第119話 白砂の迷宮第35層/大海の巣②
ほんの少しの休息を挟み、俺たちは岩の塔へと進みだした。
降り注ぐ陽光はほんの少しだけ弱く、そのせいか暑さも緩んでいる……気がする。
砂漠に慣れただけなのかもしれないが、それでも過ごしやすくなるのはありがたい。
まずは目の前にどでかく開いている亀裂を目指すのだが、そこまでの移動区間は不自然な程に平穏であった。
「静かだな……塔の周辺に染獣はいないのか?」
「どうもそうらしい。これだけの広さだ。何かしらいそうなものだが……こうも静かだと却って奇妙だな」
それでも警戒は緩めずに進めていくが、速度だけは上げていく。
その最中、周囲を眺めていたカトルがふと呟いた。
「ねえ、あの城塞握砂蟹はどこに行ったんだろう」
「……そういえばそうだな」
先ほど透過した視界にも、今も。あの巨大な後ろ姿はどこにもなかった。
なんならこの場所に到着した瞬間には消えていたよな。
そう簡単に見失う巨体ではないだろうに、一体どこに消えたのだろうか。
「あるとしたらあの塔の奥か? 直ぐ近くにいるってわけじゃなさそうだが……」
「ふむ。もしや、主2体と戦う可能性があるのか?」
「あり得るだろうな。ここが奴らの巣ならば」
鉄塊の疑問に、頷くカスバル。
それを見て、アンジェリカ嬢がうわ、と表情を歪ませる。
「私たちは染獣たちの巣に飛び込むってわけ……。入った瞬間に襲撃なんてごめんよ?」
「クルルがいるから問題ない。ゼナウもいるしな」
「……あんまり過信はできないんだけどな」
監獄島の鰐の件があったから、左目の情報を信頼しすぎないよう気をつけている。
できる限り他の情報も集めて判断しなければ、『万が一』があり得ると学んだからな。
というわけで改めて周囲を観察。
塔へと続く砂漠は、これまでの柔らかな砂地というよりは荒野に近く、そのせいか起伏が殆どない。
周りからは丸見えだが、染獣が飛び出してくる心配は少ないだろう。
それ故に安全な拠点形成は難しそうだが……近づく分には楽でいい。
が、塔までは思った以上に距離があった。
「結構遠いのね。ここは歩きやすいから、そう時間はかからないと思ったのだけれど」
「そうだな。ただこうも離れた場所であの大きさなんだ。あの塔の、実際の大きさは――」
結局戦闘もないまま、数時間をかけて岩の塔の麓にたどり着いた。
カスバルの呟きの通り、目の前に鎮座するその構造物を、俺たちは首が痛くなるほどに見上げることになる。
「なんて、巨大な……」
目の前には断裂部分が大きな口を開けている。
俺たちがいるのは右側の壁際付近。反対側の壁までは優に百mはあるだろうか。
砦のような規模の城塞握砂蟹でも問題なく通れるだろう空隙は、当然縦にも長い。
「上の階?までずっと遠い……シュンメル家のお屋敷より高いんじゃない?」
「そうね。4階建ての屋敷と大体同じ高さくらいかしら。それが……4層? こんなもの、人工ではとてもじゃないけど建てられないわね」
人工にしては途方もなく巨大で、かといって自然にできたとも思えない、奇妙な岩の塔。
どうやったらこんなものが生まれるのか……その威容に、全員が思わず息を呑んだ。
『大海の染獣』の巣だとしても納得の迫力がそこにはあった。
「……広いな」
「そうね。一体どこに隠れているのか。簡単には見つかってくれないでしょう。……ともあれ、入りましょう。カスバル、ゼナウ、確認を」
「ああ。……?」
迷宮側に潜って岩の向こうを見るが、やはり上手く見通せない。
痛みもなく、目の不調だとは思えない。これは一体……。
「ゼナウ?」
「何でもない。大丈夫だ」
とはいえ近距離であれば問題はない。
限界か、別の理由か。
……あと少しで良いから、持ってくれよ。
そう願いつつ、アンジェリカ嬢へと頷きを返した。
