第112話 監獄島の迷宮第16層/溶石洞⑥
その獣は、決して『捕食者』でも強者でもなかった。
それが生まれたのは湖畔の国内部にあるとある迷宮の、深い階層。
漆黒の暗闇が広がる、広大な暗所であった。
生息する染獣たちは鼻なり耳なり、その暗闇を往く術を身に着けている。
それが得意なのは見ることであった。
光ではなく別のモノを光源とし、闇を蠢く敵のあらゆる痕跡を見通す。
徹底的に接敵を避け、無防備に眠る小型の獲物や他者が仕留めた獣の死骸を狙う。そうして生き残った種であった。
死肉漁り。弱者喰らい――呼び名は様々だが、どれも蔑称。決して進んで姿を見せず、戦いを好まない隠者の獣。
ただその中で、それは少し特異な存在だった。
多分、他の同種よりも少しだけ大食らいだったのだろう。
小型の獲物や、他者の残飯では満足に腹を満たせなかった。
故にそれは、自分で狩りをすることにした。
幸い、相手の行動も弱点も目が教えてくれる。後は狩る手段があれば良かった。
ただし、それがなによりの問題だった。
牙がある。爪もある。とても苦労はするが火も吐ける。
ただ、そのどれも周囲の敵にはよく知られ、特に階層の支配者たちには大した効果はない。
でなければ好き好んで隠れなどはしないし、残飯漁りなどしない。
勝つためには変わらなければならない。そのために――それはまず同族を喰らうことにした。
理由は分からないが、そうするのが一番だと感じたから。
初めて喰った同族の、竜の肉は甘美であった。
身体が震え、歓喜に満ち溢れた。これだ。これが求めていたものだ、と。
それからは無我夢中で肉を――同族を追い求めた。元より孤独の身。同族だろうと躊躇はなかった。
そうしてしばらくが経ち、10を超える数を喰らい続けた頃。変化が起きた。
同族を殺すために奇襲が不要になった。不意に遭遇した別種の竜の首を難なく食い破ることができた。
いつの間にか身体は同族のものを大きく超え、視界はより明瞭になり。遂には天敵とまで恐れた相手を屠ることすら容易になっていた。
これで安全を手に入れることができた……のだが。
――足りない。これでは。
最早、自分の生まれた場所にいる生き物を喰っても、満足に腹が満たされなくなった。
もっと喰いたい。だが、それはここにいる餌では駄目らしい。
奥に、もっと奥に。
飢えと、それとはまた違う何かに誘われるようにして。
それは迷宮の奥へ奥へと進んでいった。
奥へ行くほどに獲物は凶悪になったが、食うたびに強くなって突破した。
いつの間にか見慣れた暗所ではなく全く別の景色にいたりもしたが、やることは変わらない。観察し、見極め、殺すだけ。
食えば食うほどに見えるものは増え、どんな相手だろうと対処出来るのだ。
どの様に動くか。脆いのは何処か。どこが危険で、どこが安全か。
仲間を喰らう内に目覚めた不思議な能力もあった。
これならば大丈夫。
そう思っていたのだけれど。
そんな時に、あいつが現れた。
『――――』
理解不能な鳴き声のそれは、あまりにも小さな体躯の獣であった。
片手で潰せる。そう思ったのも一瞬。
腕をあっさりと切り落とされてしまった。
あまりに一瞬。十倍を超えるだろう体格差も構わずに。
恐ろしかった。体格はそれすなわち強さだった筈なのに。
ただ、改めて見ればおかしな生き物であった。小さいのにやけに眩く光を放つ。
特にその右手。いつの間にか伸びていた、漆黒に輝く細長い何かが、見るだけで身体に震えが起きる。
なんだあれは。なんだこいつは。
必死に逃げ惑った。同族を喰らってまで手に入れた全てを駆使して逃走し続けた。
尾を断たれ、脚をもがれ。
ただの死肉漁りだったころまで戻った様に、惨めに逃げた。
だがそれでも奴は追ってきた。
奥へ奥へと追い詰められて。
遂には逃げ場を失くし、狭い行き止まりにて、黒く輝く獣と対峙する。
『――――』
小さな獣が何かを言う。
聞き取れはしないが、意味は分かる。お前を殺すと、そう言っているのだろう。
――死ぬ? 自分が? こんな矮小な生き物に殺されて?
――嫌だ。嫌だ! 死にたくなどない。自分は、屠られるだけの腐肉漁りなどではない……!!
