第122話 白砂の迷宮第35層/大海の巣⑤
カシャカシャ、ポコポコと音が鳴り響く。
翌朝、準備を終えて塔の中へと入った俺たちを出迎えたのは、そんな賑やかな音と、塔の至る所から顔を覗かせる無数の蟹たちであった。
各階層の縁を埋め尽くすかのように、蟹の群集が俺たち侵入者を見下ろしている。
「え、な、なんで……?」
「これは一体……いつの間にこんなに増えてたの……!?」
全員が驚き足を止める。
視界を覆う無数の蟹に咄嗟に武器に手を伸ばすが、それ以降の動きはなかった。
奴らはただただ無数に犇めき、こちらを――正確には裂け目の広場を見下ろしている。
「……襲ってくる、というわけではないのか」
「蟹は蟹のままということ? でも、この状況は……」
ここは平穏で何も無いと、高を括って油断していた。
やはり迷宮は迷宮なのか、異変は突如として姿を現したのだ。
慌てて左目で覗いてみたら、見えていない洞窟の奥にも無数の光が詰め込まれている。
最初に来た時の数十倍……いや、もっと多くなっているかもしれない。
地上部分にもひしめく蟹たちは、物言わずにこちらを見つめている気がした。
「昨日の時点では、こんなにいなかったよな?」
知らずに震えた声でそう問いかけると、皆銘々に頷きを返す。
確かに増えてはいたが、ここまで周囲を埋め尽くすほどの数はいなかった。
「下手したら倍増しているぞ……主が運んだにしては明らかに多すぎる」
「俺らがいない間に運んでいたとでも……? いや、それにしたって……」
その主の姿は今は見えない。また外から蟹を運んでいるのだろうか。
まさか、これ以上増えるのか?
そうなるともう探索どころではなくなるぞ……!!
「急がないとまずいか、これ」
「……そうね。この状況は気にはなるけれど、まずは目的を果たしましょう」
「ああ。あの構造物に急ごう」
不思議なことに、あの玉までの間に蟹は居ない。
凸凹と歪んではいるが、蟹たちは壁のように整列して道が作られている。
まるで、誰かが歩くためにそうしているかのように。
「……あれ?」
意を決して歩き出した直後、真横の蟹の塊の中から一回り小さい蟹が飛び出した。
こちらを見て嬉しそうに――かは分からないが上下している。
「あ、小蟹ちゃん」
カトルに撫でられている姿は、いつもの小蟹である。
彼?はこの異変の影響を受けていないのだろうか。
不思議に思っていると、彼はそのままカトルの前に進み出て、また上下を繰り返す。
「案内してくれるの? ありがとう」
『――――!!』
笑みを浮かべたカトルにカシャカシャと音を鳴らしている。
なんで染獣が懐いてんだよ……。
カトルが凄いのか、この小蟹が特別なのか。
ともかく身体を揺すって催促をしている小蟹君。
害もないし邪魔するわけではなさそうなので、そのまま一緒に進んでいく。
その間も周囲の蟹たちはカシャカシャと音を鳴らしながら、泡を吐き出している。
「……不気味ね」
「カスバル、クルル。異変があれば報せろ。盾で防ぐ」
「ああ」
しばらくは蟹たちの音色を聞きながら、足早に奥へと進んでいく。
少し歩けば焦っていた心も落ち着き、周囲を観察できるようになってきた。
蟹は多いが――それが問題なのだが、それ以外は今まで通りのいつもの光景に見えた。
いや……違和感は他にもあった。
「なんか、泡の量が多くないか?」
「確かに。あんなに吐き出して、乾いたりしないのかな? でも、色んな光で反射するのは奇麗だよね」
「ちょっと、あんまりのんびりしちゃ駄目……っ、止まって!」
そう言って、アンジェリカ嬢が慌てて屈みこんだ。
彼女はそのまま伸びた草に触れると、その手を横の鉄塊へと向ける。
「ファム、これ……」
「ふむ? ……水滴か」
「え? 水があったの?」
「水……と言っていい程じゃないかもだけれど、ほら」
アンジェリカ嬢が示した先。俺たちが踏みしめていた草地に、朝露のような水滴が幾つもあったのだ。
この塔を調べ始めて数日、ここまで明確に水が現れたのは初めてだった。
「この水はどこから?」
「……多分、蟹たちだろう。あれだけ泡を吐き出してるんだ。ここらの水分量が増えていても不思議ではない」
「水が増える……まさかね」
気になることはありつつも。
その後は何も起きることなく、目的の構造物まで辿り着いた。
「……思ったより、ずっと大きいわね」
地上から伸びた円錐の上に刺さった、岩でできた奇妙な球体。
遠くからではわからなかったが、その高さは俺たちの数倍。その上に刺さった球体に至っては直径3mは優に超すだろう。
この不思議な場所で、塔に次いで奇妙な構造物。
その真下へとたどり着いた瞬間、全員が言葉を失った。
