前編
「ずっと意地悪していたのは、あなたがヒロインで、わたくしが悪役令嬢で、あなたが幸せになるのに必要だったからなの、ごめんなさい!!」
「…………は?」
大きな鞄を抱えて、魔法学校の校門を出ようとしたところで。
平民の特待生エリカは突然、呼びとめられて頭をさげられた。
絹のリボンを飾った頭をさげているのは、ベルナル公爵令嬢ルシアナ。
セブリアン王太子の婚約者で、未来の王妃様。
さらには行方不明だった秘宝『精霊王の妃の冠』を発見して、精霊王からの加護を得、先週は最高位の光魔法との契約にも成功した、実力者中の実力者でもある。
ルシアナの背後では、少し離れた位置からそのセブリアン王太子が心配そうにこちらを、ルシアナ嬢を見守っていた。
「え~と…………」
まばたきをくりかえすエリカに、ルシアナはたたみかける。
「話せば長くなるのだけれど、わたくしには前世の記憶があって! 前世で大好きだった恋愛漫画の世界に、転生していたの! 漫画の主役はエリカ、つまりあなたで、平民だけれど魔法の素質を認められて、この魔法学園に特待生として入学してきて! でも、この学園は貴族が大半だから平民のエリカはいじめられて! それでも魔法の訓練や勉強をがんばっていたら、精霊たちに愛されて精霊王の加護も得て、行方不明になっていた精霊王の妃の冠も探し出して! 最高位の光魔法との契約にも成功して、その健気な姿にセブリアン殿下のお心も打たれて、最終章では、王国を滅ぼすために復活した魔獣を、光魔法とセブリアン殿下との愛の力によって倒して、エリカは聖女として認められて殿下と結婚する、そういう筋書きだったの! 待って! お願い、行かないで! 最後まで聞いて!!」
さささ、と、その場を離れようとするエリカの手首を、ルシアナは両手でがっちりつかむ。
「ルシアナは、エリカの邪魔をする悪役令嬢なの! 気品、教養、美しさに高貴な血筋と家柄、すべてを兼ね備えた完璧な令嬢で、セブリアン殿下の婚約者だけれど、エリカと殿下が身分違いの恋におちたことで、二人を引き裂こうと、画策するの!! それにルシアナは、エリカの破格の魔力量にも嫉妬している設定なの、ルシアナ自身は名家の血筋にも関わらず、あまり魔力を持っていないのがコンプレックス、という設定だから! 突然の話で信じられないのはわかるわ、でも危ない人を見るまなざしはやめて!!」
怒涛の台詞量だった。
瞳をぎらぎらさせてエリカに迫るルシアナ嬢は、さながら魔物の形相だ。もともと整った顔立ちで、高価な化粧品による手入れも欠かさないのが、台無しである。
「お願いよ、信じてちょうだい、この世界は漫画の、物語の中の世界で、あなたはその物語のヒロイン! わたくしは悪役令嬢! これまでわたくしがあなたに意地悪してきたのは、わたくしの本意ではないの、すべては、わたくしが悪役令嬢に生まれてしまったせいなのよ!!」
「はあ…………?」
強い疑惑のまなざしと表情で、エリカは首をかしげる。
「わたくしは悪役令嬢だもの。わたくしが悪役令嬢としての役目を果たさなければ、ヒロインのあなたが、筋書きどおりのハッピーエンドを迎えられない。そう思ったから、これまで物語上の悪役令嬢を演じて、あなたに意地悪をしてきたの」
「はい…………?」
「つらかったわ…………」
ほろり、と涙をこぼしそうな様子でルシアナは説明をつづける。
「わたくし、あの漫画が大好きだったの。何度も何度も読み返して、アニメは円盤をそろえて、設定資料集も買ったし、クリアファイルやアクスタも買って、二次創作に手を出したのも、あの漫画がはじめてだった。それなのに、転生先は悪役令嬢ルシアナ!!」
ルシアナは絹のハンカチを食い破りそうな勢いで悔し涙を流す。
「たしかに、前世では流行だったけれど! でも、わたくしはルシアナなんて望んでいなかった! 選べるなら、エリカに転生したかった! エリカをいじめるルシアナになったと理解した時、どんなに絶望したことか!!」
