あなたの光でいる
朝焼けが、麦畑を金に染めていた。
風に揺れる麦の先に、小さな人影がふたつ。
アリアは背中に包みを背負い、フランの手を引いて歩いていた。
血に濡れた袖はすでに洗い流されている。
だが、手のひらにはまだ、その温度が残っていた。
「……本当に、行くんですね」
「行くわ。ここにいたら、また誰かを巻き込むだけ」
フランは黙って頷いた。
口を開いたら、また何かがこぼれ落ちてしまいそうで。
代わりに、彼女は歩幅を合わせてアリアの隣を歩いた。
「あなたの手は、もう神に還らないわ」
「それでいいんです。……あなたが還らないなら、私もいりません」
言葉は、祈りでも誓いでもなかった。
ただ、呼吸と同じように自然で、もう取り消せない選択だった。
そのとき、どこかで鐘の音が聞こえた。
アリアは振り返る。
丘の向こうから、黒い騎馬が連なっていた。
鎧に刻まれた、王家の紋章。
ついに、追手がここまで来た。
「間に合わなかったみたいね」
「……急ぎましょう」
二人は道を逸れて、麦畑の間へと姿を消した。
その背に、王都の名のもとに振るわれる追撃が迫っているとも知らずに。
◇ ◇ ◇
一方そのころ、農村の広場。
第一王子ディアスは、廃屋となった納屋の中で静かに足音を響かせていた。
床には乾いた血痕。壁には斬撃の痕。
「……一晩、遅かったか」
副官が緊張した面持ちで口を開く。
「王子……痕跡は明らかに彼女たちのものかと」
「ああ、間違いない。」
ディアスは剣を構えることもなく、ただ静かに井戸の縁に触れた。
「器は汚された。剣は血を吸った。それでも、まだ救いはあると思うか?」
問いかけは誰にも向けられていなかった。
だが、その場にいた誰もが答えを持たなかった。
ディアスの瞳は、どこか遠い場所を見ていた。
それが、逃げた妹の行く先なのか、それともかつて信じた秩序の残響なのかは、誰にも分からない。
◇ ◇ ◇
夕暮れ、ふたりは無人の谷に辿り着いた。
人の姿も祈りの声もない、小さな渓谷。
静かな川の流れと風の音だけが、そこにはあった。
アリアは、川べりに腰を下ろす。
「……ねえ、フラン。もし私たちがこのまま死んだら、誰が私たちを救われたって言ってくれるのかしら」
「私が言います」
フランは即答した。
それだけは、揺るぎないものだった。
「私たちは、もう誰かの光じゃない。でも、あなたの光でいることはできる」
アリアは、ふっと息を吐いた。
「それ、ずるいわ。……その言い方」
二人は、川の水を手にすくい、互いの額にそっと触れた。
誰にも見届けられない、名もない儀式だった。
けれど、その瞬間だけは確かに、ふたりはひとつだった。