それでも祈っていた
朝の霧が、森をうっすらと白く染めていた。
フランは、傷の癒えきらぬ足をかばいながら、小道を進んでいた。
昨夜の冷気が残る中で、アリアは彼女の腕に手を添えていた。
やがて、森を抜けた先に、農村が現れた。
屋根の低い家々。麦畑の広がる丘。
王都では見られない素朴な生の気配があった。
「隠れ宿を探しましょう。地元の者に紛れて、一晩でも……」
アリアは歩きながら、そっと言った。
「ねえフラン。彼らも還るのかしら」
「……もちろんです。魂はすべて、神のもとに……」
そう言いかけて、フランは言葉を飲み込んだ。
脳裏に焼きついている。――あの夜。
異端とされた村で、火に包まれてなお祈っていた人々の姿。
燃えていたのは家屋だけではなかった。
神殿兵に異端と断じられた村人たちは、逃げることを禁じられ、ただ火の中で、膝をつき、祈りを捧げていた。
老人も、母親も、幼い子も。
誰ひとり叫ばなかった。
炎が肌を焼き、煙が肺を侵しても、彼らは微笑んでいたのだ。
「還れる……」
誰かがそう呟いた。
声は震えもせず、確信に満ちていた。
フランは命じられたとおりにその場を監視していた。
信仰の敵を処理された者として数え、自分の手は汚していないと、言い訳のように心の中で繰り返していた。
けれど、火が村人を包み込むその光景は、清めでも救いでもなかった。
フランは祈った者たちが救われると、心から信じていた。
けれど、あの光景を思い返すたびに、胸にざらりとした違和感が残った。
信じたくなかった。
でも、アリアの問いは確かに正しかった。
丘の向こうに、炊煙の上がる小屋が見えた。
そこでふたりは、昼過ぎに老夫婦の農家に宿を乞うことになる。
◇ ◇ ◇
「泊めてもらえたのは幸運ね」
そう言ったアリアの声には、少し疲れが滲んでいた。
フランは納屋の藁の上に横になりながら、天井の木組みを見つめていた。
老夫婦は優しく、怪我の手当もしてくれた。
夕食のパンと煮豆は、王宮では考えられないほど粗末だったが、なぜか胸に沁みた。
「さっきの老夫婦が言ってたわ。神様に仕える者は立派だって。でも、それは私が死ぬからでしょ?」
言葉が、藁の上に落ちる。重く、やわらかく。
フランは返す言葉を持たなかった。
アリアの背中から、微かな寂しさが漂っていた。
「私が明日も生きて、普通の女として畑を耕したら……その時も、彼らは立派だって言うのかしら」
「……きっと、言います」
「本当に?」
「……言ってほしい、です」
言葉にするたび、フランの胸に針のような痛みが走る。
正しいと思っていたことが、揺れる。
信仰とは何だったのか、自分は誰を信じていたのか。
火が爆ぜる音が、ふたりの沈黙を包む。
そしてその夜、アリアは初めて夢を見る。
それは王宮の夢ではなく――誰かと肩を並べて畑を耕す、小さな夢だった。
◇ ◇ ◇
一方そのころ、王都・中央広場。
第一王子ディアスの号令のもと、王女アリア脱走の追捕令が全国へ向けて発布されていた。
「器の逸脱は、信仰への反逆である。全土の治安維持兵は、発見し次第拘束を許可する」
広場で朗読される勅命を、民衆は沈黙して聞いていた。
誰もが知っていた。器は神に還るものだと。
だが、彼女が逃げたとなれば話は違う。
神に捧げられるべき魂が、神に背いた。
それは、教義の根幹を揺るがす事態だった。
民衆の間に、目に見えないひびが走る。
ディアスは、勅命の書に署名し、無言で城の奥へと戻っていった。
その目には、怒りも悲しみも浮かんでいない。
あるのはただ、王族として果たすべき義務だけだった。