火のない夜に
夜風が頬を打つ。
森の奥、誰も通らぬ獣道を駆けながら、アリアは自身の心臓の鼓動に驚いていた。
ずっと聞こえなかった音。
静寂の中で眠らせてきた、命の音。
フランの手が、彼女の腕を引いていた。
頼りなく細い指だったけれど、その力は強かった。
迷いのない、決意に満ちた走りだった。
「……こっちです。衛兵の目はもう届きません」
その直後、フランが一瞬バランスを崩し、足元の岩に足をぶつけた。
折れた枝か、飛び出た石か。
フランの足首のあたりから細く赤い血が滲んでいた。
「っ……!」
「フラン……!」
アリアが駆け寄り、手を取る。
フランは首を振りながら、地面を蹴って立ち上がろうとする。
「平気です。傷は浅い……血もすぐに止まりますから」
そう言いながらも、血は少しずつ布を濡らしていた。
しばらくして、森の中の小さな廃屋にたどり着いた。
屋根は抜けかけていたが、壁はまだ風を防げた。
夜露をしのぐには十分だった。
アリアはフランの腕を支えながら中へ入り、そっと地面に座らせる。
「足……ちゃんと見せて」
「大丈夫です、消毒すれば……」
「消毒なんてないのよ。水で流すしかないけど、巻いておくわ」
フランは観念したように頷いた。
そのまま、二人はしばらく何も言わなかった。
互いの呼吸音と、虫の声だけが耳を満たす。
「……アリア様」
「ええ」
「……私の行動は、間違っていましたか?」
その声は震えていた。
強く握られていたはずの手も、今はそっと離れている。
アリアは床に座り、星のない夜空を見上げた。
「ねえ、フラン。あなたは還った人を、見たことがある?」
「……それは……」
「還った人は、魂が結びとなって、ペティルの元へ……」
アリアの声は柔らかく、でもどこか冷めていた。
問いかけというより、誰にも届かない独白のようだった。
「私は、生まれたときから還るものとして育てられたわ。痛みも、疑問も、欲も捨てて、ただ神のもとに還る器」
「……知っています」
「でも、私、知らないのよ。神様の顔も、園の姿も。誰も見たことがない救いのために、生きて、死ぬって……本当に、意味があるのかしら」
フランは黙ったままだった。
彼女の信仰にとって、それは簡単に口にできる問いではなかった。
「あなたは、私を還したくないと言ったわね」
「……はい」
「どうして?」
「……あなたが生きているからです」
アリアは、わずかに目を見開いた。
その言葉はまっすぐで、あまりにも愚かだった。
けれど、美しかった。
フランが顔を伏せる。
手のひらを、祈るように重ねていた。
「……もし、私たちが間違っていたら、私は地獄に堕ちるんでしょうか」
「地獄を信じているの?」
「……信じていました。でも、今は分かりません」
火のない夜だった。
けれど、ふたりの言葉だけが、森の奥で小さく燃えていた。
◇ ◇ ◇
そのころ、王都アイシーンの王宮――深夜の謁見の間。
第一王子ディアスは、部下の報告を無言で聞いていた。
祭壇が血で汚れたこと、王女が逃亡したこと、そして剣を抜いたのが護衛騎士フランだったこと。
「……器が逃げた、か」
ディアスは眉一つ動かさず、静かに立ち上がる。
玉座の背後に飾られた一振りの剣――先代王が佩いたもの――を手に取った。
「この国の秩序は、神によって保たれている。神に捧げられるべき器が意志を持つなど、許されないことだ」
金の甲冑を身にまとう従騎士たちが一斉に膝をつく。
「第一王子ディアス=アイシーン。神と王の名のもとに、反逆者の処罰を執行せよ」
玉座の間に、重く高い鐘の音が鳴り響いた。