「…………」
「あなたに会いたかったわ、エリカ。あなたと会って話して、一緒に勉強したり訓練で励まし合ったり、時には二人でお出かけして…………でも、わたくしは悪役令嬢だから…………っ」
叶わぬ恋に苦悩するヒロインのように、ルシアナは身をよじる。
「だから心を鬼にして、あなたに意地悪したの! 悪役令嬢として! 漫画どおりに話が進んで、あなたが幸せな結末を迎えるよう、努力したの!!」
「…………っ」
「本当に、葛藤したわ! 大好きなエリカに意地悪なんて、したくなかった! 悪意なんて微塵もなかったわ!! でも、わたくしが悪役令嬢の役目を果たさなければ、あなたが幸せになれないかもしれないから、嫌々…………でも、やっぱり難しかった。あなたも知っているでしょう、わたくし、漫画どおりのルシアナは演じられなくて、あなたに少し嫌味を言うとか、人前で強く注意するとか、その程度しかできなかった。本当は、制服や持ち物を破いたり壊したり、怪我をさせたりしなければならなかったのに…………」
「…………されたら困るんですが」
「でも、このままでは駄目だと気づいたの。セブリアン殿下が教えてくださったのよ」
「はい?」
ルシアナは顔だけ背後をふりかえる。
数名のお供を連れた、優雅な立ち姿の青年を。
「殿下にすべてお話ししたの。わたくしの前世のこと、漫画のこと、悪役令嬢に生まれたわたくしの宿命や、ヒロインであるあなたの運命のこと。…………殿下は、わたくしの話を信じてくださったわ。そして、わたくしのこれまでの行為をすべて許して、受け容れてくださったの。ヒロインと愛し合うヒーローとわかってはいたけれど、こんなに素敵な方だったなんて…………ああいえ、そういうことではなく」
うっとりしたまなざしを王太子殿下に向けていたルシアナは、照れをごまかすように咳払いすると、顔の向きをエリカに戻す。
「セブリアン殿下に諭されたの。
『私は君の話を信じている。けれど、それでも今のやり方では駄目だと思う。物語をただなぞるだけでは、エリカ嬢は幸せになれても、君が幸せになれない。そんな結末は、私は認められない。悪役令嬢のさだめや物語の筋書きにとらわれず、君もエリカ嬢も、どちらも幸せになれる道をさがそう。それこそが真のハッピーエンドだ』
そう、おっしゃられたの」
「…………そうですか」
「だからね」
ルシアナはよく手入れされた白い両手で、エリカのやや乾燥した手を包み込んだ。
「これからは、あなたとも新しくやりなおしたいの。漫画のキャラクターである『悪役令嬢』と『ヒロイン』ではなく、ただのルシアナとエリカとして。殿下にも提案されたの、
『エリカ嬢にすべてを明かして、協力を求めるべきだ』
って。漫画の強制力に二人で、いえ、セブリアン殿下も合わせて、三人で立ち向かいましょう! わたくし達ならきっとできるわ、運命を断ち切って、三人で幸せになるの!!」
舞台の役者のように片腕を広げて空を見上げたルシアナの言葉を、エリカは無感動にばっさり断ち切った。
「さよなら」
大きな鞄を持ち直して校門を出て行こうとする彼女の背を、ルシアナが慌てて追う。
「待って!! お願いよ、本当に嘘ではないの、運命を変えるために協力してほしいの!!」
「お断りします」
大股でせかせか歩くエリカに、ルシアナがすがるように並走する。
事の成り行きを見守っていたセブリアン王太子殿下も見ていられなかったのか、駆け寄ってきてエリカの行く手をさえぎった。
「待ってくれ、エリカ嬢。私からも頼む。どうかルシアナの力になってほしい」
「無理です」
王太子殿下の依頼すらきっぱり拒否したエリカの態度に、ルシアナは困惑に眉間を寄せた。
