信仰の外で
その集落は、地図に載っていなかった。
山と谷に囲まれた地形。
城都から遠く、交易も断たれ、ただわずかな人数が静かに火を絶やさず暮らしている。
異端の里と、そう呼ばれていた。
プレシア教の教義に従わず、王家からも存在しない村として放置されている場所。
アリアとフランが辿り着いたのは、そんな村だった。
「……変ですね」
フランがぽつりと呟く。
村人たちは、彼女らに対して何の敵意も示さなかった。
むしろ、どこか懐かしさすら帯びた眼差しで見つめてくる。
焚き火のそばで、年老いた男が茶を淹れていた。
肌は日に焼け、皺の深い顔に穏やかな光が宿っている。
「この地は、かつて原初の結びが祀られていた場所だ。神ペティルの名前が使われる前の、もっと昔の話じゃよ」
「……教義の外側に、神がいたということですか?」
アリアの問いに、老人はゆっくりと首を振った。
「神は、教義の中にしかおらんかったのかもしれんの。昔は魂を神に還すことが救いではなかった。ここで生き抜くことが、唯一の祈りだったのじゃ」
その言葉が、アリアの胸を深く突いた。
ずっと還ることしか教えられてこなかった彼女にとって、ここにいること自体が祈りだという発想は、目から鱗のようだった。
「それは……プレシア教の成立以前の話ですか?」
フランが尋ねると、老人は焚き火の薪をくべながら静かに答えた。
「プレシアという名は、王家によって編まれた名じゃ。教義は支配の言葉として整えられた。本来の信仰は、もっと……祈りに近かったよ」
アリアの手が、思わず握られる。
「じゃあ、私が器として生まれた意味は……」
「お前さんは器などではなかった。王がそう呼ぶことで、そうであるように仕立てられたに過ぎん」
静かに告げられた真実は、剣よりも鋭く、神官の言葉よりも重たかった。
◇ ◇ ◇
その夜、アリアは眠れずにいた。
焚き火のそば、誰もいない山小屋の外で、星を見上げていた。
フランがそっと隣に座る。
「考え事、ですか」
「ううん。星を見てたの。王都でも見えたけど、こんなに多くはなかった」
少し沈黙が落ちて、アリアがぽつりとこぼす。
「器として過ごした日々も、無意味じゃなかったって言ってもらいたいのかも」
「意味なら、ありました」
「……あなたは優しいわね」
「違います。私にとって、アリア様がいたから私は信じてこられたんです。それが嘘でも、神様がいなくても……あなたがいたという事実だけは、消えません」
アリアは目を伏せ、火に照らされたフランの横顔を見つめた。
「……もし私が、今度こそ逃げるのをやめて、この国の嘘を暴きに向かったら、ついてくる?」
「はい」
その答えは、もう祈りではなかった。
人としての誓いだった。
◇ ◇ ◇
一方そのころ、王都の外縁部。
山岳地帯の軍道を進んでいたディアスの部隊が、一本の古道に足を踏み入れていた。
「王子。……この道の先は外れの地と呼ばれる一帯です。記録上では荒廃地とありますが……」
「記録は王が書くものだ。そこに何が書かれなかったかが、重要だ」
ディアスは手綱を引き、地図にも記されていない分岐を見つめる。
そこに、幼い頃に聞いたある噂があった。
「昔、器になるはずだった王女が、死なずに消えた」
その王女の名を、彼はもう思い出せなかった。
だが、今追っている者たちの中に、それを重ねていた。
足跡は、静かに、だが確実に交差しはじめていた。