第130話 白砂の迷宮第35層/大海の巣⑬
『いいですか、カイ。剣には正解などというものは存在しません』
いつの日か、あいつはそう言った。
3日に1度の訓練の日。母と使用人が見守る、暖かな日差しの下で。
見慣れた鉄剣を振るいながら、クムトは告げる。
『まず、様々な流派がある。受け流し隙を穿つことを狙う剣もあれば、一刀で全てを斬り伏せる事に命を賭ける連中もいる。敵が抜く前に首を斬る、抜刀術もありますね。同じ剣を使っても、扱う術は様々にあります』
そう言って振り下ろされた剣筋は、俺の目には一切見えなかった。
恐ろしい程速い代わりに、軽い剣――に見える。
だが一度撃ち込まれた瞬間に、それは途轍もなく重い斬撃となることを身をもって良く知っている。
極限まで脱力して放たれるというその剣を見て『これなら自分にも真似できるかも』と思い憧れ、彼を師事したのだから。
そんな過去の自分を恨めしく思いながら、俺は叩きのめされ動かない身体で、彼の講釈をただただ聞いている。
『加えて魔法なんて代物がある。炎を纏う剣で、相手の装備ごと溶かし斬る……なんてのはまだ優しい方だ』
彼の手から火が生まれる。
魔法は不得手だと聞いているが、それはあくまで彼らの様な強者での話。
当時まだ子供であった俺にとっては、その小さな炎でも恐ろしく見えた。
『その上、迷宮なんてものが見つかった。あれは恐ろしいですよ。なにせ深い場所の鉱石で鍛えた剣は、我らの鉄剣など紙の様に切り裂いてしまう。我ら剣士が長い時をかけて研鑽した技など、あれの前では何の意味すらない』
『最強の剣技』なんてものはなく、そもそも剣そのものが意義を失いつつある時代――。
では、一体何のために剣を学ぶのか。強くなった先に目指すものは何なのか。
愚かな幼子の問いに、クムトは優しく微笑んだ。
『最強の剣も、意義もない。ただ、ないなら創ってしまえばいい』
いいですか、と奴は俺の前に腰を屈める。
暖かな日差しが遮られ、その美しい笑みに暗い影が落ちる。
『これより、ただ腕を磨くことは愚かと心得なさい。あらゆる技術を知り、求め――自分だけの剣を創るのです』
今思えば、未だ幼い子供相手に講釈することではない。
だが俺も母も――この男にひどく心酔してしまっていたのだ。
だから母は、家の財をたっぷりとこいつに投資して、あっけなく殺されることになる。
その金を使って、奴は更に深く迷宮に潜り――第三都市の王子に接近したのだ。
最初から、きっとそのつもりで近づいてきたのだろう。
だから思い出の中のクムトは、慈愛に満ちた優しい顔で笑う。
『いつか、あの深き迷宮の怪物たち――その全てを斬り伏せる。そのために、私は探索者となることを選びました。あなたもその道を選び、後を追ってくれることを願っていますよ、カイ』
奴の手が頬に触れる。
冷たく、鉄の匂いがしみ込んだその手を、今もはっきりと思い出せる。
『いつか、私をも越えてくださいね? あなたには、その才があるのだから』
……今なら良く分かる。
その言葉の真意は――『いつか自分を殺しに来い』と、そういう意味だったのだと。
***
雨が水と岩を叩く音が響く中、剣戟の音が鳴り響いていた。
「――!!」
「……っ!!」
互いの剣がぶつかり削れ、火花が飛び散る。
既にナスルとかなりの数撃ち合っていた筈だというのに、クムトに疲れの色は見えない。
むしろ剣技は冴えわたり、その鋭さは増していた。
――散々見て覚えたつもりだったけど、やっぱり強い……!!
