第129話 白砂の迷宮第35層/大海の巣⑫
「……なんだ、あれは?」
降りしきる雨の中、黒剣はそう呟いていた。
奴は塔の天辺、縁に立って広場を見下ろしている。
その視線の先にいるのは、カスバルとヤクルだ。
「異形化して、元に戻った。しかも左腕だけ……。染人とは違う、染獣との融合だと? 興味深い……」
――融合? あいつ、何したんだ……?
詳細は不明だが、あれは多分世界に1つだけの特殊例。
流石の奴でも見たことはないだろう。あったら困る。
あんなのが複数もいてたまるか。
「……っ」
そんなことをぼんやり考えながら、俺は荒い息を吐き出していた。
足も腕もとんでもなく重い。
右の視界は息切れで掠れ、なんとか倒れまいと支える両足は震えて仕方ない。
――しかし、体力まで化け物かよ、こいつ……。
4階層の更に上、塔の天辺まで全力で駆け抜けてきた。
その間、奴は無数の斬撃を放ち、俺はそれを避けた。
そう、奴が自信満々に放ったあの恐ろしい連撃全てを避けきったのだ。ざまあみろ。
ただ、その代償にとんでもない疲労が襲ってきていた。
喉から肺が焼ける様に痛み、とにかく空気を寄越せと荒れた呼吸を繰り返している。
正直、奴が呑気に階下を眺めてくれているのが今はありがたい。
「生きた染獣との融合。一体どうやって……そういう個体なのか? この迷宮にそんなものがいるとは聞いていないが……」
そんな奴は息一つ上がっていない。
俺と違って剣を振り回していただけだから消耗の差は当然だが……納得はいかない。
ちらと眺めた周囲の岩床には、無数の斬撃の痕がある。
あの黒い剣閃によって床は抉られ、場所によっては穴が開いている場所すらある。
流石に床を崩す程の破壊は行われていないが、恐らくそれは奴の加減によるもの。流石に足場を壊すことは躊躇ったのだろう。
なりふり構わず全力を放てば、塔すら破壊できるかもしれない。
こいつは、それほどの化け物だった。
恐ろしくはあるが……それでいい。
その方が、殺し甲斐があるってもんだろう。
――このままじゃ、すり潰されて終わる。攻撃には慣れた。次は、こちらから攻める……!!
息を整え、再び血の通い始めた身体を起き上がらせる。
「あの男、欲しいな」
「……させねえよ。お前は、ここで死ぬんだ」
のんびりとカスバルを眺めてくれていたお陰で息が整った。
立ち上がる俺を見て、奴は顔を歪ませる。
「足の1本は斬り落とすつもりだったが……貴様もしぶといな」
「だろ? お前のおかげだよ……!」
正直、奴の能力は未知数。
だがそれは奴も同じだろう。得意げに放った黒閃全てを避けきって、それでも立ち上がった俺を見て、剣を握る手に力が籠っているのがよくわかる。
これでよくわかった。
俺と左目が歩んできた道は、ゼェルの想定を凌駕しているのだと。
ならばまだ、勝ち目はある。
持てる力の全てを注ぎ込んで、こいつの意味わからんこの力を打ち砕く。
――どっちが先に根負けするか、勝負だな、黒剣……!!
