第114話 砂漠の少女②
涼やかな風の感触で、セリィは深いまどろみから目覚めた。
「……? あれ、アタシ……」
ぽつり呟いた声は、僅かに反響して聞こえた。
開いた視界の先では広がった布が風にたなびいている。
どうやら天幕の中にいるらしい。
顔を横に倒せば、そこにはつい先ほどまでさ迷っていた砂漠が広がっている。
ここは未だ砂漠地帯。ただ、自分は誰かに助けられたのだとセリィは思い出す。
起き上がり首に手を触れる。
先ほど呟いた声は乾いてがさがさ。だが倒れる前のような、寒気がするほどの渇きと痛みは失くなっていた。
「そうだ……犬が来て……わっ」
その呟きに反応したのか、天幕を覗き込んだ影が1つ。
灰色の毛並みのそれは大きな犬のような生き物で。天幕の入口に顔を突っ込んでこちらを見つめていた。
「……あなたが助けてくれたの?」
問いかけには、わふ、と吐息が返ってきた。
ぶわりと生暖かい風がセリィにまで届く。息も、背丈も大きい。
多分だけれど……犬じゃ、なさそうだ。
「――――」
犬?は一旦顔を引っ込めたが、暫くしてまた戻ってきた。
今度は口に器を咥えていて、それを差し出してくる。
そこにはなみなみと水が入っていた。
「……っ」
水を見た途端に、忘れていた渇きが口内を支配する。
安全性など何も考えず、受け取って一気に飲み干した。
温い水が今は心地良い。
「……っぷはっ、あ、ありがとう」
答える声はなく、空になった器を咥えると外に出ていってしまった。
世話までしてくれた。賢い犬?である。
しかし……どうすればいいのだろうか。
1人天幕の中に取り残されぼおっとしていたら、ふと頬を風が撫でる。
目覚めた時もそうだったが、砂漠の中なのに通り抜けた風は心地よい。
なんだろうかと、意を決して天幕の外に顔を覗かせてみたら、風上に青く光る珠が置かれていた。
あれは氷の魔法玉だろうか。どおりで涼しいわけである。
「――起きたか」
なんて1人で納得をしていたら、声がかかった。
そちらに振り向くと、こちらを上から見下ろす大男が立っていた。
「わっ……!?」
逆光での大男の出現に思わず声が漏れてしまった。
犬だけでなく男も大きい。まるで自分が縮んでしまったような錯覚を受けるが、すぐさま首を振って意識を切り替える。
よく考えなくても、この人たちが助けてくれたのだろう。
「あの、ありがとう……ございます。助けてくれて」
「……」
「……あの?」
だが直ぐには返事が来ず、男はじっとりとした視線でこちらを見つめる。
「お前……1人か」
「え?」
「目覚めてその落ち着きよう。仲間を連れてたらありえないだろう」
……確かに。
仲間と逸れたり仲間を逃がしたりした探索者なら、もっと半狂乱になっているだろう。
そう考えたら、今の自分は大分奇妙な人間だろうと、セリィはようやく気が付いた。
「なんで単独でこの階層にいる? 死ぬ気か?」
そう上から尋ねてくる男も1人の様に見えるのだが……訊ねることなどできる筈もない。
さて、一体どう言い訳をしたものか……。
「――まあいい。詰問をするつもりはない。他に遭難者がいないならばそれでいい」
「……」
穏やか――というよりは無感情にそう言うと、手を振ってセリィを天幕の中へと戻した。
男と犬?も中へと入ってきて、対面に腰を下ろした。
「状況は理解しているな?」
「……ここは35層で、アタシは砂漠をさ迷っていたところをあなた達に助けられた」
「記憶もはっきりしているようだな。ならばいい」
横に寝転ぶ大きな犬?の身体を撫で、彼はセリィを睨んだ。
「お前、クルルに感謝しろよ。こいつは以前から遭難者の救助をしていてな。気付くのが遅れていたら死んでいた」
「……この、犬さんが?」
クルルというらしいこの犬?はどうやらこの男の相棒らしい。
そう言えば獣を使役する特選級がいるとかいう話を聞いた気がする。
彼がそうなのだろうか。
「クルルは犬じゃない。染獣だ」
「えっ? あの、ごめんなさい……?」
咄嗟に謝ってしまったが、謝るべき事なのか?