「……光っている?」
誰かが、絞り出すようにそう言った。
そう。真上や横からだとただの岩の玉にしか見えなかったそれは、実は下側部分だけ欠けていたらしい。
その奥には一回り小さな玉が埋まっており、そちらの玉――青玉はまるで硝子のように透き通り、波のように揺らめく青い光に満ちていた。
「綺麗だけど、なんか怖いね、これ……ずっとこうだったのかな?」
「いや、それはない……筈だ。いくら何でも、誰かが気付くだろう。こうなったのは、つい最近の筈」
「ゼナウ、あなたの目で――」
震えるアンジェリカ嬢の言葉に、即座に首を横に振る。
「見えなかった。これまで一度も……いや、正確には、今も!」
「……どういうこと?」
こうして真下から見れば流石にわかる。
蟹なんて比べ物にならないくらいに強烈な光を青玉は内包していた。
だが走って離れて、外から――岩の殻に覆われた部分を見てみると、途端に光は消え失せる。
「多分、いや間違いなく、この外側の岩が透過を防いでる。俺の目以外の探知も効かないんじゃないか?」
「まさか、あなたの目も欺いているの? 索敵耐性があるなんて、この構造物は一体……」
全員が驚き、少しだけ構造物から距離をとる。
俺たちのこれまでの経験がまるで通用しない場所に、この奇妙な構造物。
ここは……一体なんなんだ!?
皆一様に目の前の異変に硬直していた俺たちであったが、そんなことお構いなしに玉へと距離を詰める存在が1つあった。
「……小蟹ちゃん?」
『――――!!』
俺たちのことなんてまるで無視したように、小蟹は玉の真下へと歩み出でた。
今、岩の円錘の周囲には青玉から放たれた青い光が反射している。
円形に映し出されたその青の中に入った蟹が、カシャカシャと身体を上下させ、小振りな爪を振り上げた。
その瞬間、足元に広がっていた青い光がぶわりと広がり始める。
少し離れた俺たちへと光の波が迫り、到達するかと思った寸前、光は動きを止めて元の場所へと戻っていった。
「こ、小蟹ちゃん? 何をして……」
カトルの声にハッと気づいて蟹を見れば、いつの間にか爪を下ろしていた。
……まさか、連動している?
だが小蟹はカトルの言葉に応えることなく、再び動き始めた。
小蟹が爪を振り上げると光は広がり。
今度は振り下ろして、それに合わせて光が後退していく。
そしてまた振り上げると――再び光は広がった。
やはり蟹の動きと連動しているかのように青い光は動き、そしてその動きは次第に大きくなり始めていた。
「なにが起きてるというの……?」
広がっては閉じる青い光は、俺たちの足下を通り過ぎては戻っていく。
露に濡れた草地の感触も相まって、それはまるで――。
「これ、波みたい」
「そうだな。光が見せる波のよう。……水はないのに、不思議だ。これじゃ、まるで――」
――海の様だ。
誰もが浮かんだその言葉を、誰かが口にした。
それを合図にしたかのように、周囲の蟹たちが一斉に蠢き始めた。
『――――!!』
ずらぁっ、と甲殻の駆動する音が鳴り響いた。
軋む唸りをあげ、蟹たちは硬い甲殻を岩に叩きつける。
それは塔の岩に反響して奇妙な音を響かせ、まるで太鼓の音の様に、独特の鼓動を塔の内部に刻み始める。
「……っ!? なんなの、この音は……!!」
「怒り……ではないな。襲い掛かってくる気配はない」
「当たり前でしょう。私たちは何もしていない……!!」
だが、蟹たちは怒り狂っているとしか表現できない程に、爪を振り上げては叩きつけている。
中にはその衝撃で自壊している個体すらいた。それでも、蟹たちは止まる気配を見せていない。
「なら、奴らの生態だとでも? カスバル、何かわかるか?」
「知るか! こんな生態があってたまるか。これじゃまるで、儀式だ」
「儀式……まさか、『大海の染獣』とはそういうものなのか?」
小蟹の動きに合わせて青い光が満ち、追随する様に蟹たちが蠢き音を鳴らす。
それはどんどんと強さを増していき。いつの間にか青い光は円錐どころか塔の壁面まで照らし始めていた。
拍動する音は強さを増して、俺たちの鼓動も、吐く息の間隔すら早まっていく錯覚に陥る。
訳も分からない状況の中、鉄塊が盾を構えて叫んだ。
「全員、構えろ!」
「構えろって、この数の蟹と戦う気!?」
「分からん! だが、これは……!!」
無数の鼓動が反響し鳴り響く。
周囲では皆が訳も分からず背を合わせ、警戒に入っている。
ただ、俺とカトルだけはそれに対応ができずにいた。
「小蟹ちゃん……どうしたの?」
カトルは、突如として奇妙な行動を始めた小蟹に驚き、呆然としていた。
その手が俺の裾を掴んで、揺さぶっている。
