第132話 白砂の迷宮第35層/大海の巣⑮
迷宮第35層、『大海』の巣にて繰り広げられていた戦いは、続々と終結に向かい始めていた。
残る戦いは2つ。
その1つは、割れた塔の間で行われている異形の主たちとの戦いだ。
広場は水に沈み、戦いの場は上層へと移った。
といっても階層を上がったのはアンジェリカたち一行のみ。
主たち――搦羅蜘蛛は塔の間に巣を張り蠢き、白竜は空を舞っているために、大した変わりはなさそうだ。
そんな奴らは、一行の攻撃を掻い潜りながら執拗に襲い掛かってきていた。
「……厄介ね」
そう呟くアンジェリカたちはスイレンによって治療中。
彼女がいるのは3階層。
『赤鎚』が大慌てでつくった仮拠点で身体を休めながら、眺めるのは割れた塔の向こう側。
ワーキルやイマ、ルトフたちによる魔法斉射が行われているが、残った主たちは素早くその動きを避けるか、魔法による迎撃を続けている。
「むう、落ちませんな……」
「うん。……触れないというのは、非常に厄介だね」
ルトフが苦々しく呟く。
遠距離攻撃に乏しいのが、この一行の弱点。
そのせいで残った主討伐が非常に困難になっている。
雨は止まず、既に広場は深く沈んだ。
幸い、水底で氷漬けの主2体が動き出す気配はない。
ただしその代わりに残った2体の厄介さが増している。
断裂し、真ん中が大きく空いたこの塔で、空中を自在に動く奴らを咎める手段は少ない。
蜘蛛の巣を歩けば良いのかもしれないが……まあ、自殺行為だろう。
『魔法、来るぞー!』
『せーのっ!』
空中の白竜が放ってきた魔法球を、クリム主導の『赤鎚』女性陣が壁で防ぐ。
予備の鉄塊の盾をカトルの氷で補強した臨時の防御壁。
どうも炎に近いその黒光を、なんとか防いでみせた。
搦羅蜘蛛の糸はルトフたちが風と土の魔法で防ぐ。
向こうの攻撃は頻度こそ多いが精々この程度。
この状態になってからこちらの被害は殆どない……が。
それは相手側も同じであった。
「できるのは精々、時間稼ぎだね……」
幸いと言うべきか、あの主2体は決して塔の天井を越えない。
そう命令されているのか、あるいは……。
――あの『大海』を、恐れているのか。
どちらにせよ、動かないというのならありがたい。
我らは主に集中できるし、上で戦っているらしいゼナウへ敵の援軍が行くこともない。
『ルトフ、調子は?』
『変わらずだよ。倒せないし、動けない』
『……口惜しいわね。待つだけなんて』
『君が行っても変わらないからね。大人しく回復しておくように』
『むう……ゼナウが戦っているっていうのに……』
そう呟くアンジェリカは、鉄塊とともに治療中。
特に鉄塊の負傷は大きくすぐには動けない。
『うう、力が出ない。こんなの、初めて……』
『魔力の使いすぎだ。今は休め』
『――!!』
カトルにカスバル、そして彼のもう1体の相棒というヤクルは、消費しすぎた魔力を回復中。
既に2体の主と染人と戦っている我らにとって、態勢を整えられるこの膠着状態はむしろありがたい事態なのだ。
ただ1人、ゼナウを除いて。
――この状況は、向こうとしても狙い通りなわけだ。
あの主たちの目的は、我々を天井に近づけないことだろう。
だから適度に逃げ、階を上がろうとすれば徹底的に阻止される。
勿論、突破を狙って無理はできる……が。
『……まだあの黒剣を倒しても、終わりじゃない』
『そうなんだよねえ……』
鉄塊の声に、苦笑いを浮かべるルトフである。
見上げた先。真上の『大海』は、未だ動かず。
――あれがいる限り、僕らは全てを注ぎ込めない。
既に退路は断たれた。援軍が来るまで、我らは死ねない。
ここで無理して天井まで上がって、皆でゼェルを倒したとして。
その瞬間に『大海』が降ってきたら、間違いなく全滅するのだ。
故に、絶対に無理はできない。
……それでも、できる限りを。
『ウルファ、いけるかい?』
『おうよ! ばっちりだぜ!』
直後鳴り響く、巨大な金属の回転音。