「やっぱり、わたくしの話が信じられない? たしかに今は自分の力が信じられないかもしれないけれど、『エリカ』はヒロインだもの、きっと運命も簡単に――――」
「そういう意味ではありません」
「では、どういう意味だ。ルシアナは見てのとおり、真摯に君に頼んでいる。それを拒否するからには、君もせめて理由を説明してほしい。それが最低限の礼儀というものだろう」
「――――たしかに」
セブリアン王太子の言葉にエリカもぴたりと足を止め、
「では、申しあげます」
と、ベルナル公爵令嬢ルシアナに体ごと向き直り、彼女の瞳を見返す。
「私はルシアナ様を信用できません。だから、協力もできません。それだけです」
「わたくしの話がとうとつで突拍子もないことは、自覚しているわ。でも、戯れでこんなことは言えないわ。わたくしは本当に――――」
「違います」
エリカは断言した。
「今聞いたお話が突拍子ないとか、そんなことは、どうでもいいんです。私がルシアナ様を信用できないのは、先ほどルシアナ様ご自身が言ったとおりです。貴女が私を」
エリカは一瞬、言いよどみ、けれど覚悟を決めたまなざしでルシアナに告げた。
「貴女が私に、嫌がらせをしていたからです」
「…………っ」
ルシアナは宝石のような目をみはって息を呑む。
「ことあるごとに『平民だから』『田舎の出だから』とくりかえし、私が試験で高得点をとったり、教師に褒められたりしても『ただのまぐれ』と切り捨てて」
「それは、っ! だって、それがルシアナの定番の悪口だったの! それに入学当初はともかく、あなたはどんどん成績をあげて礼儀作法を身に着けていって、見た目も可憐だったから、身分や出身くらいしか、嫌味のネタがなくて! 漫画でもエリカは、努力を重ねて好成績を修めて、身分への風当たりをはね返すキャラクターだったし!」
「貴族令嬢でも、私より無作法な生徒は何人かいました。でも、貴女は彼女たちには何も言わず、私にだけ『平民だからマナーがなっていない』と叱りました。男子生徒に必要な連絡事項を伝えただけで『婚約者がいる方になれなれしく話しかけるなんて』と、言いがかりまで」
「それも、漫画でそういう場面があったの! ルシアナに目をつけられたエリカが、なにをしても彼女に悪く解釈されて、悪評を広められる、っていう…………」
「お望みどおり、貴女が私の行動に逐一文句をつけてくださったおかげで、私は学園中に『玉の輿を狙って男子生徒に片っ端から声をかけて回る、ふしだらな下層の女』と、まるで娼婦のようなレッテルを貼られました。ご満足ですか?」
「満足なはずないわ、言ったでしょう、わたくしがあなたに意地悪していたのは、本意ではなかったのだもの! でも、そうやって悪評がひろまって女の子たちから嫌われて嫌がらせをされるようになったからこそ、エリカは殿下に助けられて、二人の恋が――――」
「セブリアン殿下は、ルシアナ様の婚約者でしょう」
「最初はそうだけれど、エリカと知り合ってからは、どんどん彼女に惹かれていく筋書きだったの! だから、わたくしはあなたとセブリアン殿下の仲をとりもとうと、何度も工夫したのに――――」
「もしかして、休日にルシアナ様が私を呼び出すたび、セブリアン殿下がいたのは…………」
「そう! そうなの!!」
我が意を得たり、とばかりにルシアナが明るい声を出す。
「あなたとセブリアン殿下は、接点がなかったから! わたくしがその接点を作ったの!」
「それで…………っ」
エリカは納得と同時に、苦々しい表情を浮かべる。
「多少、漫画のエピソードとは状況が異なってしまったけれど。でも、エリカもセブリアン殿下に惹かれていたでしょう?」
「…………そんなはず、ないでしょう」
入学してすぐの頃。エリカはルシアナと知り合った。彼女のほうから話しかけてきたのだ。
