろ……こちとら、死にかけたんだ」
「ふふっ、そうね」
必死に絞り出した声に、アンジェリカ嬢が微笑んだ。
その、未だわずかに強張る横顔に告げる。
「あいつには、助けられた。多分、あいつがいなかったら負けてた。だから……」
「……分かってるわよ。そこまで馬鹿じゃないから安心なさい」
それより、と彼女は俺に指を向けた。
「後は私たちに任せて、まずは休みなさい」
「……そうするよ。ああ、つっかれた……」
「お疲れ様、ゼナウ。ゆっくり、休んで――」
背を撫でるカトルの言葉を聞きながら、俺の意識は急速に沈んでいった。
ああ、そうか。
ようやく、安心して寝ることができるのだ。
場所こそ最悪だが、俺は随分と久しぶりな気がする、深い眠りへと落ちていくのだった。




