誰かのために生きること
この世界の救いが、作られたものだとしたら。
それを知ってしまったとき、人はどこへ向かうのだろうか。
森の奥、苔むした石段をふたりの少女が上っていた。
ここはプレシア教以前に祀られていた神殿の跡地。
異端の里の老人が「書かれざる記録が残っているかもしれない」と教えてくれた場所だった。
「……ここ、ですか?」
フランが足元を見て言う。
崩れかけた拝殿の石の下に、細い階段があった。
「ええ。……何かがある気がするの」
アリアの声は、どこか熱を帯びていた。
神を信じていたころの祈りではない。
それはもっと――知ろうとする者の目だった。
◇ ◇ ◇
地下の祠は、思ったより狭く、空気は長年の封鎖で濁っていた。
アリアは湿った壁をなぞりながら進み、朽ちかけた書棚にたどり着く。
「これは……」
積み重ねられた布張りの書物のなかに、一冊だけ革表紙の古文書があった。
『連結の理と魂の分離について』
「……教義で言う結びは、元々人と人の縁を意味していたのよ。神に還る魂、じゃなく、誰かと繋がる魂」
アリアは文書を読みながら、ぽつりと呟くように言った。
「ねえフラン……神のために死ぬことが結びなんじゃなくて、誰かのために生きることこそが、結びだったのかもしれない」
フランはアリアの横顔を見つめる。
その眼差しは、かつて王都の誰も見たことのないものだった。
高貴でも、聖なるでもない。
ただ、ひとりの人間として知を欲し、問いを立てる人間の目。
その瞬間、フランは胸の奥で、
言いようのない不安と孤独に襲われた。
アリアは、どんどん私の知らない人になっていく。
追いかけて、守って、逃がしたはずの背中が、いまや前を歩いている。
「……すごいですね、アリア様は」
そう言うと、アリアはふっと微笑んだ。
「すごくなんてないわ。私は、何も知らなかっただけよ。今やっと、知ろうとしてるだけ」
その言葉が優しくて、でも遠かった。
◇ ◇ ◇
一方そのころ、異端の里の南、峠の尾根道。
ディアスは部下を下がらせ、ひとり岩の上に立っていた。
夜風が金の髪を揺らし、彼の目は遠くに光る集落の灯を見つめている。
「……まさか、またここに来ることになるとはな」
彼は誰にともなく呟いた。
この地に来るのは、十数年ぶりだった。
あのときも、器になるはずだった少女がいた。
儀式の数日前に、逃げた。
そのとき、追手として送られたのが、若き日の彼だった。
「名前も……思い出せない。けれど……」
彼女は、森でディアスに捕まり、自ら剣を喉に当てて命を絶った。
「器は、器のまま死ぬべきではない」
そう言って。
あれが、ディアスにとって初めての「敗北」だった。
王族の誇りでは測れない何かが、その死に宿っていた。
そして今――同じように逃げた妹がいる。
「……君もまた、器のままでは終わらないというのか、アリア」
風が強くなる。
ディアスの外套がなびき、彼の中で過去と現在が重なり始めていた。