よくわからないが、本人?は尻尾を振って満足気なので間違いではなさそうだ。
……あれ? 今、染獣って言わなかった?
バッとクルルと呼ばれた彼の方を見るが、大きい犬……のようななにかにしか見えない。
大型の犬か、狼か。そんなところだろう。
……うん、そうだよね。ただの聞き間違いだよね。
ならばなんて言ったのかなんて事は一切考えずに、セリィは改めて目の前の男に向き直る。
助けてもらった身だが、まずはこの男の素性から調べなければならない。
姿勢を正し、セリィは本来の身分である王族としての言葉で告げる。
「――助けていただいた身でお尋ねするのは申し訳ないのですが、あなたは一体何者でしょうか。今、この階層は探索を禁止されています」
「……?」
先ほどまで倒れていた小娘のいきなりの変化と問いに、男は怪訝な表情を浮かべる。
「なんだそれは。そんなもの俺は知らん」
「え? ですがジン王子による声明が……」
「……ジン王子?」
――ジン君のことも知らないの? この人……。
首を傾げる男に、セリィは今地上で起きていること――特にジン王子が発した声明に関して伝えた。
最初こそ訝し気に聞いていた彼だったが、直ぐに納得したのか繰り返し頷いている。
「新しい王子に水不足……なるほど。それで『大海の染獣』を探していたのか」
「本当に知らなかったんですね……数日前に出たばかりですよ?」
「知るか。ずっとこの砂漠にいたんだからな」
「ずっと? それってどういう……」
「そんなことはどうでもいい」
どういうことかと問いかけるより前に、彼が再び言葉を紡ぐ。
「お前の言うことが事実なら俺は資格持ちだ。その討伐隊とやらの一員で、先遣隊ってやつのようだからな」
今度は彼――カスバルが教えてくれた。
カスバルが何故この砂漠にいて、何をしているのかを。
依頼書に探索証も見せてくれたから、この人は信頼していいだろうとセリィは判断する。
「じゃあ、カスバルさんたちは討伐のために先行して『大海の染獣』を探しているんですね」
「ああ。だからお前を送ることはできないんだ。場所は教えるから1人で昇降機まで行ってくれると助かるんだが……」
「……駄目!」
「……そんな気はしたよ」
咄嗟に出たその叫びにあからさまに溜息を吐かれたが、違うのだ。
ただの我儘で言っているわけじゃない。
「このままじゃ皆さんにも危険があるかもしれないんです!」
「……? どういうことだ?」
今度は声明とは別の、セリィがここに来た理由を説明する。封鎖された筈の階層に入ろうとした侵入者たちのことを。
少しだけ迷ったが、自分の身分までしっかり明かすことにした。
でなければこの人はセリィの存在を許してはくれない。そう思ったから。
「――というわけなんです。このままだと何が起きるか……。だから先に調べておこうと……」
「……」
「あの……?」
説明を終えたがカスバルは黙ったまま。
結構衝撃的な話をしたつもりだったのに、聞いている最中も表情1つ変わらなかった。
そしてその無表情通りの声色で、彼はバッサリと告げる。
「関係がないな」
「え?」
まるで「聞いて損した」とでも言う様に、首を振っている。
第三王子の行方不明とか、その関係者が侵入しているとか……大事なんだけれど……。
「俺の仕事は『大海の染獣』を探すことだ。そのよくわからん侵入者などどうでもいい」
「でも……」
「でも、じゃない。助けはしたんだ。後はお前が好きにしろ」
「……」
「全く、時間の無駄だった」
――言っちゃった! 言っちゃったよこの人!
