第131話 白砂の迷宮第35層/大海の巣⑭
「……壁際に運べばいいのですね。ナスル、手伝ってくれますか」
「お、おう……痛ってぇ……」
簡易の治療を済ませたナスルは、それでもふらつく身体でカイたちの下へと近づいた。
彼に促され、2人でクムトを壁際に寄せる。
「……ありがたい。これで、だいぶ楽になった……」
苦しそうに呻きながらも壁に背を預けたクムトは、自身の惨状を見て思わず笑みを浮かべながらも、淡々と語り始めた。
「――ゼェルと、左目の彼……ゼナウと言いましたか。彼らはともに、湖畔の国の出身です」
「それは知ってます」
息を整えたカイが、剣を向ける。
下手な時間稼ぎは許さない。そんな意志を向けられながらも、クムトはカイに笑みを返す。
「……では、そのゼナウという彼が、かの国の『探索者養成機関』の出身であることは?」
「それは……初耳ですね」
怒気を消し――それでも向けた剣は下ろさないままカイは言った。
素直に怒りを収めた彼を微笑ましく見つめながら、クムトは続ける。
「しかも、かなり優秀だったようです。あの国には、階級に合わせて……3つ。育成機関があって、彼はその内の1つ、平民向けの主席でした」
優秀ですよね、と苦し気の吐息とともに、首を横に振る。
「まあ……だからこそあれに目をつけられることになるわけですけれど」
ゆっくりと、雨の音に紛れそうな掠れ声で。
クムトは話し始めた。
***
ゼェルという男は、湖畔の国では名の知れた貴族の出で、探索者だったそうです。
剣も魔法もずば抜けて優秀。彼はその、恵まれた能力を持って、迷宮を突き進んでいました。
ただ問題が1つ。彼の迷宮探索は……とにかく苛烈でした。
腕のみを頼りに突き進む探索に、ついていけるものは少ない。
いくら湖畔の国といえど、そんな人材は、多くはなかったようです。
気付けばゼェルは単独で迷宮に潜るようになり、深奥層で遭難。
そのまま彼の生はそこで終わる筈でした――が、それから数ヶ月後、彼は突如地上へ帰還しました。
……ええ、そうです。
ゼェルという男は、単独で数ヶ月も深奥層で活動し、生き延びていたのです。
……そんなことが可能なのか?
さあ? ただ、事実彼は成し遂げた。それも、殆ど損耗もせずに。
そんな彼には、1つだけ、変化がありました。
彼は、探索前にはなかった剣を手にしていたそうです。
そう……あの、黒い剣。
あれは、彼が迷い彷徨った迷宮の奥深くで、手に入れたものなのです。
***
「……あれは、鍛えたものではないのですか」
外から聞こえる雨と戦いの音に時折掻き消されながら、ぽつりぽつりと語られた過去。
だがその奇特さに、カイは思わず声をあげて遮ってしまっていた。
「ええ。……あなた方も見たと思いますが、あの剣には空間に作用する力がある。身や物を隠したり、本来は切り裂けないものを斬ってみせたり……彼は、その力で深奥層から帰還したのです」
「……そんなことが……」
――確かに、あの力は異質だと感じましたが……地上の物ではなかった?
カイがあの男を見たのは一瞬だった。そして、その僅かな一瞬でも、あの力の異常性は理解できた。
空間を割り、そこからあの巨大蟹の遺体を射出。更にあの暴れた異形たちを呼び出している。
魔法などでは到底説明できない、理解不能の怪奇現象と言っていい。
それこそ『迷素遺伝』や、『獣憑き』のような。
だからこそ、あの芸当はゼェルという男の持つ何か特別な力だと思っていたが……まさか、剣の方に秘密があったとは。
「ただ、迷宮で剣? そんなものが見つかるなんて、聞いたこともないですが……ナスル、知ってます?」
「いや、知らねえな。ンなもん見つかるんだったら、もっと大騒ぎになってるだろ」
そう、迷宮に文明が見つからないように、迷宮内で何か人工物が見つかったという事例はない。
倒れた他の探索者の持ち物が見つかることはあるだろうが、それもしばらく経つといつの間にか消失している。
死体も同様。迷宮で白骨死体が見つかった事例も存在しない。
時間が経てば倒れた染獣は蘇り、人の痕跡は消え失せる。
不思議な不思議な、迷宮の法則である。
そこに例外はない……筈なのだけれど。
「……そこは、私も不思議で。何度か探りを入れてみたんです。そうしたら――」
ほんの一瞬、恐らく痛みに言葉を溜め込んで。
大きなため息とともに、彼は続けた。
「『迷宮に選ばれた』……彼はそう、言いました」
「……どういうことです?」
「どうも、彼は誰かに剣を与えらたのだと、そう主張しているのですよ」
「……?」
そして、奇妙なことを言った。
剣を与えられた? 迷宮の奥で?