破顔する俺に、奴は深く息を吐き出した。
「……認めよう。貴様はただの器ではないらしい」
そう呟いて、奴は逆手に握った黒剣を掲げ――。
「故に、本気で貴様を無力化する」
おもむろに背後へと突き立てた。
何もない筈の宙に、奴の剣が埋まって消えている。
「……?」
「貴様と、あの獣使い。どちらも連れて帰るとしよう」
「……ここから帰れると思うのか? お仲間は壊滅中だぞ」
仲間の染人は倒れ、呼び出した主たちもカトルが凍らせていっている。
奴の戦力はどんどんと削れていっているというのに……。
だが、奴は真顔のまま首を傾げる。
「仲間? あれが? あれはただの制作物。生死などどうでもいい。クムトは……あれは勝手に生き残るだろう。……そもそも」
奴は表情を変えず、こちらを見た。
「俺がここに死にに来たとでも?」
そう告げる奴の真横。
分厚い刃は視界から消え失せ、刃の突き立った空間にひび割れが発生している。
それはだんだんと広がっており――直径1mを超す大穴になっていた。
「――っ」
「さあ、次だ。貴様の全てを見せてみろ」
そう言って奴は剣を真横に振り抜いた。
空間を砕くように断裂は大きく広がり、空間に真っ黒い太刀傷が現れる。
そしてそこから――異形の腕が2本現れた。
「は――?」
どちらも右腕。色も形も異なるそれらから、全く同じ黒い光が渦を巻いて、解き放たれた。
空を焼く黒い光線が、腕に合わせて薙ぎ払われたのだ。
「……っ!? なんだそれ……!!」
剣に纏ったあの光とほぼ同じ、黒い光線。
当然詳細は全く分からない。
ただ、熱を感じるのと、触れたら抉られるのでとにかく避けるしかない。
てか、やっぱりまだ異形を持ってやがった。
迫る2本の光を屈んで、跳んで、避けたその刹那。
奴が眼前に踏み込んで、剣を振り上げた。
「――まずは、右腕を貰おう」
「ざけんな……!!」
こちらは空中。足場は迫る黒剣ぐらい。
仕方なく毒撃ちを地面に当てて身体を吹き飛ばし、振り下ろしを避けた。
杭は消失。地面も深い太刀傷――『穴』が刻まれた。
その『穴』から、今度は別の腕が槍を持って飛び出してきた。
「……っ!!」
槍自体はただの金属槍なのか、黒い光は見えない。……が、足元という視界の隅から伸びてくる一撃は、あまりにも避けにくい。
「まだまだ、終わらんぞ!!」
外からは魔法の狙撃。
奴の剣撃を避けてもそこから追撃が襲ってくる。
1体1の筈なのに、全方位からの攻撃が始まった。
***
ゼナウが戦う塔の、反対側の左側の断片――その2階層にて。
3人の男たちが対峙していた。
「……はは、やっぱ、強ぇえな……」
「あなたも、存外粘りますね」
乾いた笑いを浮かべるのは、ナスル。
その全身は血と水に濡れており、だらんと垂れた両腕は、剣を握るのもやっとという状況。
対するクムトは僅かな切り傷がある程度。
数こそそれなりにあるが、深手とはいえない。
「剣の腕には自信あったんだよ。お前程じゃねえけどな」
「まあ、確かに。あなたじゃなきゃとっくに死んでいますよ」
「はっ、そりゃ光栄だなぁ……!!」
地の底から響く様なその声に、クムトは思わずといった風に笑みを浮かべる。
「好きですよ、あなたのその生き方。何が何でも生き延びる。そのために努力は怠らない……が、怠けるところは徹底的に怠ける」
「おい、それ褒めてねえだろ」
「褒めてますよ? なんというか、健気で、可愛らしくて」
「……」
剣の腹についた血を指でなぞって、ゆっくりとナスルへ向ける。
「必死に藻掻いて、生き延びて――最後は強者に食われて散っていく。空しいですね?」
「……好きに言えよ」
激高などしない。
奴のにやけ顔は、まさにそれを期待しているのだから。
今も隙だらけに見えて、全身に凄まじい気迫を纏わせているのが良く分かる。
いつでも動ける……だからこそ、こちらを制御しようとしているのだ。
より楽に、確実に勝つために。
――もしやイケるかとも思ったが、ダメか。やっぱり強ぇな、こいつ……。
ただの剣技に、隠形を混ぜて意表を突く。それがナスルの剣だったのだが……全て防がれた。
残念ながらナスルにはそれ以外の能力はない。
剣で勝てない相手には、どうあがいても勝てない。
