血に濡れた手
夜が明けかけていた。
茜色の光が納屋の木の壁を滲ませるように照らしている。
フランは寝藁の上で、静かに目を開いた。
体の奥に残っていた熱は、確かに引いていた。
回復していた――けれど、それ以上に胸の奥で何かが冷えていた。
アリアが横にいない。
気配が、遠い。
フランは起き上がり、足の痛みに顔をしかめながらも壁を支えに立ち上がる。
傷はまだ痛む。だが今は、それどころではなかった。
外に出ると、朝靄のなかでアリアがひとり、井戸の縁に腰掛けていた。
腕に汚れた布を抱えて、ぼんやりと空を見ている。
「アリア様」
そう呼ぶと、アリアはゆっくりと顔を向けて目を逸らした。
その目を見て、フランは全てを悟った。
「……どうして」
声が震える。
答えを聞かなくてもわかっている。
それでも言わずにはいられなかった。
「どうして……そんなこと、したんですか……」
アリアは言葉を返さなかった。
代わりに、布の中から取り出した瓶をそっと見せた。
薬だ。
「……あなたが死ぬのが、嫌だったの」
その一言が、まるで刃のようにフランの胸を裂いた。
「じゃあ、あなたが傷つくのは……よかったってことですか……?」
「違う。でも、私にはそれしか……」
フランの頭の奥で何かが軋んだ。
世界の色が、ぐらりと揺れた。
ゆっくりと視線を巡らせると、小屋の裏手で男が笑っていた。
昨夜のことを思い出しているかのように、こちらを見ながら。
フランの足が、自然に動いた。
◇ ◇ ◇
小屋の中。
男はまだ朝食前の残り火で、煮豆をかき混ぜていた。
そこへ、足音もなくフランが現れる。
「……あんたか。もう歩けるのかい。お姫様は朝から静かだったが……」
フランは、剣を抜いていた。
男が言葉を止めた。
静かな納屋に、鞘から抜けた金属音が響く。
「……おい、まさか……」
「あなたは、アリア様を汚した」
「待て、待て。取引だろう?お互いに得があって……!」
男が逃げようと腰を浮かせた瞬間、剣が振り下ろされた。
血の音。
叫びもなかった。
ただ、命の重さだけがその場に落ちた。
フランの手は、震えていなかった。
剣を引き抜くと、ゆっくりと扉を開けて外へ出た。
◇ ◇ ◇
アリアは、まだ井戸のそばにいた。
フランが戻ってきたのを見て、顔を上げる。
手に付いた血。服の袖に飛んだ鮮血。
すべてを見て、アリアは何も言わなかった。
「……殺しました」
「……そう」
「私は、器を汚した人間を殺しました。でも、それ以上に……あなたを傷つけたことが……許せませんでした」
アリアは近づいてきたフランの手を、そっと握った。
血に濡れていた。ぬるくて、生ぬるくて、生きていた。
「もう、戻れないわよ」
風が吹く。
ふたりの間にあったもの――信仰、任務、王家、すべてが、跡形もなく吹き飛んでいった。