クムトは様々な剣を操るが、その中でも特に好むのは『穿つ』剣だ。
半身で構え、強烈な踏み込みとともに放たれる突きは、受け方を間違えれば剣ごと貫かれる。
本来盾や鎧の普及で廃れつつあった古の剣術だが、迷宮産の武器がその価値を一変させた。
あらゆる防御を貫き得る武器の出現で、奴の不可視に近い突きは、何よりも凶悪な一撃へと進化した。
王子肝入りの、最新鋭の騎士団装備でさえ、直撃すればあっさりと貫いてみせるだろう。
1つも喰らってはならない。
故にその全てを避け、打ち払いながら。
カイはただ冷静に時が来るのを待ち続ける。
その最中で思うのは、これまでの事。
――奴には、俺のような『弟子』が何人もいた。
クムトを追い続ける過程で、分かったことはそれなりにある。
奴はカイ以外にも複数人に剣を教え、探索者になるようにと導いていた。
しかも弟子たちは全員が異なる育て方をされていた。
異なる才を見つけ、その全てを伸ばしてみせたのだ。全く大した育成者である。
これがどこぞの師範なら輝かしい功績だろうが、奴の目的は自分を追わせて、殺し合うこと。
故に弟子たちは大小の差はあれど、全員がクムトに恨みを持つように仕組まれていた。
――誰かが自分の所までやって来るようにと。そう願って種をまき続けていたんだ。
カイに与えられたのは剣と魔法の混合剣術。
右手で生み出した炎を剣に乗せ、熱と刃で敵を焼き切る剣を放つ。
迸る火の熱気に、奴の顔がほんの一瞬変化する。
垣間見えた感情は――それでこそという歓喜と、ほんの僅かな憧憬。
ああ、その力が欲しかった。
……そんな、かつて抱いた憧れの感情だ。
クムトは魔法の腕に乏しい。
だから魔法と剣の才を持つカイを見出し、育成したのだ。
両方に秀でた剣士なら、自分を殺せるのか――それを確かめるために。
――何故そんなことをしたのか。ずっと疑問でした。でも、今ならその気持ち、少しは分かりますよ。
クムトは、剣の天才だった。
比類なきその才は、すぐさま道場剣術の域を超え、彼を死合いの世界へと導いたことだろう。
だが、その先の道は存在しなかった。
精錬技術と魔法の発展で、ただの剣術は無用の長物になり果てた。おまけに、迷宮の出現で戦争そのものがこの世からなくなった。
彼が一端の剣士となった時には、彼が死合える環境は存在しなかったのだ。
剣に魅了されたクムトにとって、それはあまりにも無慈悲な現実だっただろう。
そんなクムトが迷宮に誘われたのは必然だった。
相手こそ異形の怪物たちだが、ただひたすらに剣で戦える、死合える環境に、無上の喜びを得られたことだろう。
ただひたすらに武を磨き、自分の才と共に至高へと到達する――ただそのためだけに。
――でも、それでは奴の飢えは満たせなかった。足りなかったんだ。
迷宮の怪物では、多分クムトは満足できなかった。
剣は人と人の間の武術。怪物相手のそれとは、まるで別物なのだから。
どこまでも強くなりたい。
そして――同じ高みにいる人間と、死合いたい。
その飢えと狂気に誘われた結果、このクムトという化け物が生まれたのだ。
既に2人、カイの『兄弟子』が第三都市に向かい、行方不明となっている。
まず間違いなく、クムトによって刈り取られたのだろう。
目的は果たした……筈なのだが。どうやらそれでは足りないらしい。
もっと、もっと、もっと――!!
強烈な飢えに襲われ、クムトはただひたすらに剣を磨く。
それを止めるには、彼の飢えを満たすには――剣で殺すしか道はない。
――だから、俺が殺す。
そのために、持てる力の全てを注ぐ。
「――――!!」
動きを止めようと放った火の渦を切り裂いて、クムトがこちらへと迫る。
冴えわたる剣技は魔法をも切り裂く。
動きは最小限。そのまま柄を胸の前に持ってくる構えをして――刺突が放たれる。
右腕に剣の腹を乗せ、身体の外側にずらすように受ける。
重い衝撃になんとか耐えて態勢を立て直す頃には、向こうは既に次弾の準備を終えている。
そして放たれる次の刺突は、剣の腹を狙ってきた。
折る気だ――!!