『踏み鳴らし』討伐に使われた、連鉄花火とかいう絡繰りの改良版。
1つだけ持ってきていたというそれを設置して、主を狙い撃つ。
これで足りない遠距離攻撃が補える。
――そもそも、あの2体をさっさと倒せばいい話だ。
息を吸い込んで、ルトフは声を張り上げる。
『さあ、止まらずやるよ! 大丈夫、勝てるよ!』
『――おう!』
震える皆の声を聞きながら、ルトフは天井を見上げる。
――悪いがしばらく手助けはできない。堪えてくれよ……。
その先で戦うゼナウを想って。
皆が戦いへと挑むのだった。
***
その頃。
塔天井での戦いは、激化の一途を辿っていた。
「ふん……!!」
迫る黒剣を避け、その合間に短剣を振るう。
奴の剣が空間を裂いたその瞬間に魔力を叩き込み、形成されたばかりの穴を破壊する。
「むう……!?」
こいつの剣はもう慣れた。
いくら空間すら裂く凶悪な剣撃でも、ただの振りかぶりなら喰らわない。
さっきのあの文字は良く分からないが……おかげで戦えるようにはなった。
しかも、魔力を込めた短剣なら奴の剣にも触れることが分かった。
勿論触れられるのはほんの短い時間だけ。
どうせ奴の斬撃は重く、身体ごと弾かれるのでそれでも十分――なのだが、問題が1つ。
「はぁっ――!!」
弾かれるように前に飛び出し、奴の首を掻こうと短剣の刺突を放つ。
奴はそれを避ける――ことはせず、短剣目掛けて黒剣の腹を差し出してきた。
「……っ!!」
途端にこちらは全力で制動をかけ、短剣を止めた。
もしこちらの短剣を受け止められ、そのまま黒剣を押し付けられればこちらが溶ける。
防御で弾くのとはわけが違うのだ。
――攻撃ができない……!!
攻防一体の実に嫌な能力である。
当然それを理解しているゼェルは安易には攻めてこない。
あれだけ巨大な剣だってのに、細剣みたいな戦法に切り替えてきやがった。
どうにかして剣をどかさなければ、奴の身体には届かない。
――碌に触れないってのに? どうやんだよそんなこと……!!
そう叫びたい気分だが、そんなことをしても状況は変わらない。
再び襲い来る剣を弾き、穴を壊して距離をとった。
「……はっ、はっ……」
「ふぅ……」
互いに、息を荒げて対峙する。
焼けるように喉が痛み、呼吸の度に叩き込んでくる雨が息苦しさを加速させる。
……このままでは、勝てない。
何か方策を思いつかねばならないが、考えるには時間も空気も足りていない。
だが、互いに攻め手を欠くこの状況。困るのは奴も同じだった。
「……存外、しぶとい……」
そう呟くゼェルもまた苦し気。
奴を囲う包囲はどんどんと狭まっている。
嫌でも聞こえていた、階下の騒音は少なくなっている。
今はあの白竜って竜の金切り声が精々聞こえるくらいだ。
こちらにやって来ないことからも、仲間たちは上手くやったのだろう。
俺相手にこれほど消耗して、無事に逃げられるとは思えない。
あれだけカッコつけて乗り込んできたのにこの有様。ざまあみろってんだ。
……ただ、限界という意味では、俺の方が早そうであった。
「はっ……はっ、……ッ!?」
荒れた呼吸の中、ずぐり、と左目から突き抜ける激痛が走る。
まるで毒撃ちでも撃ち込まれたような、図太い何かが貫く激痛。
痛みに閉じた瞼を開くと、左目の視界は掠れ、焦点が定まらなくなっていた。
――頼むよ、あと少しなんだよ……。
戦い始めてどれくらい経ったか。
分からないが、明らかに目を使いすぎている。
痛むだけなら我慢すりゃいいが、見えなくなるのだけは不味い。
多分、使えても後数回。
それまでに奴を殺す手段を見つけなければならなかった。
「……はは、これも駄目か。素晴らしいな、その目は。よもや、あの腐竜がここまで……」
僅かにふらつきながら、奴はそう言った。
こめかみのあたりを押さえ、こちらへと向けられた視線は――僅かに俺からは外れている。
「いいぞ、その目があれば、必ず……!!」
「……?」
なにやら叫んでいるが、それよりも奴の目線だ。
もしや、俺が見えていないのか?