特選級は変わり者が多いと聞くが、こういう地上のことに興味がないことが理由なんだろうなあ……。
唖然とするセリィを放って立ち上がった彼だが、ふと思い出したように口を開いた。
「――ただ、1つだけ伝えておく」
「え……?」
「どうもシュンメル家の連中は、全て承知済みで準備を進めているようだぞ。でなければ伝令が慌てて飛んできている。俺はそのまま『大海の染獣』を探せと、そういうことだろう」
「それはっ、そうかもしれませんけれど……!!」
襲撃者自体は想定しているだろう。そのための騎士の監視だ。
だが先んじて潜入していることまでは想定外の筈。
セリィの持つ情報は重要な意味を持つ、筈なのだが――。
「それに、お前1人で何ができるんだ? 砂漠で1人倒れてる奴に、倒せる相手だとも思えん」
「うっ……」
それを言われたら何も言い返せないセリィである。
でも、このままでは兄の行方を追うことはできなくなる。
このまま何もできないのは――。
俯いていると、目の前に影が落ちた。
顔をあげれば、そこには大きな犬?の顔。
「……クルル? え、ちょっと……?」
わふ、と声を鳴らした彼に引っ張られて、天幕の外へと連れていかれた。
そのまま真上に放り投げられたかと思うと、セリィの身体は、クルルの背の上に収まった。
「――――!!」
「連れていくのか? まあ、それが無難だろうが……」
「え? え?」
訳も分からず困惑していると、大きくため息を吐いてカスバルがセリィを見つめた。
「1人でその男たちを探すのは無理だ。そして俺たちは『大海の染獣』探しで忙しい。だから俺らに同行すればいい――とクルルは言っている」
「言葉が分かるんですか?」
「いや、分からん。ただそれに、他の意味があるか?」
「……なさそうですね」
これでただ遊んで欲しい、とかだったら可愛いのだろうけれど。
そしてよく見れば、セリィたちがいた天幕以外は綺麗に片付けられていた。
出発するつもりで、自分が起きているのを待っていたのだろう。
「それでどうする? そろそろ移動したいんだ。早く決めてくれ」
「……行く! 行きます!」
どうせ行く当てもない。
あれだけさ迷って見つからなかった男たちを、今から見つけられるとも思えない。
彼らが砂漠に来たのなら目的は『大海の染獣』か、その討伐隊だろう。
ならばこの人について行った方が、遭遇率は高そうだ。
「……はあ。面倒だ」
「ううっ……すみません」
思いっきり嫌そうな態度だが、その手は手際よく天幕を解体している。
旅慣れているのだろう。
そんな彼に、クルルが鳴いた。
「ん? ……ああ、そうか。丁度いいかもしれないな」
……やっぱり言葉が分かってるのでは?
首を傾げているセリィの膝上に、紐にくるまれた分厚い紙と革の小物入れが置かれた。
「これは?」
「この辺りの地図だ。お前、王族なら字は書けるな? 絵はどうだ?」
「……多少なら。絵画を習ったことがありますから」
「そうか。なら丁度いい」
やけに丈夫そうな紙を開くと、確かに砂漠地帯の地図の様だ。
昇降機からその周辺にある岩場、後は特徴的な砂丘が簡易な絵柄で記されている。
後特徴的なのは、地図には矢印が幾つも描かれていた。
「俺たちがいるのはここだ。ここから先の地図を描いてくれ。指示はする」
「……この矢印も?」
「ああ。それが一番重要なんだよ。説明はその時にする。……行こう」
天幕の解体がおわったらしい。
大きな背嚢に詰め込んで、すぐさま背負って立ち上がる。
「戦闘中はあの隠れる技で離れていろよ」
「は、はいっ!」
歩き出すクルルの背に乗って、セリィは運ばれていく。
奇妙な2人と1匹による砂漠の旅が始まるのだった。




