神の見ていない夜
朝霧はとっくに晴れていたが、フランの視界はまだぼんやりとしていた。
足の傷は浅くはなかった。
手当ては受けたが、道具も薬も限られている。
夜になって熱が上がり、身体は汗でしっとりと湿っていた。
「動かないで。大丈夫、ここにいるわ」
アリアの声がすぐそばで聞こえる。
冷たい布が額にあてられ、熱がほんの少しだけ和らいだ。
「……すみません……私、護衛なのに……」
「黙って休んで」
やわらかく言いながらも、アリアの声にはぴしりとした強さがあった。
こんなふうに命じられるのは初めてだったかもしれない。
――この人はもう、器じゃない。
自分の意志で選び、動き、隣にいる。
フランはその事実に、言いようのない安堵を覚えた。
だが、それは同時に、恐ろしいことでもあった。
◇ ◇ ◇
「傷の様子が思ったより悪い。薬がないと……」
アリアはそう呟きながら、納屋の外に出ていった。
老夫婦の家の裏手、畑の道具小屋の前。
そこにいたのは、夫婦の息子――三十がらみの男だった。
物腰は穏やかだった。
が、その目にはどこか計算があった。
「……薬が欲しいのかい。あんたら、怪我人なんだろう?」
「はい。手当が続けられないと、あの子は……」
「そりゃ、かわいそうだ。……だがうちにも余裕はない。外に出れば兵の目が光ってる。追われてるって話も、もう村に回ってる」
アリアは何も言わなかった。
けれど男が踏み込むように一歩近づいたとき、彼女の背筋に小さな冷気が走った。
自分の身体がどう見られているかを、初めて理解した。
信仰の象徴だったはずの存在が、今ではただの女だった。
「……私に、触れれば薬が出てくるとでも?」
「薬と、あと……口止めだな」
しばらくの沈黙。
アリアは微かに唇を噛んだ。
そのとき心に浮かんだのは、床に伏せたフランの寝顔だった。
あの子は、自分のために剣を抜いた。
神を捨て、秩序を捨て、命まで捨てようとした。ならば、今度は自分が選ぶ番だ。
「……わかりました。……私が、払います」
そう言った声には、震えがなかった。
◇ ◇ ◇
夜。
フランはうなされながらも、うっすらと意識を取り戻していた。
かすれた視界の中で、アリアの背が見える。
あの人の髪が、服が、微かに乱れていることに気づいた。
アリアが、いつもと違う匂いをしている。
それが何を意味するのか、理解するのに時間はかからなかった。
「……アリア、様……」
フランがそう呼びかけたとき、アリアはふっと振り返って、微笑んだ。
「大丈夫。薬、もらえたわよ。……よかった、間に合って」
その笑みは、信じられないほど優しくて痛かった。
◇ ◇ ◇
一方、王都から南へ三十リーグの駐屯地。
第一王子ディアスの率いる親衛部隊が、小村の包囲網を完成させつつあった。
「器の痕跡がこの村にあるとの報告です。数日前、女二人が匿われていたと……」
従騎士の報告に、ディアスは剣の柄に指を添えたまま言った。
「器は、光でなければならない。闇に堕ちたなら、それはもはや人ではない」
その声には怒気も激情もなく、ただ静かな冷たさがあった。
王の名のもとに。
神の名のもとに。
器を討つ剣は、今まさに振り下ろされようとしていた。