「……!!」
今度は全身の力を抜いて、敢えて刺突に剣を弾かせる。
吹き飛ばされないように打撃の直後に柄を握りしめ、剣の流れに逆らわずに距離をとった。
そこに踏み込んできての3発目。
今度は胴を狙ってきた一撃は、足元からせり上がった土魔法の岩塊に突き立った。
「む……」
「止めた――!」
引き抜く前にと首へ放った一閃は、身体を反るようにして避けられた。
大穴の空いた石柱からはあっさりと剣が抜け、飛び跳ねる様に距離を取られる。
当然の如く、刺突は岩を貫いていた。
あんなものを受ければ、胴に大穴が空く――!!
僅か数瞬の斬り合いを経て。
カイの耳に、ようやく周囲の雨の音が聞こえてきた。
「はっ……はっ……」
「……ふふ、魔法と剣の融合……素晴らしい。それが君の剣ですか、カイ」
「……ええ。この国の騎士の剣。その、最高峰ですよ」
そう言いはするが、団長であるルフトの方が上かもしれない。ちゃんと殺し合ったことがないから、良く分からないが。
……いつか、試してみたくなるのだろうか。クムトのように。
――あの人なら喜んで戦いそうなのが怖いですけど……。
ふっ、と笑みを浮かべてから、カイは剣を構えた。
ちらと見た外の光景は、いつの間にか大変なことになっていた。
黒い竜が飛び、蜘蛛が宙を動き回っていた。
そろそろ1階層も沈むころだろう。
時間がない……さっさと、決着をつけなければ。
「さあ、行きますよ。あなたの狂気を、終わらせます」
「……できるものなら」
そうして、最後の撃ち合いが始まった。
穿ち、受け、焼き、切り払う。
互いの剣の全てを込め、迎え撃ち、首を断たんと剣を振るう。
「……すっげぇな……」
なんとか血を塞いだナスルの、呆然とした声が響く。
剣にはそれなりの自信があった筈の彼にも追いきれない斬り合いが続けられていた。
碌に呼吸する暇がない、無呼吸での斬り合いが4度、5度……更に超えていく。
およそ人体には不可能な領域に突入し始めていた、その刹那。
「――おおっ!」
刺突を受け流したカイが、裂帛の気合とともに踏み込んだ。
珍しく奴が大振りをした瞬間の動き。
もはや息すらできていない中での反応は流石。
だが、ナスルはクムトの顔に浮かんだ笑みを見た。
「――っ、罠だ!」
叫び声が届く前に、クムトは剣から手を放し、素早く引き戻したその右手には、雷で編まれた剣が握られた。
――クムトは魔法を使わない。
その、カイの思い込みを利用した、奴の最後の隠し玉。
凶悪なその雷の短剣で、カイを刺し貫き、殺す――
「――カイ!!」
「――やっとだ」
――寸前に、カイの振り下ろした剣が、クムトを袈裟に叩き斬っていた。
「……がっ……あ゛……」
「……やっと、その手を出してくれましたね……待ってましたよ」
悲鳴のような粗い呼吸を繰り返しながら、カイはそう告げた。
「お゛ぁ……ぐ……っ」
クムトの右腕は断たれ、斜めに裂かれた胴もかなりの深手。
ただの人間であるクムトにはそれは間違いなく致命傷。
当然立つことなどできず、彼の身体は、水に濡れる岩床へと倒れた。
「……っま、さか、これを、防がれるとは……」
それでも、流石は探索者。
腕を失い胴を裂かれても、必死の形相でカイを見上げた。
喋れない程の激痛だろうに。血を吐き出し震えながら声を絞り出す。
「……一体、どう、やって……?」
「あなたのやりそうなことぐらい、わかりますよ。何年追いかけたと思ってるんです」
粗い息でそう呟いて、カイは噴き出た汗と血に濡れた髪をかき上げた。
剣の血を振り払いながら、ゆらりとクムトに近づいていく。
「剣と魔法を極めようとさせる俺に、『自分は魔法は使えない』と散々に刷り込んだんだ。なら、俺への奥の手は、魔法でしょ? わざわざうすら寒い演技までして……逆に分かりやすかったです」
「……は、はは……」
そう言いながら、カイは倒れたクムトの上着を剣で裂きだした。
切れ端を投げ捨て、転がり出てきた装備たちを離れた場所へと蹴り飛ばしていく。