思ったより奴も疲弊しているのだろうか? それとも……。
――よくわからないが、仕掛けるなら、今……!!
「……ッ!!」
なのだが、痛みで動きが止まる。
なにより俺も奴を倒す道筋は未だ見えていない。
――目の使用は最低限で、奴を殺す。どうすればいい。どうすれば……。
そのまま、俺も奴も身動きが取れずに降りしきる雨に打たれ続けた。
必死に雨の混ざった空気を吸い込みながら、なんとか準備を整えようとしていた、その時。
「……やむを得ん」
不意にそう呟いて。
奴は、剣を地面に突き立てた。
どぷり、とその剣先が沈み、固定される。
「あ……?」
「こればかりは……いや、今さら詮無いことか」
「何を……」
「認めよう。貴様は、我が死力を尽くすべき相手だと」
そこに寄りかかる様に柄を掴んで。奴は、大きく息を吸い込んだ。
その瞬間、奴の周囲の穴が大きく波打ち。
まるで間欠泉の如く、どろりとした黒い光が奴の周囲に打ち上がり――そのまま空中に浮かび上がった。
「は……!?」
「この鍵は、深き迷宮を流れる力を呼び起こす。全てを蝕む深き力……例え海を呼ぶ染獣だろうと例外はない」
滝のように汗と水滴を流しながら、奴は震える剣を握りしめる。
分厚い岩の筈の床が揺らぎ、沈んで……凄まじい量の黒い光が噴出している。
いや、あれは光と呼ぶにはあまりにドロドロで。
まるで監獄島の溶けた岩の様な……そんな粘り気を持って、奴の周囲を昇っていっている。
怒涛の如く噴き上がる黒光。地鳴りのような音が響く。
恐らく自身も蝕んでいるだろうその中心で、奴は剣を引き抜いた。
深く穴に沈んでいたためか、その刀身には、輝き粘つく黒い光がでっぷりと塗られていた。
「――空間を裂き、異なる場所へと繋ぐ鍵。未だ至らぬ俺の力では、ただただ裂くことしか叶わない」
うわ言の様に呟く奴の言葉は、まるで詠唱だ。
それに呼応でもしているのか、黒い光は蠢き続ける。
地面を、大気を震わす黒剣とその光は……見ているだけで全身に怖気が走る。
――ヤバいだろ、あれは……!!
止めなければ。
あれを、放たせてはいけない。
何かは分からないが、そんな気がした。
「――オオ……!!」
だが、走り出そうとしたその瞬間。
奴は咆哮とともに、あろうことか自身の足元に漆黒の光剣を叩き込んだ。
剣先が穴に触れたその瞬間、漆黒の衝撃波が放たれる。
それは俺の足下までも超えて――割れた塔の天辺全てを覆ってしまった。
「は……?」
足元を黒い光が駆け抜け、あっという間に周辺全てが漆黒の穴に変わった。
思わず跳んで避けていたが、当然、俺が立っていた地面もあの黒い穴になった。
――沈む……!!