「ねえ、ゼナウ。小蟹ちゃんが……ゼナウ?」
「……!!」
だが、俺は彼女にも反応ができなかった。
鳴り響く音も、増していく光の強さにも気づかずに、呆然としていた。
なにせその瞬間の俺は、彼女よりも、皆よりもずっと驚愕していた自信がある。
何故なら――。
「視界が……晴れた」
「……? ゼナウ?」
「見えるんだよ、左目が、いつも通りに!」
この岩の塔に来てからというもの、ずっとぼやけていた左目の視界。
使いすぎて限界を迎えたのかと思っていたのだが、それが今、凄まじい勢いで鮮明になり始めていた。
ぼやけていた蟹たちの輪郭は鮮明になり、見通せなかったより遠くの光までもがはっきりと判別できるようになっている。
たった今身体の異常が治った……なんてことが丁度良く起きる筈がない。つまり――。
「……そうか。目がおかしくなったんじゃないのか」
「え?」
「この空間にずっと、水が満ちていたんだ。霧みたいに、普通の目じゃ見えないくらいの水が、ずっと……」
ルトフたちが言っていた、水の半減。
そして徐々に集まっていた蟹が、やたらと泡を吐き出していたのも。
どちらも、この空間に水を満たすために起きていたということらしい。
それが今、急速に消えていっている。
いや、集まっていっている。
視界から消えていくもやもやの行き先は――背後にある、あの青く輝く球体だ。
「ゼナウ!? 一体何をぼさっと――」
「水が集まってる!」
「え――?」
突然叫んだ俺に呆然としているアンジェリカ嬢たちに構わず、一心不乱に球体を指さした。
そして、叫ぶ。
「蟹と、水玉! そこから出てた水は空気中に漂っていたんだ。この玉に吸わせるために……!!」
潜った左目の見つめる先。
ぎゅるりと渦を巻くようにもやもやが集まっていく。
蟹を集めて、水を集めて。
それは今、生まれ出る条件を整えた。
『――――』
『――――』
ふと、蟹たちが動きを止めた。
あれだけ騒がしかった広場が、一気に静寂に包まれる。
「……」
「……何? 急に、静かに……」
何もできず、呆然と立ち尽くす俺たちを余所に、小蟹は仕上げとばかりに両腕をあらんかぎりに振り上げた。
それでも何も起きない――そう思った、直後。
「……何か、聞こえる?」
「ああ。これは、……波の音か?」
耳に、遥か遠くから大気を揺らす音が押し寄せ始めていた。
始めこそざあざあと、船の上でよく聞いたような波の音だった。
が、次第にそれは地響きのような轟音へと様子が変わっていって。
「これが……波の音だって?」
「そもそもどこから鳴っているの、これ?」
咄嗟に視界を振るが、どこにも水の気配はない。
よく耳を済ませれば、このどうどうと鳴る音は外からではなく、目の前の青玉から響いているようだった。
玉の奥底から、巨大な『水』が到達してくる――そんな音に聞こえた。
「……これは……」
「やはり儀式か。蟹が集まり水が集まったその時、真の主が現れる。この塔は、そういう仕組みの場所なのだ。そして今、それが成った」
「それって、つまり……」
震えるアンジェリカ嬢の言葉に、鉄塊が頷く。
「来るぞ、『大海の染獣』が」
鉄塊がそう呟いたのと同時。
遠く響いていた怒涛が遂に俺たちの下へと到達した。
巨大な波が崖にぶつかる様な、水の砕ける音が鳴り響いた。
青玉の果てに怒涛が激突し、圧倒的な水の質量は世界を隔たる壁を壊したのだろう。
結果、ごぽりと青い球体の輪郭が溶け――玉から渦巻く水が突如として迸った。
「きゃっ――!?」
玉から溢れ出る様に放出された水飛沫と豪風が吹き荒れ、倒れそうになったカトルの身体を抱き留めた。
「平気か!?」
「う、うん。でも、凄い風――!!」
玉に近い位置にいた俺たちは、煽る風を必死に堪えた。
目の前では巨大な幹の如く太い水の柱が、渦を巻くように球の周囲を回り、空へと立ち昇っていく。
どうどうと瀑布のような轟音が響き、水を含んだ冷えた風が辺り一面にばら撒かれる。
『――――!!』
蟹たちが歓喜したように蠢き回り、左目の視界が騒がしい。
それでも襲ってくる気配がないのが信じられないくらいの騒音とどよめきが周囲に、塔の内部へと伝播し続けている。
「ね、ねえ!? なにあれ!?」
「……海」
「ちょっと、アンジェ!? 危ないよ!?」
呆然と呟いたアンジェリカ嬢が、ふらりと前に進み、手を渦巻く水流へと伸ばした。
当然遠く届くはずもないが、その手が降りしきる雨の如き水に濡れる。
「見て分かるでしょう! あれは、海! 『大海の染獣』よ!」
「あれが……!? ただの水だぞ!?」
「まさに大海! あれが手に入れば、この国はきっと……!!」
――どう見ても染獣じゃないだろ!