「……ますます分からない。そんな酔狂な探索者がいたと、本気で言ってるんですか?」
具体的な階層は分からないが、深奥層――要はこの砂漠と同じ奥深くだ。
そこを彷徨い歩いて、そこを通りすがった何者かに剣を与えられたと?
しかもその剣は、空間を裂いて異形の主を呼び出す特別製?
そんな探索者、いる筈が――。
「探索者じゃ、ないみたいですよ」
「……はあ?」
至極真面目に、彼は語る。
まるでそれが事実だとでもいうように。
「『迷宮を渡る者』――彼は、そう呼んでいました。あの剣のように空間を裂き、迷宮内を自在に闊歩する。それこそ別の階層や、別の迷宮にすら一足で移動してしまう……そんな連中が、この深い深い迷宮には存在しているのだそうです」
死にかけたゼェルは、偶然にもそれに遭遇し、剣を得た。
それが、全ての始まりで元凶なのだと、そうクムトは語ったのだった。
「それは……」
「……」
しばらく全員が黙り、雨音と主たちの戦闘音だけが響いた。
今聞いたことをゆっくりと頭の中で整理して……訳が分からないと、カイは被りを振った。
「……そんな与太話を信じろと?」
「私に言われても、困ります。ただ、彼はそう信じている……それだけ十分でしょう?」
……悔しいが、クムトは正しい。
ここで彼にあたっても何の意味もないし、情報源が彼しかない以上は、信じるしかない。
落ち着くために更に深呼吸を繰り返して、ゆっくりと口を開く。
「……ともかく、彼は剣を与えられて、思った……いえ、確信したわけですか。自分は選ばれたと」
意味は分からないが、そう納得して話を進めるしかない。
悩まし気なカイの言葉に、クムトは頷きを返した。
「ええ。でも、完璧ではなかった」
「……というと?」
奇妙な言い回しに首を傾げる。
「彼の剣に、その誰かさんのような『迷宮を渡る』力は、なかったんです。精々空間を裂く程度の力しかなかった」
「……元々、そういう剣だったのでは?」
反射的に出た問いに、クムトはさあ、と肩をすくめてみせた。
「真相は、分かりません。ただ、彼はそれを資格不足と考えた。渡された剣は『鍵』で、資格を得た時に、真の『迷宮を渡る者』になれるのだと」
「……」
「そのために、彼は染獣を取り込むのです。なぜなら……」
「……その『迷宮を渡る者』が、人外の姿をしていたから?」
自然と、そう口走っていた。
「はぁ!? カイお前、何言って……」
「……その、通りですよ」
「なんだそりゃ!?」
まさかの肯定に、ナスルが声を荒らげた。
カイ自身も驚いていた。
探索者でないと、そう断言するのだからもしやと思ったが……まさか肯定されるとは。
「……錯乱して見た幻覚では、ないのでしょうね」
溜息とともに吐き出した言葉には、頷きが返ってくる。
「あの剣が実在しなければ、ただの妄想で済ませられたんですがね。見たでしょう、あの力。彼は努力と研究の末に、極々短距離ながら空間を渡る……そんな術を身につけました」
「ここにたどり着いた、あれですか……」
大蟹を追いかけてたどり着いたカイたちと違い、奴は空間を割って現れたのだ。
それを実際に目撃している以上、否定はできない。
「あれの距離が拡大すれば、できるかもしれませんね? 別の迷宮に、渡ることが……」
カイも、ナスルも絶句してその言葉を聞いていた。
正直、訳が分からない。
――迷宮を自由に闊歩する連中がいる?
勿論、そういった噂は聞いたことはある。
だがそれはあり得ない空想を語った与太話の類だ。
それが……現実に存在していて? それを信じろと?