かと思ったが、そんなことはなく、しっかりと両の足で着地することができた。
どういうことだ。今までの穴とは違うのか?
分からない。ただ、このままじゃ不味いことだけは良く分かる。
「ぬぅん……!!」
足元を観察していたその間に、奴は剣を振りかぶって肩に乗せる。
あんなもん乗せたら肩が消失するだろ……!!
だが、奴はそんなことを構わずに、全身の勢いを乗せて剣を振り回す。
「――ォオ……!!」
そうして振られた一閃から――壁の如き黒光が放たれた。
「はぁ……!?」
迫る巨大な光の壁。その高さ、軽く4mはあるだろうか。
多分、いや間違いなく触れたら死ぬ。
斬れるとかではない。跡形もなく消し飛んで終わりだ。
跳んで避ける――無理!
剣で弾く――もっと無理!
――動け、左目……!!
全力を込めて左目を開くと、ようやくブレブレだった視界が元に戻る。
すぐさま光の濃淡を見極め、光の隙間を探し……見つけた!
――下側ぁ!!
そこが薄いのをなんとか見つけて、全力の魔力を短剣に込めて、飛び込んだ。
黒い穴に飛び込むのは恐ろしかったが……何ともない!
触れた手が掻きむしられた様に痛むのがぞっとするが、すぐに飛び起きて周囲を見る。
すると――周囲には黒い断裂の壁が生まれていた。
「……これは……」
思わず動きを止めて、そう呟いていた。
足元に周囲――その全てが『穴』に覆われた。
そしてこれまで通りなら、この穴の全てから……奴のあらゆる攻撃が飛び出してくる。
――囲まれた。完全に……!!
いくら良く見える目があっても、疑似的に時を止められても、全方位からの連撃は防ぎようがない。
狙撃に槍撃。その全てが今すぐ襲い来る恐怖に、足元から震えが駆け抜ける。
「……ッ!!」
このままじゃ、死ぬ。
そう思い咄嗟に剣を構えるが……奴の攻撃はやって来なかった。
「……?」
奇妙な静寂に包まれ、俺は訳も分からずゼェルへと視線を向けた。
その先で、奴は剣を掲げて恍惚とした表情を浮かべていた。
「……はは、はは……ええ、ええ! もう間もなくです! もうすぐ、あなた方の下に……!!」
「……ああ?」
まるで剣に意思でもあるかのように、なにやら話しかけている。
よく見れば、その視線はどうやら定まっていない。
更に剣を握る奴の腕を這うように、剣から放たれた光が蠢いている様にも見える。
……なんなんだ? 何が起きている?
よくわからない事態に動きを止めてしまったが、直後空間を割る破砕音が鳴り響く。
周囲の穴が急速に拡大を始めたのだ。
その音に互いにハッと我に返り、奴が弾かれたようにこちらを見つめた。
周囲の黒い光のせいか、その顔は青ざめているように見えた。
「……もう、時間がない」
「お前は……なんなんだよ……!?」
叫びに返る言葉はなく、奴が黒剣を正眼に構える。
瞬間、奴の全身から黒い光が吹き上がり――空間の砕ける破砕音が次々と鳴り響いた。
呼応する様に、周囲の壁から再びあの腕たちが飛び出してくる。
その位置は前に横に――背後。
今度こそ、逃げ場のない全方位からの攻勢が始まった。
「目を残して消えろ! 腐竜の器よ!」
「……っ!!」
前から放たれる砲撃を躱す。
その瞬間視界を振って、背後から狙い撃ってきた光線を転がって避ける。
回る視界の中で、地面が揺らぐ。
――足元……!!