今叩き斬った相手だというのに、一切の容赦がなかった。
「お、おい……」
「……もう、何もありませんよ……」
「俺はそうは思いません。あなたは、何をしてでも生き延びようとする人だ。ほら」
そう言ってカイが拾い上げた品は、ナスルも良く知る最高級の回復薬。流石に斬れた腕が再生したりはしないが、血は止められるだろう。
更に先ほど転がっていった物には煙幕弾もあった。
――マジで逃げられる手段、あったじゃねえか……。
この水が溜まった環境ではどのみち死ぬだろうが、今この時の死を回避すれば、生き延びる可能性はゼロではない。
そのことを身をもって知っているナスルは、そのしぶとさと、それを予知して対処したカイの行動に驚き震えた。全くもって、尋常のやり取りではない。
一通り調べ終えたカイが、これでよし、と疲れ切った重い息を吐き出した。
「それで、どうやったか、でしたね」
「……隠形、ですか?」
「は?」
「その通りです」
「はあ!?」
まさかの言葉が出てきて、ナスルは思わず声を上げてしまった。
カイの視線がこちらを向いて――ほんの少しだけ、安堵の表情を浮かべた気がした。
「最後の刺突を受けた直後に、俺の剣と腕を隠形で隠してみました。あなたは魔法発動に夢中でしたから、気付かないと思いまして」
「……刺突が全力でないのを見抜いてましたか。しかも、ナスルの技まで吸収して。流石、稀代の天才剣士ですね」
「その呼び名、全然納得してないんですけどね。……さて」
カイはおもむろに回復薬の蓋を開くと、クムトの身体に振りかけ始めた。
半ばまで断たれていた身体から白い煙が上がっていき、失われた血肉の一部が戻り始めた。
その行動に、ナスルだけでなくクムトも驚愕の表情を浮かべる。
「……おまっ、何してんだ!?」
「何って、治療ですよ。このまま失血で死なれたら、困る」
「……どういうつもりで?」
「どういうって……決まってるでしょう?」
クムトの顔に血の気が少し戻ったのを確かめ、カイは回復薬に再び蓋をして、ナスルへと投げつけた。
かと思うと、再び剣を振るう。
それはクムトの両足の腱を的確に切り裂いた。
「……っ」
右腕は未だ断たれたまま。いくら胴の傷を塞いだところで、逃げられる状況ではないだろうに。
なら、何故そんなことをしたのか。
カイは冷え切った表情のまま、告げる。
「あなたには聞かなければならないことが山ほどある。あなたの望みは叶えたんです。話してもらいますよ」
「……あなたの母のことですか?」
目的のために肉親を騙し、殺したのだ。恨みはたっぷりあるだろう。
2階層ここが沈むまではそれなりの時間がある。聞けるだけ聞いて放置すれば……復讐には丁度いいのかもしれない。
だが、カイは無表情のまま首を傾げた。
「……? そんなことはどうでもいいです」
「え……?」
「聞きたいのは、あの黒剣の男のことです。彼の能力、弱点、出自――知っている限りを話してもらいますよ」
戦いはまだ終わっていない。
暴れ回る主よりも、このクムトよりも、もっと恐ろしいらしい敵がまだ生きているのだ。
あれに勝つには情報がいる。そして目の前の仇は、その情報源に最適らしい――それが、カイの結論であった。
「ああ、それと……ゼナウ。あの不思議な左目を持つ青年についても教えてください。どうせ、あなたなら調べているでしょう?」
「……ふふ、最後まで勝つことを諦めない……やはり、あなたを弟子にして良かった……」
「そんなこと、どうでもいいんですよ」
クムトの背後に回り、僅かに離れて剣を向ける。
未だ最大限の警戒を行いながら、カイは驚くほど冷静な声で告げる。
「沈むまで時間はあるんだ。あの2人について、知ってることをさっさと話してもらいますよ」
「……せめて、壁にもたれ掛からせてください。ここじゃ、雨が刺さって傷が痛む」
背後で巨獣たちとの戦闘が繰り広げられる中。
カイは、長年追い続けた仇との戦いを終えたのであった。