能力を手に入れる機会ならあった。なにせ第三都市にいたのだ。
あのゼェルなり、第三王子なり。誘惑はそれなりにあった。
ただ、ナスルはその全てを避けてきた。
――俺は人間だ。化け物になんかならねえよ……。
およそ人としてはまともな人生じゃなかったかもしれない。
だが、だからこそ。死ぬ時は人間でいなきゃならない。
そう思い笑うナスルに、クムトは首を傾げる。
「で? まだやります?」
「……いや、オレはここまでだ」
「でしょうね。では――」
呟き、姿が消える。
次の瞬間には奴は眼前に現れ、振り下ろした剣がナスルの両足を深く切り裂いた。
「……ッ!!」
「交代ですね」
そのまま奴に腹を蹴飛ばされ、身体が吹き飛ぶ。
そんなナスルと入れ違うように飛び出す影が1つ。
待ってましたと、その剣を受け止めたクムトが嗤う。
飛び込んできた男――カイに向かって言葉を投げかける。
「少しは落ち着きましたか?」
「……おかげさまで」
その言葉は、恐らくは背後のナスルに向けられたもの。
両足から血を流しながら――それをなんとか止めようとしながら、ナスルは拳を突き上げた。
カイの勝利に全てを賭けて。
それを視界の端で捉えて、カイは小さく頷いた。
――動きは見れた。考える時間も貰えた。……もう、負けない。
「今度こそ、あなたを殺します」
「期待してますよ」
互いに獲物は武骨な直剣。
かつての師と弟子。今は死合う仇と追手。
カイとクムトの戦いが、もう片割れの塔で幕を開けた。
***
「――ふん!」
鼻息荒い声と共に、黒い一閃が放たれる。
屈んで避けた真上から、巨大な金属塊が空を切る音と、空間の割れる破砕音が真上から鳴り響く。
「……っ!?」
上から響く嫌な音に、すぐさま右側に身体を転がす。
立っていた場所に金属の槍が突き立った。
あの剣が切り裂き生まれる空間。その先は奴の保管庫か何かになっているらしい。
あの中には奴の貯蔵した『兵器』が眠っているようだ。
なにせ出てくるのは異形の右腕だけ。しかもその見た目はバラバラだ。
広場で暴れている主もどきや染人未満の、未完成品を出してきているのか、そういう兵器として作ったものなのか、詳しくは分からないが……。
ともかく奴の剣閃で開いた扉――『穴』から、腕やら武器やらが飛び出して来て襲い来る。
厄介なのは、開いた穴は閉じないということ。
流石に武器に限りがあるのか、腕自体は精々4本程度だが、空いた穴のどこから出てくるかが全くもって分からない。
しかも時折奇妙に光る。驚いてそちらを見ても、武器も何も出てこないのだ。
陽動まで仕込んでくるとは、厄介極まりない。
足元から、真上から、背後から。
奴が振り回した剣の軌跡が空中に残され、そこから追撃が襲い来るのは……流石にキツイ!
「見えない攻撃はどう避ける?」
――知らねえよ!
顔を振って、無理やり視界に収める。
ほんの僅かな揺らぎを見て、そこから予測するしかない。
それだけならほぼ勘。そして運は悪い自信がある。
だから――奥の手を使うしかない。
「――――!!」
全力で飛び退きながら、左目に意識を集中。
左目がぎゅるりと蠢き、視界が静止する。
黒剣も飛び出る腕たちも動きを止め、左目だけが動く世界が訪れる。
足元など死角にも『穴』はあるが、今は視界内に集中。
腕が飛び出てくる揺らぎがないかを確かめ――ややこしい光があるが――なんとか見つける。
どうすれば避けきれるか考え、数瞬。
止まった時間が動き出す。
「おお――!!」
右奥、伸びた赤い腕から黒い光が飛んでくる。
前に屈んでそれを避け、左上からの薙ぎ払いを加速して躱す。
まさか近づいてくるかと破顔するゼェルの剣が振り下ろされる。
時を止めても、こいつの動きだけは分からない。故に全力で回避するしかない。
なんとか避けて、次。
下側の穴から槍撃。近づいたせいで魔法から切り替えたか。
これは短剣で弾いて良い。
次は左側の――。
槍を弾く手に力は籠めつつ、意識は次の腕に向けていたその瞬間。
穂先に触れた短剣が、想像よりも深く沈んだ。
そして来る筈の衝撃がやって来ない。
「――!?」
よく見れば、穂先はいつの間にか黒い光を纏っており。
ぶつけた短剣の刀身が、浸食されるように抉れていた。
――マズい……!!