両腕で身体を跳ね上げ、飛び出てきた槍に短剣をぶつけた。
勢いで更に後ろに転がったところに、最後の狙撃がやって来る――ので、そのまま転がった。
「おお……っ!?」
やはり、嫌な予感が的中した。
この囲まれた状態で、退いて全部を見るなんてことは、不可能だ。
――時を止めても、意味が……!!
しかも、左目は不調。もし次にあの激痛がやってきて止まって、そこを狙い撃ちされたら……。
今度こそ、終わりかもしれない。
湧きあがる恐怖に身体は鈍り、狙撃の攻撃の回避が遅れ、脇腹の一部が抉れた。
「ぐっ……」
「ははっ、ははは……!!」
加えて、奴は動くことなく黒剣を掲げている。
何を、と思ったのも一瞬。
「――おわっ、終わりだ……これで……やっと……!!」
左目でなくても、そこには凄まじい黒い光が渦巻き始めているのが分かった。
震えるほどの力が、空間を削りながら収束している。
壁と穴で相手を捕えて、極大光ですり潰す。
どうやら、あれが奴の奥の手らしかった。
「嘘だろ……」
なんだあれ。なんなんだよあれ!?
さっきの壁なんて比較にならない。
あれを振り回された瞬間、俺は死ぬ。
「させるか……!!」
その前に仕留める。首か腕をぶった切れば止まる筈だ。
なりふり構わず飛び出すが、当然こちらを阻止する様に槍と狙撃の連撃が襲い来る。
勿論全方位。
完璧に避けることなんて不可能だ。
――それでも……!!
やらなきゃやられる。
覚悟を決めて奴までの残り数mを、一気に駆け抜ける。
足元から槍撃。壁からは熱線の狙撃。
避けて弾いて、走ろうとして槍に邪魔される。
後ろに飛べば、その背後に魔法が待機している。
咄嗟に視界を振って、時を止める。
毒撃ちを空打ちして、なんとか軌道から身体をずらす。
転がり起き上がって、再び駆け抜ける――先には、腕たちが光を携えて待ち構えている。
――全部、避けて突き進む……!!
もうなりふり構っていられない。
全力で左目に意識を集中。時を止め、奴へ至る道筋を探る――。
そう思考した、その刹那。
ぱん、と弾けるような音が頭蓋に響いた。
「――あっ」
直後。
遥か遠くから、恐ろしい速度で駆け抜けた痛みが、左目を貫いた。
「――――っ!?!?」
アンジェリカ嬢の斧でも叩き込まれたような衝撃だった。
頭蓋に激震が走り、一瞬視界が完全に消失した。
すぐさま戻るが、上下左右に凄まじい勢いで揺れ続けている。
「ぐっ……あ゛……っ」
右目は無事だが、そんな状況でまともに判断できるはずもない。
当然時は止まらないまま。襲い来る光も、槍も止まることはない。
「……っ!?」
震える恐怖に身を任せ、なんとか横へ転がり避ける。
だが左腕の一部が貫かれ、抉れて血を噴き出した。
もう治療する余裕はない。
というか、まともに思考する隙間すらなかった。
「はは、はははははは……!!」
咆哮のような奴の笑いが響く。
黒剣を覆う光は、数倍に膨れ上がっていた。
奴の顔は歪み、蕩け……なにより狂った様に笑っている。
ふと、ずるりとその光が動いた。
振り下ろすつもりだ。
「……ああ」
駄目だ、間に合わない。
身体が痛い、息が苦しい。
左目はイカれ、もうまともに前も視れない。
だってのに、あの黒い光だけはやけにはっきりと視界を埋め尽くしている。
見るだけで全身が震えるあの光。
あれがそのまま振り下ろされれば、俺は――死ぬ?
『――――痛い、痛い痛い痛い! 嫌だ、こんなの……』
……こんなところで、仇に殺されて……?
『た――っ、逃げて!』
そんな……そんなこと……。
許していい筈がないだろう?