全くもって、ふざけている……。
「彼に近しい者なら、誰もが知る話です。なにせ、彼は施術を終えると、口癖のように、そう言うんです……ゲナールを処置した時も、そうでした」
ざあざあと降る雨を見つめながら、クムトはかつての迷宮都市でのことを思い出していった。
***
『……おおお! せ、成功だ! 適合した……!!』
あの夜――といっても、迷宮の中では明るいままだけれど。
処置用にと建てられた部屋から飛び出してきたゼェルは、半狂乱に叫んだ。
『まさか、欠けた奴が適合するとは……!! いいぞお! 素晴らしいぞお……!! は、ははは!!』
『……おめでとうございます』
『はは、まさか、欠落を埋める、そんな方法が……ああ? では、俺に何か欠落があると? ……いや、その通りだ! 俺にはまだ足りないモノばかり……おお! それを気付くための試練ということですね……!』
こちらを無視して、ゼェルはふらふらと歩いていく。
処置の後はいつもこうだ。
周りのことなどまるで分からず、あやふやな言葉を繰り返す。
視線は中空を漂い、見えない何かからの『お言葉』を聞いている。
『ええ、ええ!! やってみせますとも。俺は、あなた方に選ばれたのだ! すぐに、あなた方に並んでみせる……!!』
時折動く手は、我らに見えない何かを捕まえようとしている様にすら見える。
実際、何かが見えているのだろう。
彼が剣を使った時に出る、あの黒い何かが。
『……選ばれた、ねえ……』
こうなったゼェルは、しばらくすれば元に戻る。
ただ、こうなる時間は、どんどんと伸びていっていた。
そう遠くならずに、彼の意識は、二度と戻ってこなくなるだろう。
それを『選ばれた』というのならば、至極単純な話なのだけれど――。
『……ゼェル! あなたの身体を進化させる準備はできましたか?』
聞こえる様に、敢えて大声でそう叫んでみると、ふらついていた身体が止まった。
そのまま勢いよくこちらへ振り向いた顔は、驚く程に冷静に見えた。
『――足りん。この国にも、俺に相応しい染獣はいない。探さなければ! 俺を進化するに足る、『迷宮を渡る者』に相応しい染獣を……!!』
黒く光るその瞳に、先ほどまでの狂気は見られない。
いつもの、強烈な程の引力を宿した男がそこにいた。
……ただの気狂いではない。そこが、この男の――否、あの剣の得体のしれない所なのだ。
果たして彼が狂うのが先か、選ばれるのが先か。
結末がどちらになっても面白い。それに――。
『……分かりました。お供しますよ』
もし本当に彼が『選ばれる』のなら、迷宮を自在に闊歩する化け物に会えるのかもしれない。
……その者たちは、剣を使うのだろうか。使うといいなあ……。
そんなことを考えながら、クムトは錯乱するゼェルが落ち着くまで、その奇行をのんびりと眺めていたのだった。
***
「……施術?」
ぽつぽつと語られた思い出話の中で現れた、聞きなれない単語にカイは首を傾げる。
「人の身体に、染獣の部位を埋める、あれですよ……あれは、ゼェルにしか行えません」
「そもそも、あれはどういう原理なんです?」
単に身体に染獣の一部を埋め込んでも、ああはならないだろう。
一体どんな技術があれば、可能だというのか。
「……さあ。理解なんてとても……あれは、この世界の――いえ、地上の理とは、あまりにもかけ離れている」
「……?」
「それこそ、彼が『選ばれた』と信じるのも、納得するほどに……」
痛みと疲労の結果の、気だるげな声。そして背後からは水面を叩く雨の音。
……詳細を聞いている暇はない、か。
どのみち、ゼェルにしかできないというのなら聞いても意味はないだろう。
今知るべきは、話の続きだ。
「それで、ゼェルの目的は、染獣を探すことですか」
「……そうです。自分に相応しい染獣を探すこと。そして、それを取り込み、進化をすること――そのために、彼はこの国にやってきました」
「自分の国でやってくださいよ、そんなこと」
不満げなカイの小言に、クムトは笑う。
「当然、やりましたとも。ただ、やりすぎました」
「ふむ?」
ざあざあと鳴る雨の音に紛れる様に、熱いクムトの吐息が漏れる。