『由緒あるこの学園に、田舎の平民が入学だなんて。審査を通った以上、最低限の素質はあるはずですから、反対はしませんけれど、くれぐれもわが校の品位は落とさないでくださいな』
そんな内容だった。
エリカは自身に対する高位貴族の令嬢の反感を察知し、彼女に近づかないよう心掛ける。
けれど何故か、ルシアナのほうから休日の外出に誘ってきたのだ。
不思議に思ったが、大貴族からの招待を断る度胸は、この時点のエリカにはない。
不安と緊張を抱えて指定された時間に待ち合わせ場所に赴くと、待っていたのはルシアナではなく、セブリアン王太子だった。
セブリアンはエリカが現れたことに怪訝な反応をしたが、それはエリカも同様だ。
互いに首をかしげ合い、とにかく人違いなのは確かのため、エリカは帰ろうとしたのだが、セブリアンは、
『女性を呼び出しておいて、手ぶらで返すわけにはいかない』
と、王都の観光名所である大図書館や大公園を案内して、昼食までごちそうしてくれたのだ。
エリカは何度も遠慮し恐縮しながらも「一生、他人に自慢できる話ができました」と楽しい思い出ができたことを単純に喜んだ。
が、ルシアナ嬢の誘いはこれきりではなかった。
このあともエリカは休日ごとにルシアナに呼び出され、そのたびに待ち合わせ場所でセブリアンとはちあわせ、とうとうセブリアン本人の口から、
『申し訳ないが、エリカ嬢。私はルシアナ嬢の約束と信じたからこそ、ここに来たのだ。今後、このような小細工はひかえてほしい』
と、まるでエリカが仕組んだかのような前提で、お断りされてしまったのである。
エリカも思わず、
『ルシアナ様のような大貴族相手に、私のような平民が小細工なんてできません! 本当に、私にも、なにがなんだかさっぱりわからないんです!!』
と叫んでいた。
セブリアンは「それもそうだ」と、エリカの言い分に一応、納得する。
その後は、エリカは「これ以上、黙って従っていたら、とんでもないことになる」と、何度ルシアナから誘われても頑として受けつけなかったし、やがてしばらくすると、休日には学園にルシアナを迎えに来るセブリアンの姿が見られるようになった。
エリカはあの頃の気持ちを思い出し、苦い痛みと共にルシアナに明言する。
「ルシアナ様が王太子殿下に愛想をつかすのは、ルシアナ様の自由です。ですが、それで私と殿下の仲をとりもとうとするのは、はっきり言って迷惑です。あのお誘いのおかげで、私がどれだけ女生徒たちの反感を買ったか――――私はすっかり『平民の分際で王太子殿下にとりいろうとする、野心家の悪女』と、学園中で噂されています」
『わたくし達だって、王太子殿下をお慕いしているのよ? でもすでに婚約者がおられるし、その婚約者のルシアナ嬢も王太子妃として申し分のない方だから、潔くあきらめて、遠くからお姿を拝見するにとどめているのに。平民風情がわたくし達をさしおいてセブリアン殿下に近づくなんて、許せないわ』
と、いうわけである。
「――――もしかして、私が殿下と会っていたこと、ルシアナ様が噂を流していたんですか?」
エリカの推測に、ルシアナが「ぎくり」とばかりに動揺を見せる。
「で、でも、それは漫画どおりの展開で。漫画では、二人はどんどん親しく――――」
「殿下がご学友に命じて、彼女たちの嫌がらせで私が被害を受けないよう、配慮してくださっていたのは知っています。それだけ責任を感じておられたのでしょう、殿下のせいではないのに。だからこそ、なおさら恥ずかしいと思わないんですか? 百歩譲って、ベルナル公爵令嬢様にとって、私のような平民が玩具程度の存在なのはしかたないとしても、殿下はルシアナ様より上位の方ですよ? それを、悪い噂に巻き込もうなんて」
「それは…………っ、でも漫画では…………っ」
「だいいち、王太子殿下はルシアナ様一筋です。私とどうこうなんて、身分の差をのぞいても、ありえないと思いますけれど?」
「そ、それは…………」