身体の底から咆哮が上がり続け、全身が震える。
ああ、そうだ。
それはただ大食らいだった訳ではない。
ただただ、ひたすらに――死にたくなかっただけなのだ。
死にたくない。もっと喰いたい。
だからこんな所で、こんな小物相手に死んでしまっては、困るのだ。
***
火の川から現れたもう1体の巨大鰐。
こちらへと大きな顎を開いて飛んできたその瞬間に、左目に激痛が走った。
「……っあ゛!?」
ばちりと弾ける閃光が左目を渦巻き、何度か素早く点滅する。
それに合わせて脳髄をずんと貫く熱いのか重いのか分からない衝撃が走った。
眼球から頭の奥へと、溶けた鉄みたいな何かが流し込まれたみたいだ。
なんだ、これは。
今まで左目を使ってもこんな感覚はなかった。
遂に限界が来たのかと血の気が引いたのも一瞬。
点滅が収まったかと思えば、熱で乾きまくった眼球と視界に変化が起きた。
いや、より正確には……何も起きなかった。
「……?」
いくら待っても、目の前の鰐は微動だにしなかった。
こうして思考は回っているにも関わらず、だ。
それだけじゃない。さっきまで聞こえていた音が一切消えた。
カトルの叫びも、鰐の暑苦しい咆哮も聞こえない。
そして身体も動かない。
音も聞こえず、身体も動かず。ただ、思考だけができる奇妙な状態に俺はいた。
なんだろうかこれは。
困惑が頭を支配するが、何故だか1つ分かることがある。
見えはしないが、眼球にじりじりと蠢く何かがある。それは円を描くようにして動いている様に感じて……。
――時間制限か、これ?
何となくそう思う。これが円を描き終えたら、この奇妙な時は終わるだろう、と。
よくわからんが、こういうのは直感に従った方がいい。事実なら時間もないしな。
残り時間は多分数秒。その間にできることを考えろ。
目の前の鰐を改めて見つめる。
顔を横に倒し、大きく開いたその口の先端辺りに俺を収めていやがる。
これは最初に蛙を喰った時と同じ。飛び出して獲物を咥えて、川に戻るつもりだ。
つまり口に僅かでも掴まれたら終わり。それだけは避けなければいけない。
屈めばいけそうだが、ただ避けるだけならこいつを逃がすことになる。
今の俺の目では、川の奥までは見通せない。逃したらもう追跡は不可能だ。
故にこの鰐は川から出ている間に殺さなければならない。
手っ取り早いのは爆弾だが、取り出して投げている暇はなさそうだ。
手にあるのは回復薬だけ。つまり使える装備は毒&蔦撃ちだけだ。これで奴を殺すには……。
数舜ほど考えて、覚悟を決めた。
直後、じりじりが満ちて、音と視界が一気に流れ始めた。
「ゼナウ――!!」
『――――!!』
カトルの叫びと鰐の咆哮が同時に響く中、軽くなった身体を思いっきり沈める。
背中でがちりと嫌な音が鳴る。
音だけでぞっとする。が、避けた!!
「――次!」
左手側に転がり、先ほどじっくり観察した奴の眼球へと毒撃ちを構える。
荒々しく飛び出し途中の奴へしっかり狙いをつけ、膜の上から杭を叩きこんだ。
『――――!?』
滑る奴の勢いにそのまま引き摺られるも、咄嗟に視界を振る。
さっきの『時止め』は1点しか見えなかったから、周囲の観察まではできなかったんだ。
この一瞬で必要な物を見つけなければいけないが――あった!