「……より強い素体を求めて、彼はあろうことか、将来を嘱望されていた若人を手にかけたのです。止められていなければ、他の育成機関の主席も、狙われていたことでしょう。国の粋を集めて生んだ3人の命を、ただ1人の男が奪おうとしたのです。それは、流石にかの国が許さなかった」
「それで国外追放……いえ、逃亡ですか」
そう呟いて、カイはちらとナスルに視線を向けた。
『――あっちの国でも、探索者ってのは貴重なんだ』
以前彼が言っていた通りということか。
貴重な探索者候補を浪費したゼェルは、その罪と、実験の危険性により国を追われたわけだ。
そして、更なる獲物を求めて白砂の国へとやってきた。迷惑極まりない男である。
しかし……。
「そこまでして、見つかったんですか? その染獣とやらは」
問いかけには、否定の首振りが返ってきた。
「まだです。だからこそ彼は焦っている。こんな、危険地帯に飛び込むほどに」
おかげで酷い目に逢いましたよ、と浮かんだ笑みは、すぐに消える。
「――ただ、希望は得られたようです」
「希望……?」
呟いたカイの問いには答えず、クムトは反対側の塔へ視線を向けた。
「あの『大海の染獣』は、我らの予想をも超えた怪物でした。あんな染獣は、見たことがない。彼は必ず欲しがるでしょう」
「……それは確かに」
階層1つを埋め尽くせそうな『海』の怪物など、聞いた試しがない。
もしそれを取り込むことができたのなら、なるほど、迷宮を自在に闊歩することもできそうだ。
「それと、彼も」
「……ゼナウですか」
「ええ。彼は、ゼェルの想像以上の適応と進化を見せました。なにせ、今なお人の姿を保っている。……奇跡だと、ゼェルは驚き、喜んでいましたよ」
それについてはカイも聞き及んでいる。
染人。力を得る代わりに、使いすぎれば埋め込まれた染獣の姿となる、代償付きの能力者。
ゲナールや、この迷宮の様々な怪物たちとの死闘を経て尚、ゼナウはその姿を保っている。
それは、どうやら思ったよりも凄いことらしい。
「もしゼェルとの戦いを経ても、暴走することなく、人の姿のままに異形の力を扱いきったのならば……」
それこそが、ゼェルの追い求めた、真の染人――に、なるのかもしれない、と。そういうことなのだろう。
そして――。
「そんな彼を研究し――あるいは殺して自分に埋め込めば……なれるのかもしれない。彼が望む存在に。それが、ゼェルがここに来た目的ですよ」
「……なるほど」
それなりの時間をかけて語られた一連の話。
未だ理解できないこともあるが、腑に落ちる点は多くあった。
奴らがここに乗り込んできた理由。その手段。
そしてこの、馬鹿げた戦いの解決方法も。
奴を殺すか、それが無理でもあの黒い剣をどうにかして破壊する。
そうればこの戦いは終わるのだろう。
加えて、ゼナウという男についても。
湖畔の国の探索者育成機関の出身で、主席。
なるほど、彼もまた特別な才を持った人間だったというわけだ。
それも、我らより迷宮技術の進んだ国で飛びぬけた才能だったと。
――いくら良い目を持っていても、ただの民間上がりがこの深奥層で戦えるはずもない。当然ですね。
なにより、訓練とはいえこの自分とあれだけ戦えた人間が民間人なんてありえない。
自身の感じていたことに答えを得た気がするカイであった。
そして、最後。
――『迷宮を渡る者』、ですか……。
正直、ここが一番の問題点だった。
改めて考えても理解のできない存在だ。
そんなものが実在するとでも……? 全くもって信じがたい。
「……」
そんな諸々の話を聞き終え、一通り考えを巡らせて。
降りしきる雨音にも掻き消されない、静かな怒りを込めた声で、彼は呟く。
「……随分と、身勝手な話ですね?」
「……カイ?」
ぎちり、と剣を握る手に自然と力が籠るのを感じつつ、カイは続ける。
「要は、奴が迷宮の奥で彷徨っている時に見た幻覚のせいでこんなことになっているのでしょう? 我々は、それに無理やり付き合わされているわけだ」
「……ええ」
「自国の人間を浪費し、我らの国でも同じ事をして、挙句の果てには王子まで手をかけた。その理由が、特別な何かになるため……? そんなことは、あまりにも、ふざけている……!!」
2つの国と多くの命を巻き込んだ事件を起こしておいて、そんな理由だと? 馬鹿なのか!?