ルシアナがセブリアンを見あげ、白い頬がぽっ、と紅色に染まる。恋する乙女の反応だ。
すかさずセブリアンも会話に割り込む。
「エリカ嬢の言うとおりだ、ルシアナ。くりかえすが、私が誰より大切に想っているのも、愛しているのも、結婚するのも、すべては君だけだ。エリカ嬢でも、その他の誰でもない」
「っ、セブリアン様…………っ」
見つめ合ったルシアナとセブリアンの間を、きらきら輝く視線が結ぶ。
エリカは目の前でくりひろげられる恋の場面に胸をかるくしめつけられながらも、それ以上に馬鹿馬鹿しさを覚える。
「では、私はこれで」
二人の世界に背を向けて立ち去ろうとするエリカを、ルシアナがまたもや呼び止める。
「待って、エリカ! わたくし――――」
「セブリアン殿下が結婚するのは、私ではありません。それにルシアナ様の話が正しければ、精霊王の加護も、冠も光魔法も、私が手に入れるはずだったそうですが、全部ルシアナ様が手に入れています。その時点で、もう物語と同じ筋書きにはなりませんよ」
「それは! だって、あなたが全然、殿下とも精霊とも仲良くなってくれないから! このままだと冠も精霊王も見られない、と思ったら我慢できなくて…………精霊に好かれる方法は漫画で知っていたから、駄目もとでやってみたら…………まさか、本当にわたくしが精霊王の加護や冠や、あの光魔法との契約を手に入れるなんて、思わなかったの! 漫画ではルシアナは、低位の光魔法がやっとだったから! あなたが契約した低位の光魔法、植物の成長を促進させるだけのあの魔法が、本来、ルシアナが契約するはずだった魔法なのよ!!」
「今さらそんなことを言われても…………」
もう少しお金になる魔法と契約したかった――――そうぼやいたエリカに、ルシアナは懸命に弁解する。
「今、あなたの契約式をやり直せないか、学園側と交渉しているわ。わたくしがお父様にお願いして――――」
「お忘れですか? 魔法の契約は一生に一度きり。十六歳の誕生日を迎えて最初の夏至の日の夜だけですし、契約できる魔法も一人につき一種類だけです。公爵家の権力をもってしても、どうにもならないこの世界の理です」
この世界では、魔法は訓練や修行の末に体得するものではなく、契約して得るものだ。
魔法の素質がある、と認められた者は十四歳の誕生日を迎えると魔法学園に送られ、二年をかけて契約者に必要な知識を学び、魔法の行使に耐えるための体力を養って、契約しやすい体質を養うための食事療法をおこなう。
そうして十六歳の誕生日を迎え、最初の夏至の夜に教官たちに見守られて、契約式を行う。
すると魔法のほうから学生を選んで降臨し、選ばれた学生は魔法と契約して、この世界におけるその魔法の唯一の行使者となる。
そして契約者がこの世を去ると、魔法ももとの世界に戻って、ふたたび契約式を待つのだ。
どんな契約者も、契約できる魔法は一生に一種類だけ。自分から魔法を選ぶことはできず、変更もできない。
それがこの世界における絶対の理だった。
「私は一生、この魔法と付き合います。ルシアナ様も、契約された魔法を大事になさってください。それでは」
「待って、エリカ!! わたくし、わたくし、本当に悪気はなかったの! 本当に、こんなことになるとは思わなかったのよ! わたくしは心からあなたの幸せを願っていたし、お友達になりたいと思っていたわ!! だから、お願い! 退学なんて――――!!」
大きな荷物――――寮の自室に置いていた私物を詰めた鞄を持って校門を出ようとするエリカに、ルシアナはすがるように叫んだが、エリカの口調は平坦だ。