近くの岩の柱へと蔦撃ちを放って絡ませ、蔦を蔦撃ちから外して杭へと取り付けた。
極めつけに全力の蹴り上げで杭を深く打ち込んで、俺は大きく距離をとった。
好機ではあるが、もう限界だった。
「……熱っいな、この……!!」
奴の身体からぼたぼたと垂れる火が、服やら肌を焼いている。
目だけは守ったが、耐熱防具で覆っていない顔回りの激痛が身体中を駆け巡っている。
さっさと回復しなければヤバい。
ただ、その前にこいつだけはちゃんと殺し切る。
左目がぎゅるんと蠢く。
目を穿たれて苦しんでいる奴の身体に浮かぶ光の濃淡。
今まではただの色合いだったそれに、何故だかそれに『理解』が付随している様に感じた。
あの光の薄い中で今の力で貫けるのはどこか――それが、直感的に分かるのだ。
今なら……ここ。
奴の頭部、目の後ろ側。熱でほんの僅かに柔らかくなったそこへと、両手で掴んだ短剣を突き刺した。
巨大に、怪物になっても鰐は鰐。
奴の頭脳があるのは、そこだ。
思いっきり切り開いて、杭を装填した毒撃ちをあてがい、放った。
『――――』
それでようやく鰐は動きを止め、2体目も倒れ伏すのだった。
「……勝った。なんだったんだ、今の……」
「ゼナウ、平気!?」
駆け寄ってきたカトルが俺の状態を見て息を呑む。
焼け焦げた肌は激痛が走るも、興奮しすぎて訳が分からない。
激しく動いたせいで空になった回復薬を見つめながら、俺はただひたすらに今何が起きたのかを考えるのだった。
***
鰐との2連戦を終えた俺は、皆と先の休憩場所へと戻っていた。
4人で協力して鰐の死骸をなんとか運んで、俺は休憩。他の3人で解体と調査を行っている。
「どうだ?」
「この甲鱗、硬さも耐熱性も十分ですね。これは装備の需要がありそうです」
「ウルファさんたちも喜びそう。船、1日待ってもらえばよかったな……」
回復薬で焼け焦げた肌を回復させながら、彼らの様子を眺めている。
左目はいったん通常状態に戻している。
ひとまずの目標は達成できたからだ。
――さっきのあれは、時間を止めた、ってことでいいんだろうか。
視界が止まり、思考だけが動き続けた不思議な現象。
命の危機に反応して起きたようにも思えたが……。
原理は分からないが、能力としては凄まじく強力。
視界に納めてさえいれば、戦況を全て把握した上で戦闘が行える。
限定的だが、凶悪な能力だ。
問題はこれをあの黒剣の男が把握しているかどうかと、再現性がどれだけあるか。
前者については分からないが、あまり関係がないように思える。
なにせこれは俺側で完結している能力だ。止まっている側には知覚できないモノの筈。
俺が黒剣の男の動きに対応できるかどうか。全てはそれ次第だろう。
だが、使いこなせれば確実に役に立つ。そんな力だ。
後者の再現性の方が重要だ。
原理もよくわからない力を、どうやって発動させればいいのやら。
死にかけじゃないと発動しないとか、勘弁だぞ。
だが、光明は見えた。
あれを自由に使えるようになれば、いけるかもしれない。
――残りの日数はひたすら、この力を試してみる。
使い方を覚えて、経験を積む。
そうすれば奴を殺せる牙にまで磨き上げられる……かもしれない。
それに、先の出来事で痛感した。
俺は索敵を左目に頼りすぎている。見えないというだけで死にかけるのはあまりにお粗末だ。
能力の検証ついでに、視覚以外の感覚も鍛えなければ。
……いいぞ。これらをモノにできれば、分の良い賭けになりそうだ。
後は、他の面々の準備がどうなっているか。
この絶海の孤島では何も分からない。
ただ無事にコトが進んでいるのを期待しながら、残りの探索を進めていくしかないだろう。
しかし、先の時止めの発動は、俺が死にかけて発動した。
まるで俺の命の危機に左目が反応したみたいに、だ。
――助けてくれたのか? ……ありがとうな。
頭の中でそう呟いてみる。
当然答える声はないが、まるで返答するかのように元に戻った左目が、じりじりと滲むのであった。
***
意を決して昇降機へと駆け戻ったセリィは、突如静寂に包まれ立ち止まる。
あまりにも静かすぎるのだ。
今はまだ夕刻。
本来多くの探索者たちが帰還する時間帯で、つい先ほどウィックたちと戻った時にはそれなりの数の探索者がいた筈だが……。
「……? 人が……いない?」
誰も見当たらない。
追ってきた男たちも、他の探索者も。
何が起きているのか分からない。ただ、ここに奴らがいないのならば、やはり既に砂漠に降りていったということなのだろう。
「……行かないと」
それでも竦む足を何とか叩いて昇降機へ向かう。
未だ利用したことがない奥の区画に入り――息を呑む。
「……っ!!」
死角になり見えない場所に、数名の探索者が転がされていた。
血は見えないから、死んだわけではなさそうだ。
本来なら助けなければならないが……。
「……ごめんなさい!」
今は先を急がなければならない。
口を開いた昇降機へと飛び込み、直後動き出した。
緊張と興奮に包まれ、気付いた時にはその扉は再び開いていた。
「――っ」
眼前に広がるのは、広大な砂漠。
来てしまった。35層。
――『大海の染獣』とやらがいるのは31層から35層の砂漠地帯。
その中で、そんな大層な名がつく染獣がいるなら……きっと、ここだ。
じり、と扉から流れ込んでくる熱気に息を呑む。
今までの探索の、およそ5倍も進んだ先にある階層だ。
足を踏み入れた瞬間に死んでも、なんらおかしくはない。
……大丈夫。大丈夫。
兄様の教えてくれたこの技なら、きっとバレない。
そう自分に言い聞かせ、立ち昇る熱気を吸い込み覚悟を決める。
――お兄様、必ず見つけます。
そうして、セリィは単身で無謀な探索を開始するのであった。