そう叫びたかったが、そんな余裕はなかった。
豪風と化した吹き下ろしに何とか耐えながら、武器を構えるのがやっとだった。
それでも嬉々として水流へと立ち向かったアンジェリカ嬢が、斧を構えて吼えた。
「全員、構えて! 蟹は無視! 『大海の染獣』に、備えるわよ――」
「……!! 待てアンジェ!」
だがその肩を鉄塊が抑えた。
「邪魔しないで! 今があいつを討伐する絶好の――」
何を……!!と憤るアンジェリカ嬢を制して、彼は水流と真逆の、塔の入口方向を指さした。
「そうじゃない! 入口だ、見ろ!!」
「え――?」
驚き振り返り、異変を察知して上を見る。
巨大な塔の裂け目――を通り越して、高い高い塔の4階層の更に上。
そこには、赤く輝く光が打ち上げられていた。
「――嘘」
あれは、曳光弾だ。
見張りのカイとナスルに持たせたもののうち、赤い光が示すものは……侵入者。
それも、目的の人物がやってきた時の、緊急事態を報せるものだった。
「マジかよ……よりによって、今来るのかよ」
災難は、こちらに一切の容赦なく叩きつけられる。
何度も繰り返し体験し実感したその言葉通り、『災難』は入口の方から飛来した。
「……?」
最初はゆっくりと浮かび上がる小さな影。
だがすぐにどんどんと大きくなって速度を上げてきたそれは、直後凄まじい勢いで俺たちの眼前へと落下した。
「な、何なの……次から次に!」
「……あれ、城塞握砂蟹じゃないか?」
「は? ……本当だ」
俺たちの前に墜落したのは、本来の主である大蟹だった。
その身体は半壊しており、中身だろう筋のような身と、水のような体液がでろりと流れ出ている。
明らかに死んでいる。それも圧倒的な破壊の痕を残している。
それが入口の方から吹き飛んできたのだ。
つまり――これを破壊を成した奴が、ここまで到達したってことだ。
それは間違いなく……。
「……騒々しいな、ここは」
ごつりと、踏みしめる音が響き。
両断された大蟹の死骸の上に、1人の男が姿を現した。
全身を覆う黒い衣服。撫でつけた黒い髪。
そして黒く輝く、奇妙な形の黒い剣。
滾る様な生命力を宿した、武骨で厳つい顔が、俺たちを睥睨した。
湖畔の国の、黒剣の男。
俺の仇といえる男が、遂にその姿を現した。
「――どうやら良い時に来たらしい」
「――最悪ね。なんで今来るのよ……!!」
互いの言葉が交錯する。
そしてそれを塗りつぶすように、『大海』の轟音が鳴り響く。
背後で『大海の染獣』の出現は続いている。
しかし目の前には、俺を狙う仇が現れた。
どうやら、最悪の混戦が始まるらしい。
震える体は、興奮か恐怖か。
分からないが、俺は濡れる短剣の柄を掴んで振り上げ、張り裂けそうなくらいに笑っていた。
「……やっとだ。やっと、この時が来た」
こいつを殺せば、全てが終わる。
記憶を失い目覚めてから続いた悪夢が、やっと覚めるんだ。
――ここで必ず、お前をぶっ殺す……!!
こうして、俺にとっての最後の戦いが、遂に幕を開けるのだった。