「辞めるしかありません。もう、お金がないんです。あなたたちは、筆記用具も教本もいくらでも手に入るのかもしれませんが、平民の私は、一つ買い替えるのも大変なんです。それなのに、あんなにひんぱんに隠されたら。たとえ破損していなくても、試験や課題提出が終わったあとに紙やペンを戻されたって、意味ないんです! 孤児院からは、学費なんて出ない! 学費免除の特待生でなければ、入学なんてしませんでしたよ! あなた方大金持ちの貴族には一生、わからない感覚でしょうけれど!!」
「…………っ」
ルシアナは蒼白になり、ふらり、とゆれた彼女の華奢な肩を、セブリアン殿下が支える。
「黙って聞いていれば…………っ」
王太子の供が二人、進み出た。王太子の将来の側近候補と、ルシアナ付き侍女だ。
「学費の件は気の毒だが、ルシアナ嬢は本意ではなかった、とおっしゃっている! 公爵令嬢ともあろう方が、あれほど熱心に謝罪を重ねておられるのに、平民風情が…………」
「そうですわ! この件はきっちり旦那様に報告して――――」
「やめろ、二人共」
王太子が有無を言わさぬ口調で部下を制すると、エリカに向き直る。
「ルシアナの罪は私の罪だ、エリカ嬢。ルシアナと共に、私も謝罪する。そのうえで、どうか戻ってきてくれないか。君がこうむった損失は、私が責任もって補填する。魔法の件も、王太子の権限においてできる限りのことをすると誓う。配下にもひきつづき護衛させて、良からぬ者は一切近づけないと約束しよう。それでは駄目か?」
「無理です」
セブリアン王太子の真剣な言葉に、けれどエリカは迷いなく断言する。
「私は、もうここの人達が大嫌いなんです」
エリカはくるりと体ごと来た道をふりかえって、いつの間にか集まって経緯を見守っていた生徒たち一人ひとりを見た。
「持ち物を隠されたことも、嫌味や陰口を言われたことも、娼婦だの悪女だの噂されて事実を確認もせず鵜呑みにして、私をそう扱ってきた人たちも。みんな大嫌い」
貴族の子女が集まるだけあって、直接的な暴力や物品の破損はなかった。
特にセブリアン王太子が事態に気づいて、部下たちにエリカの周囲をそれとなく見張らせるようになってからは、なおさらだ。
ただ、悪口を言われたり陰口を叩かれたり、物を隠されて、時には無視されただけ。
けれど、肉体が傷つかなかったかといって、心もそうとは限らない。
「『一晩いくらだ?』、なんて言われたこともあります。平民だからって、結婚前の娘に恥知らずな。貴族だったら平民を弄んで捨てていい、なんて本気で信じているんですか? 貴族だからこそ、平民以上に品位や品格が求められるのではないんですか?」
セブリアン王太子の眉が苦渋にひそめられ、集まっていた男子生徒の何人かが視線をそらす。
「で、でも。わたくしは…………本当に、なにも命じていないの。誰にもなにも…………」
弱々しいルシアナの反論に、エリカはふたたび門を、ルシアナやセブリアンたちと向き合う。
「何も命じていないから。だから自分のせいではない、と? 公爵令嬢が、未来の王太子妃が人前であからさまに特定の誰かに嫌味をくりかえせば、周囲はそれに追従すると、微塵も考えなかったんですか? 王妃教育って、そういうことも習わないんですか!?」
「…………」
「ルシアナ様がそういうことを言って、たしなめる方もいたでしょう。そういう方は道理をわきまえた忠臣です、大事にすべきです。ですが世間は、そういう忠臣より、同調して悪口をいう人間のほうが多いんですよ。そっちのほうが簡単だし安全だし、だいいち楽しいんですよ、他人の悪口陰口って。嫌がらせをしてやりたい、安全地帯から誰かをいたぶって楽しみたい、でも普通の人を苛めたら、自分が周囲から非難される。それは嫌。自分が傷つく覚悟はない。だから、苛めても文句を言われない人間、誰からも嫌われている人間を探すんです。権力者からあからさまに嫌われている人間なんて、格好の的です。――――王太子妃って、大勢の人の上に立つ立場なのに、そういうことはなにも教わらなかったんですか? 『王太子殿下の婚約者』、その肩書がどれほどの重みを持つか、まったく理解していなかったんですか!?」