「――ッ」
恐怖とは違う震えが全身を駆け抜け、俺はもう感触すら朧気だった短剣を握りしめる。
血が駆け巡り、短剣を勢いよく振り上げて――。
「いい加減にしろ、この野郎……!」
俺は左のこめかみを殴りつけた。
短剣の柄が皮膚を突き破ったのか血が飛び出した。
とんでもなく痛いが……構わず叫び続ける。
「左目の仇でもあんだろうが! くだらないとこで、邪魔してんじゃねえ……!!」
――見ろ!
痛む左目をぎゅるりと動かし、剣を掲げるゼェルを見る。
あれが敵だ。あれが仇だ。
俺と、お前の!
「殺してぇんだろ! 憎いんだろ、あれが!」
もう目しか残ってないお前でも、あいつに殺される瞬間はちゃんと覚えていただろうが。
わざわざ俺に、お前の記憶を見せただろうが!
あれは、『代わりに殺してくれ』って、そういう意味じゃねえのかよ!
いつか見た、腐竜がゼェルに殺された瞬間の景色が視界に浮かび上がる。
続いて、もう何度も見た、俺の家族と俺自身が殺された景色も流れていく。
その全てを視て、覚えたのはお前だ。俺じゃない。
ただの眼球だけに成り果てても、生を諦めなかったこいつが目に焼き付けた光景だ。
――なあ! 俺は記憶を失ったってのに、左目だけになったお前は覚えてるってのはすげえな、おい!
だからこそ、腹が立つ。
今まさに俺が奴と殺し合うこの局面で、俺の邪魔ばかりするこいつが。
「俺とお前は、ここであいつを殺すんだ! そのためにも――」
掠れる視界で熱線を避け、飛び出てくる槍を弾き。
避けきれずに体の一部を削られながらも、喋り続ける。
かつて生を求めて迷宮を潜り、奥へ奥へと進み続けた、同胞に向かって。
「手を貸せ、腐竜!」
腹の底から、俺は叫ぶ。
身体を震わせ、左目に響かせるように、全力で吼える。
「奴を見ろ! 全部見通せ! そうすりゃ、俺があいつを殺してやる……!!」
今だけでいい。終わったら、全部喰らって蘇るなりすればいい。
だから、頼むから――。
「お前の、目を貸せ!」
『――――』
そう、叫んだ瞬間。
ずぐり、と重たい鼓動を左目が起こし。
俺の視界が、一変した。
「……?」
ぶわりと、黒い何かが視界を通り過ぎた。
途端に左目の視界が明瞭になり、顔の半分を奇妙な感覚が覆った。
まるで迷宮側に深く潜った時のあの感覚が、常時展開されているような……。
「なんだ……?」
思わず触れた左頬は、ざらりとした奇妙な感触。明らかに顔の輪郭を越えて揺らめいている。
あの黒い穴とも違う何か……これは、一体……。
「……ッ!」
咄嗟に飛んできた狙撃を避ける。
良く見える。
光の軌跡は、さっきまでより僅かに遅く見えた。
ついで、足元に光が瞬く。
そちらに短剣を振るうと、直後現れた槍を弾いた。
……予測したのか?
――よくわかんねえが……痛みは消えた。
もう、痛みも重さもなくなった。
顔は多分おかしなことになってるが、今はそれが分かるだけで良い。
それだけじゃない。
左手に違和感。咄嗟に見れば、俺の左掌から黒いもやもやが溢れていた。
これは……。
直感に従い、左掌に短剣を突き立てた。
痛みはなく、震えるその刀身を引き抜くと、黒い炎のような揺らめきを纏っている。
まるで、奴の剣と同じように。
――使えってか?
喋りはしないが、これが腐竜の答えなのだろう。
いいね。最高だ。埋め込まれて初めて、お前に心から感謝するよ。
これで、準備はできた。
「……今度こそ……ぶっ殺す」
俺は全速力で、ゼェルへと走り出すのだった。