「こちらも問題ない」
「そう。……行きましょうか」
それぞれの索敵を再度行い、慎重に裂け目を超えた。
その先に広がるのは――。
「……嘘、緑がある」
「驚いた。枯れた砂漠ではなかったようね」
岩の壁に囲まれた、巨大な円形広場。
そこには砂に紛れ、この階層には殆ど見たことのない草地があった。
「……風も清涼だ。砂漠とは思えん」
踏みしめる確かな草地の感触。
鉄塊の呟きの通り、吹き抜ける風は熱気の中に涼しさが混じる。
草原が砂漠に浸食されつつあるのか、あるいはその逆か。
どちらにせよ、草と砂が半々に混じった奇妙な大地が目の間に広がっている。
「ねえ、あの岩なにかな?」
カトルが指さした先。丁度塔の中心に位置するところに巨大な岩の塊があった。
突き出た円錐の頂点に巨大な球体上の岩が突き刺さっている。
どう見ても奇怪な構造物は、何の意味もないとは思えない。
「わからんさ。ただ、ここは外の砂漠とは違いそうだ。気をつけよう」
「そうね。……やっぱり、城塞握砂蟹は見る限りはいない様ね。どこへ消えたのか……」
砂の中か、周囲の岩のどこかにいるのか。
襲われたらかなわない。定期的に目で調べていこう。
「さて、どこから探しましょうか」
「……中へ入るのは怖いな。壁から順に調べよう。ゼナウ、近くで染獣が少ない方向は?」
「右だな。数体見えるが、こっちの方が薄い」
岩の構造物は、数十mに及ぶ分厚い岩盤が円形に続いていた。
内側には複雑な凹凸があり、洞窟のような部屋が形成されていたり、逆に天井よりも飛び出ている個所もある。
そしてその洞窟内に、染獣たちは潜んでいるようだった。
その内の1つ、光が少ない穴倉を覗き込む。
「どうだ?」
「あれは……握砂蟹だな」
「え? そうなの?」
クルルを先頭に洞窟へ入っていくと、そこには眠る蟹がいた。
こちらに気付いていないのか、戦闘意欲がないのか、襲ってくる気配はない。
それならばわざわざ戦う必要もないと、俺たちは次の穴を調べていく。
その結果――この一層目に見えていた光は全部、握砂蟹であった。
「どうやら、ここにいる連中、全部握砂蟹らしい」
「……『大海の染獣』じゃなくて、握砂蟹の巣なの?」
「城塞握砂蟹が帰った場所なんだから、妥当といえば妥当だよな」
てっきり他の、新しい染獣でもでてくるかと思ったのだが。
まあまだ右側の1割程度しか見れていないのだけれど、それでも異常だろう。
「どうする? このまま外周を回っていくか?」
「うーん……。あまり効果的とは思えないのよね。できれば上の階層を見たいのだけれど、上れる場所はあるかしら」
「……ここが本当に蟹の住処ならある筈だ。奴らに壁を上る能力はない」
「あっ、そうか。じゃあ、まずはそれを探そう!」
できる種もいるのかもしれないが、あの細い脚じゃ厳しいだろう。奴らが上がる用の坂なり階段なりがある筈だ。
そう思って探索を続けると、天井に穴が空き、飛び出た岩の板が階段状になっているところが見つかった。
そこを通って階層を1つ上がる。
壁の構造は変わらず、似たような岩の構造が続いているようであった。
「……あまり、期待はできなさそうね。ゼナウ、染獣が見えた所に案内して」
「了解」
歩いていると、岩の間のせいか強くなった風が吹き抜けていく。
相変わらず『外』と比べて涼しい風は、どこか水の気配を感じさせる。
草木も同じ事を――ここに水があることを示すが、今のところ水そのものも、『大海の染獣』も見えてはいない。
そして、おかしなことはそれだけではない。
「……襲ってこないね、握砂蟹」
「そうだな。一切戦う気がない。ここは巣じゃないのか?」
いくら俺たちが側を通りかかっても、蟹たちは襲ってくる気配がないのだ。
奴らの巣に土足で乗り込んでいるというのに……戦う気がないのか?