「――――っ!」
「本気でわからなかったなら、ルシアナ様はよほど周囲の人間関係に恵まれたんでしょう、おめでとうございます。今の環境によく感謝して生きていかれるべきだと、心から思います。人間って、本当に残酷でクソですよ。一度『こいつは攻撃しても大丈夫だ』と認定したら、本当にクソになるんですから、貴族の高貴もなにもない。はっきり言って、言葉の通じない動物でした。いえ、動物のほうが餌をやればなつく分、まだ可愛い」
エリカは顔だけ背後を向いて、集まっていた生徒たちをにらんだが、誰も彼女を見つめかえそうとせず、ただ気まずげにうつむくだけだ。
「わたくし…………っ、わたくし…………」
ルシアナの美しい顔がゆがみ、とうとう嗚咽がもれ出す。
エリカは最後の言葉を彼女たちに投げつけた。
「悪気がなければ。この程度の嫌味や嫌がらせなら。こんなことになるとは思わなかったのなら、あとで謝りさえすれば。許してもらえる。そう思いましたか? ――――冗談じゃない」
夕陽の赤い光の中、一瞬、エリカの瞳からきらめきがこぼれて散る。
「一生、許さない」
「わっ」とルシアナは泣き出し、恋人があたたかい腕の中に包み込む。
校門の手前、一人立つエリカの肩や頬を、肌寒い夕風がなでていく。
エリカは鞄を持ち直して歩き出した。
門を抜けて、通りに出る。
「わたくし、わたくし、本当にそんなつもりは…………っ。本当に運命を変えたかった、エリカと友達になりたかったのに…………っ」
さめざめとした泣き声が遠ざかっていく。
(――――だったら、はじめからそういう態度をとってくれれば、良かったのに――――)
せかせか大股で歩きながら、エリカはぽつり、思った。
こらえていた涙があふれ出して、ぽろぽろ滴る。
エリカだって、友達になれるかも、と夢見た時があったのだ。
初めて訪れた王都は大きく華やかで、学園は壮麗で。
偶然、見かけたベルナル公爵令嬢はとても美しくて気品にあふれていて、想像の中の『お姫様』そのもので。
こんな人と友達になれたら、どんなに楽しいだろう。
そう、夢見た時があった。
セブリアン殿下だって、本当は憧れていたのだ。
身分の差はわかっている、だから恋人なんて夢見たりはしない。
ただ一度でいいから、偶然でいいから、少しでいいからお話できれば。そう願った。
だから、ルシアナとの待ち合わせ場所に何故かセブリアン殿下がいて、殿下に大図書館や大公園を案内されて、お昼までごちそうになった日、エリカは天にも昇るような心地だった。
あの一回きりで終わっていれば、一生忘れられない美しい楽しい思い出として、胸に残しておけたのに。
ルシアナが何度もくりかえすから。
エリカが待ち合わせ場所に姿を見せるたび、セブリアンが見せた落胆の表情。
エリカではないのだ、という現実。
『今後、このような小細工はひかえてほしい――――』
疑惑と軽蔑を含んだ、あの拒絶の瞳。
あんな反応を何度も見たくなかった。
あんな目で、あんなことを言われたくなかったのに。
「…………っ、う…………っ」
エリカの口から、こらえきれない嗚咽がもれる。
いったんどこかで休もう、と一人で泣ける場所をさがして周囲を見渡した時。
「大丈夫ですか?」
優しい声がかけられた。
「よかったら、どうぞ」
クリーム色のきれいなハンカチが差し出される。
「いえ、大丈夫です」
高級品らしき布地にエリカは遠慮するが、相手はふんわりほほ笑む。
「遠慮しないで。泣きたい時には泣いておかないと。明日に向かえなくなってしまいます」
「…………っ」
エリカの手から鞄がすべり落ちて、どさり、と地面に倒れる。
借り物のハンカチに顔を埋め、とうとう、わんわん泣き出してしまった。
宵空の下、どこの誰とも知らぬその人は、エリカが泣き止むまで待ってくれていた。