咄嗟に短剣から手を放し、流れようとする身体を全力で食い止め、左に転がった。
だが勢いは殺し切れず、突き抜ける黒槍が右腕の一部を掠める。
装備とともに肉が消失。悍ましい恐怖と激痛が傷跡から脳髄へと駆けのぼる。
「……っ!?」
血が噴き出るのも構わず両手で地面を押して飛び起きる。
最後の腕から放たれた魔法を、再び飛び退いてなんとか避けた。
「はっ……はっ……」
「やっと受けたな」
「……痛ってぇ……」
肘の少し先の肉が抉れた。
腰鞄から回復薬を取り出しぶっかけるが、それもまた激痛。
薬としての効率は最悪だが、とりあえず止血だけできればいい。
……そういえば、これ、落ちるのだろうか。
そう思って試しに空き瓶を近くの穴に放り込んでみると、そのまま落ちて消えていった。
やはり、あれは何かしら別空間に繋がっているようだ。
しかし――。
――油断した。剣に付与できるなら、槍にもできるよな……。
今までは槍の攻撃を比較的安全なものとして対処していたが、そこを奴は突いてきた。
しかも、頼りの武器を失った。
まだ予備の短剣はあるが……質は劣る。
一連の行動をじっくりと眺めていたゼェルは、悠然と笑う。
「予備はそれで終わりか?」
「……」
1つ1つ、こちらの手札が破られている。
奴のことだ。時止めに気付いていても不思議はない。
分かっていなくても、直ぐに辿り着く可能性もある。
そして奴のあの穴は、時止め対策に適している。
これでますます時間が無くなった。
奴が俺の時止めに気づいていない今のうちに倒し切らねばならない。
「さあ、もう一度だ」
そうして再び始まるゼェルの連撃、そして穴からの追撃。
今度は全てが防げない絶望の攻勢がやって来る。
それでも、俺は時を止める。
無理をしてでも奴に深手を負わせなければ――?
「……んん?」
時の止まった視界の中。
幾つも広がる穴の中で、奇妙に光るものが1つ。
それはゼェルの背後に開けられた穴で、そこには腕でも武器でもなく、光る文字が浮かび上がっていた。
――文字? なんでんなものが……。
そういえば、さっきから妙に光る穴があったな。
大体ゼェルの背後にあったり、遠くにあったりでちゃんとは見えなかったんだが……もしかしてずっとなんか文字が出てたのか?
離れているのでなかなか見えにくいが、それでもなんとか目を凝らして文字を見つめる。
そこに書かれていたのは――。
『穴は壊せる。魔力を叩き込め』
そんな、まさかの助言であった。
「……?」
なんだ、それは。
敵の穴から、その敵に関する助言が飛び出てきた?
そんなことあるわけが……。
――やばっ、時間がない……!!
おかしなことに気を取られ、気付けば時止めの残り時間が切れる寸前。
腕の出現位置について考える暇もなかったじゃないか。
こうなったら……仕方ない!
時が動き出したその瞬間。
俺は身体を捻り、間近にあった穴へと魔力を込めた短剣を振り抜いた。
すると――。
「――切れたっ!?」
一撃を叩き込んだ穴から破砕音が鳴り響き、黒い穴を斬ることができた。
半ばから断たれた穴は黒い塵を残して消失していき――何もない空が残った。
「む……!!」
「これなら……!!」
対処ができる!
追って飛び出してきた腕の連撃を回避しつつ、道中にある穴を破壊する。
何なら腕が出てくる前の穴を壊せば、攻撃を阻止することすらできる。
元々攻撃は避けられてるんだ。穴を全て壊して、時止めを駆使すれば――届くかもしれない。
すぐさまやって来るゼェルの黒剣を避け、俺は笑う。
「奥の手はそれだけか?」
「貴様……!!」
やることと疑問は増えたが今は無視。
再び左目に意識を集めつつ、俺は攻勢を開始した。