「奇妙な場所だな、ここは」
鉄塊の呟きに、全員が同意を示す。
彼はそのまま周囲に視線を向けながら続ける。
「戦う気のない染獣。砂漠とは思えない地形に、隠された秘境――ここは未知に満ちている。何より、『大海の染獣』なんて影も形もない」
「……ここは外れということ?」
「いや、それはない」
アンジェリカ嬢の問いを、カスバルは即座に否定した。
彼はこちらを振り返り、背の向こうにある岩の壁と、伽藍洞の広場に両手を広げて続ける。
「あの何もない砂漠に、他にこんな場所が幾つもあると思うか? この階層の主である城塞握砂蟹が帰ったのは、ここだ。そんな場所、他にあるとは思えない」
「じゃあ、どうして『大海の染獣』はいないの?」
「そんなことは知らん。俺の仕事はあくまで案内だ。だろう?」
縋るようなアンジェリカ嬢の問いも、即座に叩き斬る。
相変わらずの性格だが、彼の言うことは正しい。
どこにいるのかなんて、誰も知らないのだから。
「……よく考えれば、その城塞握砂蟹にも出現条件があるんだよな。この階層は」
他の階層と比べて、この砂漠には『仕掛け』のようなものが存在している。
偽の主である蟹にもあったんだ。『大海の染獣』にもあっても不思議じゃない。
「今ここに奴がいないのは、俺たちがまだ見つけられていない何かがあるってことか」
「恐らく。というよりは、それ以外考えられないということなんだが……」
カスバルが、横を通っていく蟹を見つめた。
今のところは、ここは握砂蟹の巣でしかない。
無害で、平穏な。とても主の巣とは思えない場所だ。
ただ、おかしな場所なの確か。
「……結局、地道に探すほかないってことね。休憩はここまでね。引き続き、この2層目を調べていきましょうか」
それから更に数時間をかけて2階層目を探索するが……やはり目ぼしい成果は得られなかったのだった。
「――あ、いた! アンジェ、西側の壁裏に拠点を建ててるって」
見つけた窓――といってもただの大穴だが、そこから外の拠点形成組と風魔法で交信、互いの状況を確認する。
カトルに報告をしてもらっている間に、俺たちは休憩がてら改めてこの場所について話し合うことにした。
「やはりここには蟹しかいなくて、今まで戦闘は1度も発動していない。こんなのんびりと探索できる階層は初めてよ」
全員が同意を示した。
「変……そう、あまりにも変な場所。どうしてこんな場所が存在しているのかしら」
「……迷宮は、とある時代の滅んだ瞬間を保存している」
「え?」
俺の言葉に、アンジェリカ嬢が首を傾げる。
「爺さん……シュクガル老たちの考え方だ。迷宮の階層は、特定の場所が滅んだ後を保存している。だから各階層には、そうなった理由や経緯があるって」
「そうそう! 例えば5層の洞窟は水没して滅んだんじゃないかって言ってたよ。他の階層も、環境か染獣か――何らかの原因があって、それが主や環境に現れてるんだって」
シュクガル老たちから聞いた例をいくつか伝えると、皆も納得したようなしてない様な、それぞれ曖昧な反応を示す。
ただ、アンジェリカ嬢には伝わったらしい。
彼女は大穴の向こうを見つめながら口を開く。
「となると……この砂漠は?」
「そうだな……」
爺さんたちの考えを元にするんであれば、『環境が先』だろう。
それこそカスバルが言っていた筈だ。ここは元々海底だった、と。
「水源――海が枯れ、辺り一帯が砂漠になった。滅んだ原因というなら間違いなくそれだろ?」
「……でしょうね。結果、その砂漠に適応できた連中が生き残ったと」
海が砂漠に。それは凄まじい環境変化があった筈だ。激変と言っていい。
それに耐えたのが、砂中に潜れる痺砂魚に蟹。後は地上にいた滑羚羊たちというわけだ。
普通の魚たちなら間違いなく耐えられず死んでいくだろうからな。