もっとあっただろう! マシな理由が!
叫びたいのを必死に堪えて、カイは被りを振るう。
隠してはいるが疲労は限界に達していた。叫んだら意識を失う自信がある。
こんなに疲れ切っているのに、この後その馬鹿と、あの空に浮かぶ怪物と戦わなければならないのだ。
全て、あの馬鹿の暴走のせいで!
あまりにも、身勝手な話だ。付き合わされるこちらの身にもなってほしいものである。
「……そうです。全ては、あのゼェルの狂気が起こしていること」
そんな、カイの怒りを静かに受け止めて、クムトは頷く。
だがすぐに顔をあげて、カイを見つめた。
「――でも、あの男は強い」
「……」
「あの湖畔の国の追手からも生き延び、数多の染獣を屠りここまでやってきました。その強さと、あの剣の力は本物です。例えたった1人の狂気でも、止められなければ押し通ってしまう。それが、世の理というものでしょう?」
だから、とクムトは言う。
「あのゼナウという彼は、何が何でも勝って、証明しなければならないんです。あなたが、そうしたように」
「……あの剣の破壊方法は?」
問いには、否定の首振りが戻ってくる。
「残念ながら。普通の剣では、触れただけで消失します」
「……そうですか」
空間を断つ剣。迷宮を渡る異形から渡されたというそれをどうやって破壊するかなんて、皆目見当がつかない。
だが剣を壊さねばゼェルを殺すことなど不可能だろう。
壊せない剣を壊す。そんなこと、一体どうすれば……。
深く考え込むカイの耳に、クムトの声が響いた。
「まあ、ただ、あなたが心配する必要はないと思いますよ」
「……? どういうことですか?」
その問いには、クムトの嫌な笑みが返ってきた。
「彼が勝とうが勝つまいが、あなたにはあまり関係がないということです」
「……?」
そうして告げられた言葉。
その意味をしばらく咀嚼して……カイはハッと顔をあげた。
「……そういうことですか」
再び怒りを浮かべて、岩の壁に寄りかかるクムトを見つめた。
「どこまでも歪んだ人だ。吐き気がする程に」
「ふふ……ですから、あなたが来てくれて良かったんですよ、本当に。あなたが止めてくれなければ、何をしていたか、自分でもわかりませんから」
「……そうですね。俺も、あなたを止めたのが俺で本当に良かったと、心からそう思います」
大きく息を吐き出して。カイはクムトに背を向けて歩き出した。
剣も収め、最早用はないとでもいうように、無防備にその背を晒す。
「ナスル、行きますよ」
「え? ……いいのか?」
「いいんです。ここも、もうじき沈みます。まずは上に」
皆がいるのは反対側の塔だ。
どうにかして渡らなければ。
「ええ? でも……」
「いいから! 行きますよ」
「お、おう……」
歩き出しながら、カイは先ほどの言葉の意味を考える。
――クムトは、あのゼェルという男の配下として長期間行動を共にしていた。……あの、戦闘狂が、だ。
彼なら真っ先にゼェルに挑んで、殺し合いをしている筈だというのに。
つまり、クムトにとってゼェルは戦う価値がないということ。
――クムトが死合うのは、人間だけ。恐らく、あのゼェルという男はとっくに……。
だからクムトは、ああ言ったのだ。
助けに行かなくとも、放っておけば事は済む、と。
だがそれは、ぜナウを――仲間を見捨てるのと同義である。
それを良しとする程、腐っているつもりはなかった。
――強ければ身勝手を押し通せるのでしょう? なら俺は、それができる騎士となろう。
まずは仲間を助けるために。
カイは塔を渡る方法を探しに走り出すのだった。
「……ああ、喉が痛い。喋らせすぎですよ、全く」
そんな、足早に去っていく2人を見送りながら、1人残ったクムトは呻きながらも寝転がった。
向こうから吹いてくる風雨は冷たく、段々とその勢いは増している。
『大海の染獣』とやらの目覚めが近いのかもしれない。
「『大海の染獣』に、『迷宮を渡る者』……戦ってみたかったですが……」
きっと、凄まじい戦いが経験できたことだろう。
それが叶うことはもうないのだけれど……。
「でも――ああ、楽しかったなあ……」
そう呟いて。
クムトは深く心地よい微睡みの底へと落ちていくのだった。