「へえ、なるほどね。あのご老人たちも根拠があって迷宮調査なんて酔狂なことをしていた訳ね……。それで、彼の考えに従うとして……あなたはこの場所をどう見るの?」
「……ここには蟹しかいないんだよな」
滑羚羊も痺砂魚も、他の染獣たちの姿はない。
見落としている可能性はあるが、それにしたってあの滑羚羊が大人しくしている筈もない。やはりここには蟹しかいないのだろう。
そして、奴らは戦う気がない。洞窟の穴に引きこもって休んでいる。
流石に奥まで踏み込めば抵抗する意思を見せるが、それだけ。
一切の攻撃をしてこないのだ。
そこに一番納得がいっていないのが、長くこの砂漠にいたカスバルであった。
「何故あいつらは戦わない? 外だとあれだけ好戦的に襲ってくるというのに」
「うーん……疲れてるとか?」
指を立ててそう言ったカトルに、鉄塊が首を横に振る。
「染獣がか? 放っておけばいくらでも復活する奴らが、疲れる?」
「もう、違うよ、ファム兄さん。大事なのは滅ぶ前の方なんだって。もしここの染獣たちが戦う気がないんだったら、多分『滅ぶ前から戦う気がなかった』ってことなんだよ」
「滅ぶ前に……」
そう。シュクガル老たちの考え通りならそういう結論になる。
常に、どの階層でも戦いに飢えていた染獣たちが、ここだけその意欲を失っている。
その理由は――。
ハッと顔をあげたカスバルが、ふと呟いた。
「……飢えていない?」
「飢え?」
「ああ。獣が戦う動機など、生き延びるため以外にないだろう。ここには奴ら以外の染獣がいないから、敵から生き延びるために戦う必要はない。後、動機があるとすれば、飢えだ」
「……ここでは蟹たちは食べるのにも困らないとでも? そうは見えないけれど……」
「正確には『だった』、だな。過去の話なのだろう?」
天敵もおらず、食い物にも困らなかった。
そして外敵の侵入手段も限られる……これは後からついた特性かもしれないが。
それらから考えられる可能性は――。
「……避難場所、か?」
そう言ったのは鉄塊であった。
皆の視線が集まり、彼は洞窟の向こうの円形広場を指さした。
「先ほど、砂漠が枯れてこの階層は滅んだと言っただろう。だが、ここには草木がある。つまり水がある……滅んだ当時は、まだ」
「蟹たちはここに集まって、何とか生き延びようとしていた、と?」
「そうなのではないか? ゼナウ、お前はどう思う」
「……そうだな。爺さんたちの考え通りなら、そうなる」
安全な場所だから、そもそも戦うつもりがない。
もしくは必死になってここまでたどり着いた彼らには、もうそんな気力もなかったのかもしれない。
……染獣相手に『気力』なんて言葉を使うことになるとは思わなかったが。
「この塔は彼らにとっては絶対安全な最後の砦。だから戦う気などないのかもしれない」
「ここが蟹たちの最後の楽園だとでもいうの……?」
とてもそうは見えないけれど。
彼らからすれば、居心地の良い場所なのかもしれない。
「でもそうだとして、ならば『大海の染獣』とは一体……?」
「それが、それだけが分からない。ただ――」
風の吹き抜ける広場の方を見て呟く。
入口から、蟹たちが恐る恐るとこちらを覗き込んでいた。
「少なくともこの場所には、砂漠にはなかった水がある。ならば、調べれていけば分かるかもしれない」
「……結局、それしかないというわけね」
ただ、ただのんびり歩き回るだけでは駄目だろうということは分かった。
この場所の謎を解き明かす――それを考えながら進めていくことになるだろう。
それから少しの休息を挟んでから、俺たちは再び探索を始める。
『大海の染獣』にヤクル。そしてやって来るだろう、湖畔の国の外敵たち。
それぞれの求めるものを探して、奥へ奥へと進んでいくのだった。




